100分de名著「ヘーゲル“精神現象学” (1)奴隷の絶望の先に」 ― 2025-03-08
2025年3月8日 當山日出夫
100分de名著 ヘーゲル“精神現象学” (1)奴隷の絶望の先に
再放送である。2023年5月の放送。
流れとして、デュルケームの『社会分業論』の次にこれを、再放送で持ってくることは、まあ、なんとなく理解できる。人間とは、相互に依存して存在しているものである、ということをどう語るか、ということになる。
これはこれとしていいのだが、斎藤幸平については、(特にここ数年のことについては)私は、まったく評価しない。良心的な研究者ではなく、偽善的な活動家、というイメージしかない。『人新世の資本論』は、確かに一般にはうけるかもしれないが、まやかしでしかない。おそらく、書いた本人はそれに気づいているはずだが、しらばっくれている。
弁証法的思考として考えることは……私の理解では、であるが……常に自分の考え方が正しいかどうか自省するところがあり、異なる意見については、なぜそう考えるのかを思い、自分はなぜそう考えないのかという問いかけを持つものであり、そして、この思考の動きは、ダイナミックに常に動いているものである。この意味では、ヘーゲルも、また、マルクスも、さらに止揚した段階への一階梯ということになるはずである。
しかし、近年の斎藤幸平の言っていることは、マルクス、特に晩年のマルクスが言ったことを、絶対視することになっている。これは、一般向けには分かりやすい議論として提示できることになる。常に真理は、過去の聖人にある、神にある、あるいは、海外の偉い人の最新の理論のなかにある……こういう心性をもった、近現代のいわゆる知識人、インテリには、たしかに受けるだろうとは思う。
人間は他者に依存している存在である……このことは、西洋の偉い哲学者に教えてもらわなければ分からないようなことではないだろう。あえて天邪鬼な言い方をすれば、このようにも言うことができる。これを学問的に論ずるとするならば、その一見すると自明なことのように思えることを、どう論理的に説明するのか、語るのか、という論理のあり方であり、思考のルートである、と思うのである。
2025年3月5日記
100分de名著 ヘーゲル“精神現象学” (1)奴隷の絶望の先に
再放送である。2023年5月の放送。
流れとして、デュルケームの『社会分業論』の次にこれを、再放送で持ってくることは、まあ、なんとなく理解できる。人間とは、相互に依存して存在しているものである、ということをどう語るか、ということになる。
これはこれとしていいのだが、斎藤幸平については、(特にここ数年のことについては)私は、まったく評価しない。良心的な研究者ではなく、偽善的な活動家、というイメージしかない。『人新世の資本論』は、確かに一般にはうけるかもしれないが、まやかしでしかない。おそらく、書いた本人はそれに気づいているはずだが、しらばっくれている。
弁証法的思考として考えることは……私の理解では、であるが……常に自分の考え方が正しいかどうか自省するところがあり、異なる意見については、なぜそう考えるのかを思い、自分はなぜそう考えないのかという問いかけを持つものであり、そして、この思考の動きは、ダイナミックに常に動いているものである。この意味では、ヘーゲルも、また、マルクスも、さらに止揚した段階への一階梯ということになるはずである。
しかし、近年の斎藤幸平の言っていることは、マルクス、特に晩年のマルクスが言ったことを、絶対視することになっている。これは、一般向けには分かりやすい議論として提示できることになる。常に真理は、過去の聖人にある、神にある、あるいは、海外の偉い人の最新の理論のなかにある……こういう心性をもった、近現代のいわゆる知識人、インテリには、たしかに受けるだろうとは思う。
人間は他者に依存している存在である……このことは、西洋の偉い哲学者に教えてもらわなければ分からないようなことではないだろう。あえて天邪鬼な言い方をすれば、このようにも言うことができる。これを学問的に論ずるとするならば、その一見すると自明なことのように思えることを、どう論理的に説明するのか、語るのか、という論理のあり方であり、思考のルートである、と思うのである。
2025年3月5日記
英雄たちの選択「シリーズ 古墳の時代 (1)黄金の馬を育てよ〜地方豪族から見たヤマト王権〜」 ― 2025-03-08
2025年3月8日 當山日出夫
英雄たちの選択 シリーズ 古墳の時代 (1)黄金の馬を育てよ〜地方豪族から見たヤマト王権〜
この時代のことは、国語史、日本語史を勉強すると、特に文字のことを勉強する立場からすると、重要な時代である。
