偉人の年収「小篠綾子」 ― 2025-03-05
2025年3月5日 當山日出夫
偉人の年収 How much ? 小篠綾子
言うまでもないが、小篠綾子は、『カーネーション』の小原糸子のモデルである。
見ていて、なるほど、ドラマはかなり事実に即して作ってある、ということが理解できる。パッチ屋での仕事も、看護婦さんの制服も、立体裁断も、史実である。(まあ、逆に、この番組を見る人の多くは、朝ドラを見ているだろうから、それに合わせてあるという部分もあるかと思うが。)
七〇歳をすぎてから、高齢者向けのファッションとして独自ブランドを立ち上げるというのは、史実としてそのとおりだとはいえ、やはりそこには、生涯、ファッションの世界のクリエイターでありつづけたい、という強い熱意があってのことであろう。九〇歳になっても、毎週のように講演会に出ていたというのも、これはすごいと思う。
面白かったのは、「ピアノ買うて」の紙が家中にあったのが、実話だということ。
人間、歳をとってどのように生きるのかと、いろいろと考えることになるが、このように生きるのも一つのあり方だとは思う。(でも、はっきり言って、私は、真似しようとは思わない。引退すべきときには退いて、ゆっくりと時間をすごしたいと思っている。)
歴史上の人物をモデルにドラマを作るとき、史実に忠実に作る、そして、その時代のなかで生きた人間の気持ち、喜怒哀楽を、時代の背景のなかで描く、それこそが普遍的な人間のドラマとなる……この基本を守ったのが、『カーネーション』が傑作となった理由だと思うことにもなった。
2025年3月5日記
偉人の年収 How much ? 小篠綾子
言うまでもないが、小篠綾子は、『カーネーション』の小原糸子のモデルである。
見ていて、なるほど、ドラマはかなり事実に即して作ってある、ということが理解できる。パッチ屋での仕事も、看護婦さんの制服も、立体裁断も、史実である。(まあ、逆に、この番組を見る人の多くは、朝ドラを見ているだろうから、それに合わせてあるという部分もあるかと思うが。)
七〇歳をすぎてから、高齢者向けのファッションとして独自ブランドを立ち上げるというのは、史実としてそのとおりだとはいえ、やはりそこには、生涯、ファッションの世界のクリエイターでありつづけたい、という強い熱意があってのことであろう。九〇歳になっても、毎週のように講演会に出ていたというのも、これはすごいと思う。
面白かったのは、「ピアノ買うて」の紙が家中にあったのが、実話だということ。
人間、歳をとってどのように生きるのかと、いろいろと考えることになるが、このように生きるのも一つのあり方だとは思う。(でも、はっきり言って、私は、真似しようとは思わない。引退すべきときには退いて、ゆっくりと時間をすごしたいと思っている。)
歴史上の人物をモデルにドラマを作るとき、史実に忠実に作る、そして、その時代のなかで生きた人間の気持ち、喜怒哀楽を、時代の背景のなかで描く、それこそが普遍的な人間のドラマとなる……この基本を守ったのが、『カーネーション』が傑作となった理由だと思うことにもなった。
2025年3月5日記
BS世界のドキュメンタリー「亡き人と話せたら AIがひらく危うい世界」 ― 2025-03-05
2025年3月5日 當山日出夫
BS世界のドキュメンタリー 「亡き人と話せたら AIがひらく危うい世界」
2024年、ドイツの制作。
AIをめぐっては、いろいろと本もあるし、テレビ番組もある。まあ、NHKが作ると、多くの場合、東京大学の松尾豊が登場して、AIの明るい未来について語ることが多いのではあるが。
この番組をAIの問題として見ることもできるが、その一方で、人間の側に視点をおいて、人間とはこういうもの……人間は人の死というものをどうやってうけいれるのか……と考えることもできるだろう。少なくとも、AIの登場によって、人間の死生観に変容を迫られるということは、確実にあるにちがいない。
これは、AIが死んだ人間の代わりに出てくる、というよりも、人間の側として、そのようなAIのふるまい(チャットであったり、仮想空間であったり)に対して、あたかも、本物の人間(死んだ人)がいるかのように感じてしまう、その人間の感性のあり方とか、考え方の問題として、とらえることもできるかと思う。
この番組で出てきたようなことは、今のAI技術なら、そう難しいことではないはずである。
AIの最大の問題点の一つは、その内部で何がどうなっているのか、開発した技術者でも分からないことが起きている、ということにある。つまり、人間が、AIをコントロールすることが出来ていないのである。これは、もし、AIが暴走したらどうなるか、この危険性をうったえる人は多い。
人間を模してチャットで答えてくれるAIについては、肯定的にとらえるむきもある。AIとことばのやりとりをすることによって、自分の考えていることが、徐々に形づくられて具体化していくということがある。こういう報告もある。これを、良く考えれば、自分の感情やアイデアの言語化を手助けしてくれるということになる。しかし、その一方で、人間がAIに感情や思考を操られてしまう、ということにもなる。
