『ゼロの焦点』 ― 2026-01-27
2026年1月27日 當山日出夫
昨日は、『砂の器』だったが、今日は『ゼロの焦点』である。この作品は、何度か映画化、テレビドラマ化されている。昭和36年の野村芳太郎監督作品が、最初ということになる。
原作の小説は、松本清張で、刊行は昭和34年。
原作の小説は読んでいる。だが、映画として見るのは、これが最初ということになる。原作の中に出てくることばで、新婚の夫が妻に対して、「君のくちびるは~~」と言って、そのことばが、誰かと比べられていると直感するというくだりは憶えていたことである。(露骨な性描写よりも、こういう科白の方が、むしろ想像力をかきたてるところがある。)
昭和の30年代の映画として見ると、この時代はこうだったのだろう、と思うことがいくつかある。
パンパンということばは、今では、歴史的風俗用語として使うぐらいで、あまり一般には使わないことばになっている。だが、昭和の30年代の半ばぐらいの時期だったら、戦後に米兵相手の娼婦だった女性がいたことは、ごく当たり前の知識であり、普通に使っていたことばということになる。
だが、そうはいっても、昔、パンパンだった女性が、その素性を隠して生きているということもあったわけで、こういう背景があってこその小説であり、映画である、ということになる。
東京の立川は、いまでこそ、東京近郊の中央線沿線の街として発展しているが、昔は、米軍の街だった名残を感じる。田舎の田園風景がひろがっている。現在でも、昔の飛行場の跡地ということを確認できる。
能登半島は、近年の地震と大雨の災害のことで、人びとの関心をあつめる地域になっているが、昔は、本当に(こう言ったら怒られるかとも思うが)日本海側の僻地という印象の場所だった。金沢は、まだ都会と言っていいだろうが、そこから能登半島に行くと、海と山と海辺の寒村と、というイメージになってしまう。そのように、映画でも描写してある。
最近、話題になったことばで、「現地妻」ということばがあるが、どういう意味のことばだか、若い人には分からなかったかもしれない。映画の状況は、少し違うが、だいたいこれに近いと言っていいだろうか。(余計なこととしては、「現地妻」ということばが復活するなら、「男妾」も復活してもいいだろうと、思ったぐらいであるが、どうなるだろうか。)
現代の社会、価値観では、こういう事件の状況は考えにくいことかとも思うが、松本清張が、『ゼロの焦点』を書いた時代には、こういうことが、ありえた、可能性があった、ということが重要かもしれない。戦後の混乱期のことであり、そこで生きて行かざるをえなかった女性たちのことである。また、中に、自殺ということが、ごく自然に出てきている。自殺の多かった時代、ということがあった。こういう世相を背景にしないと、『点と線』のような状況も生まれないことになる。
映画の最後のところで、歌っていた歌は、「星の流れに」(菊池章子)だったが、今の時代、この歌のことを知っている人も少なくなっているかとも思う。
2026年1月26日記
昨日は、『砂の器』だったが、今日は『ゼロの焦点』である。この作品は、何度か映画化、テレビドラマ化されている。昭和36年の野村芳太郎監督作品が、最初ということになる。
原作の小説は、松本清張で、刊行は昭和34年。
原作の小説は読んでいる。だが、映画として見るのは、これが最初ということになる。原作の中に出てくることばで、新婚の夫が妻に対して、「君のくちびるは~~」と言って、そのことばが、誰かと比べられていると直感するというくだりは憶えていたことである。(露骨な性描写よりも、こういう科白の方が、むしろ想像力をかきたてるところがある。)
昭和の30年代の映画として見ると、この時代はこうだったのだろう、と思うことがいくつかある。
パンパンということばは、今では、歴史的風俗用語として使うぐらいで、あまり一般には使わないことばになっている。だが、昭和の30年代の半ばぐらいの時期だったら、戦後に米兵相手の娼婦だった女性がいたことは、ごく当たり前の知識であり、普通に使っていたことばということになる。
だが、そうはいっても、昔、パンパンだった女性が、その素性を隠して生きているということもあったわけで、こういう背景があってこその小説であり、映画である、ということになる。
東京の立川は、いまでこそ、東京近郊の中央線沿線の街として発展しているが、昔は、米軍の街だった名残を感じる。田舎の田園風景がひろがっている。現在でも、昔の飛行場の跡地ということを確認できる。
能登半島は、近年の地震と大雨の災害のことで、人びとの関心をあつめる地域になっているが、昔は、本当に(こう言ったら怒られるかとも思うが)日本海側の僻地という印象の場所だった。金沢は、まだ都会と言っていいだろうが、そこから能登半島に行くと、海と山と海辺の寒村と、というイメージになってしまう。そのように、映画でも描写してある。
最近、話題になったことばで、「現地妻」ということばがあるが、どういう意味のことばだか、若い人には分からなかったかもしれない。映画の状況は、少し違うが、だいたいこれに近いと言っていいだろうか。(余計なこととしては、「現地妻」ということばが復活するなら、「男妾」も復活してもいいだろうと、思ったぐらいであるが、どうなるだろうか。)
現代の社会、価値観では、こういう事件の状況は考えにくいことかとも思うが、松本清張が、『ゼロの焦点』を書いた時代には、こういうことが、ありえた、可能性があった、ということが重要かもしれない。戦後の混乱期のことであり、そこで生きて行かざるをえなかった女性たちのことである。また、中に、自殺ということが、ごく自然に出てきている。自殺の多かった時代、ということがあった。こういう世相を背景にしないと、『点と線』のような状況も生まれないことになる。
映画の最後のところで、歌っていた歌は、「星の流れに」(菊池章子)だったが、今の時代、この歌のことを知っている人も少なくなっているかとも思う。
2026年1月26日記
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