一般的にいえば、であるが……日本への文字(漢字)の伝来は、応神天皇のときのことになる。だいたい四~五世紀のころに、実在したことが確認できる天皇である。朝鮮半島の百済の国から、馬を送ってきた。その馬の世話をする人も一緒にやってきた。名前をアチキ、あるいは、アチキシ、という。(日本書紀と古事記でちょっと違う。)その人が字(漢字)が読めた。それで、もっと漢字を知っている人をよこして欲しいといって、やってきたのが、ワニ、あるいは、ワニキシ、であった。古事記では、論語と千字文を持ってきたと書いてある。論語は儒教の伝来でもあり、千字文は漢字は学習するものとして意識されていたということになる。(ただし、普通にいう千字文の成立は、この時代より後のことになるので、ここは諸説あるところである。)
このあたりが、史書に見える日本への漢字の伝来である。要するに、朝鮮半島から馬が来て、そのおまけの、さらにおまけとして、漢字が日本にもたらされた、という話しになる。
これをどう解釈するかであるが……応神天皇のころは、日本でヤマト王権による古代国家が成立した時代と考えるならば、それに役だったのが馬であり、また、漢字であった。そして、それは、馬を飼う人、漢字を読み書きする人、それを職掌とする人が、朝鮮半島から日本にやってきて、渡来人として居着いて仕事をするようになった時代、このように考えることになる。国語史の側から見れば、古代の統一王権が成立するということは、漢字で書く(漢文であるが)文書の必用性が生まれた時代、ということになる。(この時代、漢文の文書が何よりも必要とされたのは、朝鮮半島などの国々との外交文書と想像できる。)
このようなことを前提に考えてみると、古代において、ヤマト王権が全国的に支配をひろげ、東国へと勢力をのばしていく時代が、まさに、馬と文字(漢字、漢文の文書)の時代への転換点であった、というふうに考えることができるだろう。
この番組は、おそらく現代の古代史研究の考え方を反映させて作っているのだろうから、天皇ということばを、継体天皇、というような固有名詞(実際には諡号であるが)でしか使っていない。基本的に、王、そして、王権、という言い方でとおしている。
普通、古代史を考えるとき、現代の日本の姿、あるいは、近代になってからの天皇制国家としての大日本帝国を、そのまま、古代に投影して考えがちである。実際には、そんなことは無理だろうと、ちょっと考えれば分かることなのだが、世間的にはそう考えることが多いし、また、いわゆるリベラル寄りの歴史学では、古代の帝国としての天皇制国家のヤマトというような表現をすることになる。たしかに、日本は島国なので、その国土というか、国家の領域が、おのずと自然条件によって規定されている。そのため、今の日本のあり方を、そのまま、過去の日本列島にあてはめて考えてしまいがちではある。
前方後円墳の時代、ヤマトの王権が、どれほど地方に対して支配力を持っていたか、ということについては、かなり地方分散型であり、各地に豪族が割拠していたというイメージで語っていた。ヤマト王権自体についても、豪族の中心的な位置をしめるボス、というぐらいのあつかいであった。まあ、そんなものだったのだろう。これを、無理に、近代の絶対権力を持った(とされる)天皇のイメージを、古代に押しつけるということをしていない。
何故、前方後円墳が作られなくなったのか、王権が確立して(この場合でも、天皇とはいっていなかったが)各地の豪族たちが従うようになったので、無理に巨大な土木建造物を作る必要がなくなったから、ということだった。そうかなと思うところもあるが、政治や統治の権威がどのようなプロセスで成立するものなのか、ということについては、もうちょっと考えるべきかもしれない。これを、徳川幕府も初期のうちは江戸城に天守閣を必要としたが、家綱の時代になるともはや天守閣は要らなくなく、燃えても再建しない、ということに並べていたが、はたしてどうだろうか。このあたりは、政治的権威と統治のシステムということから、総合的に考えることのように思われる。
古代の東国、馬、それから、鉄、これらを総合して考えて、古代の王権の基盤がどのようなものであったか、ということについては、いろいろと考えるところがあった。日本の社会を、東西で分けて考える発想というのは、磯田道史の専門である歴史人口学の知見からも、十分に納得できるところといっていいのだろう。
古代の鉄器や製鉄、加工の技術については、実験のようすは面白かった。このことは、古代から中世にいたってどうなのか、日本における鉄の歴史として、改めて考えることになるのだろう。ただ、気になったのは、実験で木炭を使っていたこと。古代に木炭がどれぐらい利用されていたのだろうか、この検証も必要だと思う。そのなかで、たたら製鉄についても考えることになる。これは、大量の木炭を必要とし、それを供給する山林が必要になる。