もしAIに人間の脳のすべてを移すことが出来たとしたら、いったい何が起こることになるのだろうか。これは、もはやSF的な空想のことではなく、現実の問題として考えなければならない課題になってきている。このとき、人間の無意識(フロイトの語った)は、どのように再定義されることになるだろうか。これを、サイエンスの方法論で、説明しきることが可能になるだろうか。
人間というものは死ぬものであり、その人が生きている間のことを憶えている人も、いずれ死んでいく。その次の世代も同様である。このようにして、世代を重ねて、人間の文化というものが形成されてきた。今の自分のあるのも、過去からの多くの人びとの死の積み重ねのうえにある。だからこそ、これからの未來の世代に対しても責任がある。そのようなものとして死んでいかねばならない。
これまでは、基本的にこのような考え方のもとに、世界のいろんな文化が継承されてきたはずである。その根本的なところが、これから大きく変わっていくことになるのだろうか。
ところで、この番組で、はじめて、シェリー・タークルの顔を見た。その著書(翻訳)はいくつか読んでいる。こういう問題を考えるには、適任の一人だと思う。
2025年3月2日記
BS世界のドキュメンタリー 「亡き人と話せたら AIがひらく危うい世界」
2024年、ドイツの制作。
AIをめぐっては、いろいろと本もあるし、テレビ番組もある。まあ、NHKが作ると、多くの場合、東京大学の松尾豊が登場して、AIの明るい未来について語ることが多いのではあるが。
この番組をAIの問題として見ることもできるが、その一方で、人間の側に視点をおいて、人間とはこういうもの……人間は人の死というものをどうやってうけいれるのか……と考えることもできるだろう。少なくとも、AIの登場によって、人間の死生観に変容を迫られるということは、確実にあるにちがいない。
これは、AIが死んだ人間の代わりに出てくる、というよりも、人間の側として、そのようなAIのふるまい(チャットであったり、仮想空間であったり)に対して、あたかも、本物の人間(死んだ人)がいるかのように感じてしまう、その人間の感性のあり方とか、考え方の問題として、とらえることもできるかと思う。
この番組で出てきたようなことは、今のAI技術なら、そう難しいことではないはずである。
AIの最大の問題点の一つは、その内部で何がどうなっているのか、開発した技術者でも分からないことが起きている、ということにある。つまり、人間が、AIをコントロールすることが出来ていないのである。これは、もし、AIが暴走したらどうなるか、この危険性をうったえる人は多い。
人間を模してチャットで答えてくれるAIについては、肯定的にとらえるむきもある。AIとことばのやりとりをすることによって、自分の考えていることが、徐々に形づくられて具体化していくということがある。こういう報告もある。これを、良く考えれば、自分の感情やアイデアの言語化を手助けしてくれるということになる。しかし、その一方で、人間がAIに感情や思考を操られてしまう、ということにもなる。
もしAIに人間の脳のすべてを移すことが出来たとしたら、いったい何が起こることになるのだろうか。これは、もはやSF的な空想のことではなく、現実の問題として考えなければならない課題になってきている。このとき、人間の無意識(フロイトの語った)は、どのように再定義されることになるだろうか。これを、サイエンスの方法論で、説明しきることが可能になるだろうか。
人間というものは死ぬものであり、その人が生きている間のことを憶えている人も、いずれ死んでいく。その次の世代も同様である。このようにして、世代を重ねて、人間の文化というものが形成されてきた。今の自分のあるのも、過去からの多くの人びとの死の積み重ねのうえにある。だからこそ、これからの未來の世代に対しても責任がある。そのようなものとして死んでいかねばならない。
これまでは、基本的にこのような考え方のもとに、世界のいろんな文化が継承されてきたはずである。その根本的なところが、これから大きく変わっていくことになるのだろうか。
ところで、この番組で、はじめて、シェリー・タークルの顔を見た。その著書(翻訳)はいくつか読んでいる。こういう問題を考えるには、適任の一人だと思う。
2025年3月2日記
映像の世紀バタフライエフェクト「死の大地 ドイツ敗走の2200キロ」 ― 2025-03-05
2025年3月5日 當山日出夫
映像の世紀バタフライエフェクト 死の大地 ドイツ敗走の2200キロ