ちなみに、かなり後のものになるが、中世の奈良絵本、絵巻などで、薪を使っている場面が、江戸時代の写本になると、炭火に変わっている……というのを、学生のときにみつけて、興味深く思った経験がある。(それを論文に書こうとか、さらに勉強しようとかは思わなかった。せっかく松本隆信先生にも習っていたので、もったいないことをしたという気もするが。)
ところで、考古学の研究では、日本でどれぐらい馬の骨が見つかっているのだろうか。日本で飼育されてきた馬の、遺伝的な系統とかは、どれぐらい判明しているのだろうか。
それから、磯田道史が自作の埴輪を出していたが、これについてのコメントが面白かった。デザインの専門家は、具体的すぎると言っていたが、まさに、そのとおりだろう。現存する埴輪を思ってみると、動物(馬)については、かなり抽象的に作ってある。これは、この時代の技術(焼き物を焼く)からくる制約としてこうなったのか、未熟だったということなのか、あるいは、作った人が抽象的なものとして作ったのか。おそらく、ものを作るということからすれば、具象的に作るよりも、抽象的に作ることの方が、より高度な精神性を必要とするはずである。このようなことは、現代の考古学の研究者は、どう考えているのだろうか。(といって、「埴輪を読む」というような本を期待するわけではない。そうすると、「埴輪を読むを読む」が誰かが書かなければならなくなりそうである。)
日本列島を地政学的に考えると、関東から東北を治める要衝として、群馬あたりが重要である、というのは面白い。こういう視点から、歴史を考えてみると、いろいろと新しいことが見えてくるかもしれない。
2025年3月4日記
英雄たちの選択 シリーズ 古墳の時代 (1)黄金の馬を育てよ〜地方豪族から見たヤマト王権〜
この時代のことは、国語史、日本語史を勉強すると、特に文字のことを勉強する立場からすると、重要な時代である。
一般的にいえば、であるが……日本への文字(漢字)の伝来は、応神天皇のときのことになる。だいたい四~五世紀のころに、実在したことが確認できる天皇である。朝鮮半島の百済の国から、馬を送ってきた。その馬の世話をする人も一緒にやってきた。名前をアチキ、あるいは、アチキシ、という。(日本書紀と古事記でちょっと違う。)その人が字(漢字)が読めた。それで、もっと漢字を知っている人をよこして欲しいといって、やってきたのが、ワニ、あるいは、ワニキシ、であった。古事記では、論語と千字文を持ってきたと書いてある。論語は儒教の伝来でもあり、千字文は漢字は学習するものとして意識されていたということになる。(ただし、普通にいう千字文の成立は、この時代より後のことになるので、ここは諸説あるところである。)
このあたりが、史書に見える日本への漢字の伝来である。要するに、朝鮮半島から馬が来て、そのおまけの、さらにおまけとして、漢字が日本にもたらされた、という話しになる。
これをどう解釈するかであるが……応神天皇のころは、日本でヤマト王権による古代国家が成立した時代と考えるならば、それに役だったのが馬であり、また、漢字であった。そして、それは、馬を飼う人、漢字を読み書きする人、それを職掌とする人が、朝鮮半島から日本にやってきて、渡来人として居着いて仕事をするようになった時代、このように考えることになる。国語史の側から見れば、古代の統一王権が成立するということは、漢字で書く(漢文であるが)文書の必用性が生まれた時代、ということになる。(この時代、漢文の文書が何よりも必要とされたのは、朝鮮半島などの国々との外交文書と想像できる。)
このようなことを前提に考えてみると、古代において、ヤマト王権が全国的に支配をひろげ、東国へと勢力をのばしていく時代が、まさに、馬と文字(漢字、漢文の文書)の時代への転換点であった、というふうに考えることができるだろう。
この番組は、おそらく現代の古代史研究の考え方を反映させて作っているのだろうから、天皇ということばを、継体天皇、というような固有名詞(実際には諡号であるが)でしか使っていない。基本的に、王、そして、王権、という言い方でとおしている。
普通、古代史を考えるとき、現代の日本の姿、あるいは、近代になってからの天皇制国家としての大日本帝国を、そのまま、古代に投影して考えがちである。実際には、そんなことは無理だろうと、ちょっと考えれば分かることなのだが、世間的にはそう考えることが多いし、また、いわゆるリベラル寄りの歴史学では、古代の帝国としての天皇制国家のヤマトというような表現をすることになる。たしかに、日本は島国なので、その国土というか、国家の領域が、おのずと自然条件によって規定されている。そのため、今の日本のあり方を、そのまま、過去の日本列島にあてはめて考えてしまいがちではある。
前方後円墳の時代、ヤマトの王権が、どれほど地方に対して支配力を持っていたか、ということについては、かなり地方分散型であり、各地に豪族が割拠していたというイメージで語っていた。ヤマト王権自体についても、豪族の中心的な位置をしめるボス、というぐらいのあつかいであった。まあ、そんなものだったのだろう。これを、無理に、近代の絶対権力を持った(とされる)天皇のイメージを、古代に押しつけるということをしていない。
何故、前方後円墳が作られなくなったのか、王権が確立して(この場合でも、天皇とはいっていなかったが)各地の豪族たちが従うようになったので、無理に巨大な土木建造物を作る必要がなくなったから、ということだった。そうかなと思うところもあるが、政治や統治の権威がどのようなプロセスで成立するものなのか、ということについては、もうちょっと考えるべきかもしれない。これを、徳川幕府も初期のうちは江戸城に天守閣を必要としたが、家綱の時代になるともはや天守閣は要らなくなく、燃えても再建しない、ということに並べていたが、はたしてどうだろうか。このあたりは、政治的権威と統治のシステムということから、総合的に考えることのように思われる。
古代の東国、馬、それから、鉄、これらを総合して考えて、古代の王権の基盤がどのようなものであったか、ということについては、いろいろと考えるところがあった。日本の社会を、東西で分けて考える発想というのは、磯田道史の専門である歴史人口学の知見からも、十分に納得できるところといっていいのだろう。
古代の鉄器や製鉄、加工の技術については、実験のようすは面白かった。このことは、古代から中世にいたってどうなのか、日本における鉄の歴史として、改めて考えることになるのだろう。ただ、気になったのは、実験で木炭を使っていたこと。古代に木炭がどれぐらい利用されていたのだろうか、この検証も必要だと思う。そのなかで、たたら製鉄についても考えることになる。これは、大量の木炭を必要とし、それを供給する山林が必要になる。
ちなみに、かなり後のものになるが、中世の奈良絵本、絵巻などで、薪を使っている場面が、江戸時代の写本になると、炭火に変わっている……というのを、学生のときにみつけて、興味深く思った経験がある。(それを論文に書こうとか、さらに勉強しようとかは思わなかった。せっかく松本隆信先生にも習っていたので、もったいないことをしたという気もするが。)
ところで、考古学の研究では、日本でどれぐらい馬の骨が見つかっているのだろうか。日本で飼育されてきた馬の、遺伝的な系統とかは、どれぐらい判明しているのだろうか。
それから、磯田道史が自作の埴輪を出していたが、これについてのコメントが面白かった。デザインの専門家は、具体的すぎると言っていたが、まさに、そのとおりだろう。現存する埴輪を思ってみると、動物(馬)については、かなり抽象的に作ってある。これは、この時代の技術(焼き物を焼く)からくる制約としてこうなったのか、未熟だったということなのか、あるいは、作った人が抽象的なものとして作ったのか。おそらく、ものを作るということからすれば、具象的に作るよりも、抽象的に作ることの方が、より高度な精神性を必要とするはずである。このようなことは、現代の考古学の研究者は、どう考えているのだろうか。(といって、「埴輪を読む」というような本を期待するわけではない。そうすると、「埴輪を読むを読む」が誰かが書かなければならなくなりそうである。)
日本列島を地政学的に考えると、関東から東北を治める要衝として、群馬あたりが重要である、というのは面白い。こういう視点から、歴史を考えてみると、いろいろと新しいことが見えてくるかもしれない。
2025年3月4日記
よみがえる新日本紀行「最初のニュータウン 〜大阪・千里〜」 ― 2025-03-08
2025年3月8日 當山日出夫
よみがえる新日本紀行 最初のニュータウン 〜大阪・千里〜
最初の放送は、2023年11月18日。オリジナルの放送は、昭和54年(1979)。私が、東京で学生だったころである。
この番組、以前の放送のときに見ている。再放送である。ただ、そのときは、たまたまテレビをつけて途中からの放送を見たので、全部を始めから見たということではなかった。
1970年の万博のときは、行っている。この時代、万博には、夢があった。希望があった。(しかし、今度の、大阪の万博には、何も感じない。どうやって失敗を糊塗するか、そのいいわけの理由を想像してみるぐらいしか楽しみがない。まあ、どうころんでも、主催者側としては、絶対に失敗でしたとは言わないだろうが。)