ここ数年で流れが変わってきたと感じる。おそらく一〇年前だったら、独ソ戦のことをこのような視点で描くことはなかっただろう。変化のきっかけにになったのは、やはり、『独ソ戦』(大木毅、岩波新書)の存在が大きいかと、思うところがある。それに加えて、ロシアとウクライナの戦争で、かつてのヨーロッパでの戦争の記憶がよみがえったということもある。プーチンに、スターリンを重ねてイメージするというところが、(少なくとも日本での報道などを見ていると)感じるところがある。むろん、ロシアにおける、スターリン時代の再評価ということもあるのだろうが。
これまでだったら、とにかく、ヒトラーが悪かった、ということを語っておけば番組が作れた。しかし、ウクライナでの戦争を契機にして、かつてのヨーロッパからソ連にかけての地域で、どんな戦いがおこなわれていたのか、それは、それ以前のどのような歴史的背景があってのことなのか、そして、その後、現在にいたるまでどんな影響を残しているのか……人びとの歴史の記憶、民族の記憶(とでも言っておくことになるが)が、そう簡単に正邪善悪で語れるものではない、ということが確認されてきたということなのかと思う。
独ソ戦、スターリングラード攻防戦、その戦場は悲惨で残酷なものだったことは、映像の語るとおりなのだが、このときに思っておくべきこととしては、そこに映っている兵士(ドイツ軍であれ、ソ連軍であれ)は、もし戦争ということがなければ、平穏な市民生活をおくっていた人びとだったろうということである。そして、戦争が終われば、まさに鬼畜としかいいようのない、ドイツ兵も、ソ連兵も、普通の生活にもどっていったにちがいないということである。
歴史のなかに、ヒトラーが出てきて、スターリンが出てきて、様々な民族と国家の歴史が錯綜するなかでこうなったのだろう……やや、無責任な言い方になるかもしれないが、覚めた目で見てみるならば、こうとしか言いようがないかもしれない。このような人びとの感情、強いていえば民族の怨念、というべきものを、現在の国民国家の制度の枠組みのなかで、どうコントロールしていくかということが、為政者にとっての課題ということになると、今の私としては思っている。
プーチンやゼレンスキーの考えていることとは別に、ロシアやウクライナの人びとが、さらに、そのなかでも地域や階層によって、あるいは民族によって、どのような歴史の心情のもとに生きているのか、これは落ち着いて考えるべきことのように思う。
と同時に、今、行われている戦闘や残虐行為に対して、とにかくストップをかけることも、必要である。特に、ウクライナに限らず、イスラエルでも、ミャンマーでも、そうであるべきだと思う。(だからといって、侵略者が勝利する形にしてはならない、というジレンマもあるのだが。)
2025年3月4日記
映像の世紀バタフライエフェクト 死の大地 ドイツ敗走の2200キロ
ここ数年で流れが変わってきたと感じる。おそらく一〇年前だったら、独ソ戦のことをこのような視点で描くことはなかっただろう。変化のきっかけにになったのは、やはり、『独ソ戦』(大木毅、岩波新書)の存在が大きいかと、思うところがある。それに加えて、ロシアとウクライナの戦争で、かつてのヨーロッパでの戦争の記憶がよみがえったということもある。プーチンに、スターリンを重ねてイメージするというところが、(少なくとも日本での報道などを見ていると)感じるところがある。むろん、ロシアにおける、スターリン時代の再評価ということもあるのだろうが。
これまでだったら、とにかく、ヒトラーが悪かった、ということを語っておけば番組が作れた。しかし、ウクライナでの戦争を契機にして、かつてのヨーロッパからソ連にかけての地域で、どんな戦いがおこなわれていたのか、それは、それ以前のどのような歴史的背景があってのことなのか、そして、その後、現在にいたるまでどんな影響を残しているのか……人びとの歴史の記憶、民族の記憶(とでも言っておくことになるが)が、そう簡単に正邪善悪で語れるものではない、ということが確認されてきたということなのかと思う。
独ソ戦、スターリングラード攻防戦、その戦場は悲惨で残酷なものだったことは、映像の語るとおりなのだが、このときに思っておくべきこととしては、そこに映っている兵士(ドイツ軍であれ、ソ連軍であれ)は、もし戦争ということがなければ、平穏な市民生活をおくっていた人びとだったろうということである。そして、戦争が終われば、まさに鬼畜としかいいようのない、ドイツ兵も、ソ連兵も、普通の生活にもどっていったにちがいないということである。
歴史のなかに、ヒトラーが出てきて、スターリンが出てきて、様々な民族と国家の歴史が錯綜するなかでこうなったのだろう……やや、無責任な言い方になるかもしれないが、覚めた目で見てみるならば、こうとしか言いようがないかもしれない。このような人びとの感情、強いていえば民族の怨念、というべきものを、現在の国民国家の制度の枠組みのなかで、どうコントロールしていくかということが、為政者にとっての課題ということになると、今の私としては思っている。