千里ニュータウンが、日本の高度経済成長の時代を受けた、新しい生活のスタイルの街であったということは、理解できる。たしかに、日本には、こういう時代があったことになる。
昭和54年のころ、もともと2DKであった団地の住まいを、外に拡張して、3DKにする工事が行われていた。子どもができて、一人一部屋が必要になってくれば、これに対応するためには、こういう工夫が必要だったということになる。
それよりも興味深かったのは、昭和54年の時代、開発から残された一画の古い昔からの民家の生活としては、台所にかまどがあって、薪で火を燃やしていたことである。近代的な団地やマンションの地域の、すぐ隣で、このような生活が続いてきていたということは、今となっては、とても価値のある映像である。(このような民家は、今ではどうなってしまったのだろうか。)
この地域も、現代では、少子高齢化の大きな波から逃れることはできない。しかし、それでも、若い人たちにとって、住みやすく、子どもを育てやすい街として、認識されているらしい。
少子化対策については、いろいろと言われているが、そのなかで重要だと、私が感じることの一つは、住宅の問題である。今の生活のスタイルだと、小学生以上の子どもがいるなら、その部屋が必要になる。二人以上の子どもとなると、子供部屋が二つ確保できないといけない。そういう住宅があって、なおかつ、教育や医療などへのアクセスがよい、無論、親の働く場所にも近い、こういう住宅をどれだけ提供できるか、ということが、現実的な課題としてあるかと、思っている。無論、住宅問題だけがすべてではない。少子化ということは、広く全世界にわたる人類の問題でもある。
また、この地域の生活のスタイルとして、徒歩で日常生活が完結するのだろうか。サザエさんのように、買い物カゴをうでにかかえて商店街で買物という時代では、もはやないだろうと思う。郊外の広い駐車場のあるショッピングセンターが、日常の買物の軸になる生活スタイルに変わってきている。この地域に、次の次の世代が住み続けて、どのような生活をすることになるのだろうか。これを具体的にイメージできないと、将来の展望は描けないかもしれない。
この番組のときには、正司照枝はまだ存命だった。今、朝の時間、『カーネーション』の再放送をしているが、おばあちゃんの役が印象に残っている。
2025年3月3日記
よみがえる新日本紀行 最初のニュータウン 〜大阪・千里〜
最初の放送は、2023年11月18日。オリジナルの放送は、昭和54年(1979)。私が、東京で学生だったころである。
この番組、以前の放送のときに見ている。再放送である。ただ、そのときは、たまたまテレビをつけて途中からの放送を見たので、全部を始めから見たということではなかった。
1970年の万博のときは、行っている。この時代、万博には、夢があった。希望があった。(しかし、今度の、大阪の万博には、何も感じない。どうやって失敗を糊塗するか、そのいいわけの理由を想像してみるぐらいしか楽しみがない。まあ、どうころんでも、主催者側としては、絶対に失敗でしたとは言わないだろうが。)
千里ニュータウンが、日本の高度経済成長の時代を受けた、新しい生活のスタイルの街であったということは、理解できる。たしかに、日本には、こういう時代があったことになる。
昭和54年のころ、もともと2DKであった団地の住まいを、外に拡張して、3DKにする工事が行われていた。子どもができて、一人一部屋が必要になってくれば、これに対応するためには、こういう工夫が必要だったということになる。
それよりも興味深かったのは、昭和54年の時代、開発から残された一画の古い昔からの民家の生活としては、台所にかまどがあって、薪で火を燃やしていたことである。近代的な団地やマンションの地域の、すぐ隣で、このような生活が続いてきていたということは、今となっては、とても価値のある映像である。(このような民家は、今ではどうなってしまったのだろうか。)
この地域も、現代では、少子高齢化の大きな波から逃れることはできない。しかし、それでも、若い人たちにとって、住みやすく、子どもを育てやすい街として、認識されているらしい。
少子化対策については、いろいろと言われているが、そのなかで重要だと、私が感じることの一つは、住宅の問題である。今の生活のスタイルだと、小学生以上の子どもがいるなら、その部屋が必要になる。二人以上の子どもとなると、子供部屋が二つ確保できないといけない。そういう住宅があって、なおかつ、教育や医療などへのアクセスがよい、無論、親の働く場所にも近い、こういう住宅をどれだけ提供できるか、ということが、現実的な課題としてあるかと、思っている。無論、住宅問題だけがすべてではない。少子化ということは、広く全世界にわたる人類の問題でもある。