プーチンやゼレンスキーの考えていることとは別に、ロシアやウクライナの人びとが、さらに、そのなかでも地域や階層によって、あるいは民族によって、どのような歴史の心情のもとに生きているのか、これは落ち着いて考えるべきことのように思う。
と同時に、今、行われている戦闘や残虐行為に対して、とにかくストップをかけることも、必要である。特に、ウクライナに限らず、イスラエルでも、ミャンマーでも、そうであるべきだと思う。(だからといって、侵略者が勝利する形にしてはならない、というジレンマもあるのだが。)
2025年3月4日記
所さん!事件ですよ「アジアで争奪戦!?“リユース”最新事情」 ― 2025-03-05
2025年3月5日 當山日出夫
所さん!事件ですよ アジアで争奪戦!?“リユース”最新事情
テレビのHDに残っていたのを、ようやく見た。
このごろ日本で遺品整理などの業者のことが、テレビ番組などでとりあげられることが多い。多くは、その仕事の様子についての取材である。整理して引き取った品物が、その後、どうなるのかということについて、追跡した番組はあまりなかったと思う。
タイで、日本からのリユース品(中古品)が、非常に人気があるというのは、とても興味深い。あんなものまで、日本の中古品を買って使うのかと驚く。仏壇まで、輸出するというも、需要があればこそなのだろう。
その品物を送り出す日本の業者についても、紹介していた。興味深かったのは、着物の簞笥が、海外では利用価値が無いので、木材としてリサイクルしかない、というのは、そういうものなのかと思う。
コンテナにいっぱいの中古品が、たくさん、日本からタイに送られている。それをタイで、さらに転売する。その手法として、オンラインのリアルタイムでの販売がさかんとのこと。(こういう商売のあり方は、日本では、どうなのだろう。私が興味ないだけで、一部ではおこなわれているのかとも思うが。ただ、中古品の売買は日本では誰でもできる訳ではないはずだが、どうなのだろうか。)
日本の場合の特殊性なのだろう、人形、特にひな人形については、なかなか簡単に手放すことができない。だからこそ、日本のいろんなところで、人形供養というようなことがある。同じようなことは、古い写真についてもある。
デジタル遺産については、私自身は、もうどうでもいいと思っている。書いた論文などは、しかるべきところで刊行され、図書館などに入っている。暗号資産を持っているわけでもない。また、日々に書いているこのような文章は、いずれ消えて無くなればいいと思っている。まあ、大量にあるのは、本であるが、これは、専門書のあつかいを専門する古本屋が、どうにかしてくれればいいだろう。国立国会図書館のサービスがあるとしても、実物の紙の本の専門書の需要は、あり続けるだろうとは思っている。
2025年2月28日記
所さん!事件ですよ アジアで争奪戦!?“リユース”最新事情
テレビのHDに残っていたのを、ようやく見た。
このごろ日本で遺品整理などの業者のことが、テレビ番組などでとりあげられることが多い。多くは、その仕事の様子についての取材である。整理して引き取った品物が、その後、どうなるのかということについて、追跡した番組はあまりなかったと思う。
タイで、日本からのリユース品(中古品)が、非常に人気があるというのは、とても興味深い。あんなものまで、日本の中古品を買って使うのかと驚く。仏壇まで、輸出するというも、需要があればこそなのだろう。
その品物を送り出す日本の業者についても、紹介していた。興味深かったのは、着物の簞笥が、海外では利用価値が無いので、木材としてリサイクルしかない、というのは、そういうものなのかと思う。
コンテナにいっぱいの中古品が、たくさん、日本からタイに送られている。それをタイで、さらに転売する。その手法として、オンラインのリアルタイムでの販売がさかんとのこと。(こういう商売のあり方は、日本では、どうなのだろう。私が興味ないだけで、一部ではおこなわれているのかとも思うが。ただ、中古品の売買は日本では誰でもできる訳ではないはずだが、どうなのだろうか。)
日本の場合の特殊性なのだろう、人形、特にひな人形については、なかなか簡単に手放すことができない。だからこそ、日本のいろんなところで、人形供養というようなことがある。同じようなことは、古い写真についてもある。
デジタル遺産については、私自身は、もうどうでもいいと思っている。書いた論文などは、しかるべきところで刊行され、図書館などに入っている。暗号資産を持っているわけでもない。また、日々に書いているこのような文章は、いずれ消えて無くなればいいと思っている。まあ、大量にあるのは、本であるが、これは、専門書のあつかいを専門する古本屋が、どうにかしてくれればいいだろう。国立国会図書館のサービスがあるとしても、実物の紙の本の専門書の需要は、あり続けるだろうとは思っている。
2025年2月28日記
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