また、この地域の生活のスタイルとして、徒歩で日常生活が完結するのだろうか。サザエさんのように、買い物カゴをうでにかかえて商店街で買物という時代では、もはやないだろうと思う。郊外の広い駐車場のあるショッピングセンターが、日常の買物の軸になる生活スタイルに変わってきている。この地域に、次の次の世代が住み続けて、どのような生活をすることになるのだろうか。これを具体的にイメージできないと、将来の展望は描けないかもしれない。
この番組のときには、正司照枝はまだ存命だった。今、朝の時間、『カーネーション』の再放送をしているが、おばあちゃんの役が印象に残っている。
2025年3月3日記
ウチのどうぶつえん「キリン オカピ キリン」 ― 2025-03-08
2025年3月7日 當山日出夫
ウチのどうぶつえん キリン オカピ キリン
森下絵里香アナウンサーの年代だと、絶対に「ゆうきりんりん」は憶えていないはずである。いや、逆に、私ぐらいの年代だど、必ず知っているといってよい。「少年探偵団」のテーマ曲である。この台本を書いたのはいったいどんな人なのだろうか。
キリンの蹄が二つに分かれているということは、番組では言っていなかったが、偶蹄目ということになる。この点では、馬とは違うことになる。
キリンの蹄を削ってやらないといけない。動物園で飼育していると外をあまり歩かないので、蹄が自然とすり減らないので、人工的に削る必要がある。そして、そのためには、キリンを訓練して、柵に横向けになっておとなしくしているようにしなければならない。なるほど言われてみれば、そうかなと思うが、これを考えた人はえらい。キリンは、日本の動物園にたくさんいるが、この動きが広まればいいと思う。
オカピはズーラシアにいる。横浜のこの動物園のことは、以前に、ザ・バックヤードであつかっていて、繁殖センターで、性ホルモンの測定をしているということを紹介していたのを憶えている。それが、具体的に成果となったといことになる。
動物の子どもはかわいらしいが、オカピの子どもも可愛い。
多摩動物公園に、たくさんのキリンがいることは知らなかった。自然に近い状態で、群れで飼うからこそ見られる、キリンならではの行動もある。サッカーグラウンドぐらいの広さがあるらしいが、ここはできれば行ってみたい。
キリンの繁殖にちからを入れているということだが、血統を考えると、あまり同じ親から子どもをつくらない方がいい。遺伝的多様性の確保ということになる。
キリンをインドネシアの動物園まで、飛行機で運ぶというのは、とても興味深い。番組では言っていなかったが、いろんな工夫や苦労があったのだろうと思う。
2025年3月1日記
ウチのどうぶつえん キリン オカピ キリン
森下絵里香アナウンサーの年代だと、絶対に「ゆうきりんりん」は憶えていないはずである。いや、逆に、私ぐらいの年代だど、必ず知っているといってよい。「少年探偵団」のテーマ曲である。この台本を書いたのはいったいどんな人なのだろうか。
キリンの蹄が二つに分かれているということは、番組では言っていなかったが、偶蹄目ということになる。この点では、馬とは違うことになる。
キリンの蹄を削ってやらないといけない。動物園で飼育していると外をあまり歩かないので、蹄が自然とすり減らないので、人工的に削る必要がある。そして、そのためには、キリンを訓練して、柵に横向けになっておとなしくしているようにしなければならない。なるほど言われてみれば、そうかなと思うが、これを考えた人はえらい。キリンは、日本の動物園にたくさんいるが、この動きが広まればいいと思う。
オカピはズーラシアにいる。横浜のこの動物園のことは、以前に、ザ・バックヤードであつかっていて、繁殖センターで、性ホルモンの測定をしているということを紹介していたのを憶えている。それが、具体的に成果となったといことになる。
動物の子どもはかわいらしいが、オカピの子どもも可愛い。
多摩動物公園に、たくさんのキリンがいることは知らなかった。自然に近い状態で、群れで飼うからこそ見られる、キリンならではの行動もある。サッカーグラウンドぐらいの広さがあるらしいが、ここはできれば行ってみたい。
キリンの繁殖にちからを入れているということだが、血統を考えると、あまり同じ親から子どもをつくらない方がいい。遺伝的多様性の確保ということになる。
キリンをインドネシアの動物園まで、飛行機で運ぶというのは、とても興味深い。番組では言っていなかったが、いろんな工夫や苦労があったのだろうと思う。
2025年3月1日記
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