呉智英『吉本隆明という「共同幻想」』 ― 2016-11-23
2016-11-23 當山日出夫
呉智英.『吉本隆明という「共同幻想」』(ちくま文庫).筑摩書房.2016 (原著 筑摩書房.2012 補論の追加あり。)
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480433923/
いうまでもないが、この本のタイトルは『共同幻想論』からとってある。その『共同幻想論』を、きちんと通読したことが実はない、ということについては、すでに書いた。
やまもも書斎記 2016年11月2日
ちくま日本文学全集『柳田國男』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/11/02/8240413
くりかえし書いておけば、そこに引用されている「遠野物語」(柳田国男)の文章を読むのが怖いからである。
そして、この『吉本隆明という「共同幻想」』である。
はっきり書いてしまえば、私は、吉本隆明のファンということではないが、その著作のいくつかを読んできた。いや、読まねばならないものして読んできた、と言った方がいいだろうか。
1955年生まれの私にとって、大学生になったころ、まさに、吉本隆明がさかんに読まれた時期と重なる。とにかく読んでいて当たり前。読んでいなければ恥ずかしい。読んでいるふりぐらいはする……そんな時代だった。
白状してしまえば、「マチウ書試論」を引用して、レポートを書いたこともある。国文学の講義においてであったと覚えているが。
『吉本隆明という「共同幻想」』を読んで、ああなるほど、そういうことだったのか、と妙に納得するところがある。だからといって、吉本隆明についての評価を下げようとも思わない。いや、逆に、そのような「思想家」であるからこそ、批判的な目で、再度、きちんと読んでおく必要があると、自分なりに確認したりもするのである。
もう私のような世代ではなく、これからの若い人たちが、どんなふうにして吉本隆明を読んでいくのであろうか(あるいは、もう読まないであろうか)というあたりが気になる。この意味においては、この本は、ちょうどいい手引きなる本であると思う。少なくとも、吉本隆明に中毒症状をおこさないでするワクチンの役割をはたしてくれるだろう。
それにしてもと思うが、なんで、筑摩書房は、この本を文庫本で今になってだすのか。それから、
吉本隆明〈未収録〉講演集 全12巻.筑摩書房
http://www.chikumashobo.co.jp/special/yoshimoto/
今、晶文社で刊行中の「吉本隆明全集」、最初は、筑摩書房に話が行ったと聞いている。それを断っておきながら、なんで、という気がしなくもない。
吉本隆明については、「全集」として断簡零墨まで収集することはないと思う。それよりも主な著作をあつめて、「著作集」で十分であろう。以前、出ていた、勁草書房版の著作集に追加するようなものでよかったのではないか。ただ、その本文校訂は厳密なものでなければならないが。
若い頃、吉本隆明を読んできたことを、今になって、私は、後悔してはいない。かなり影響をうけてはきたかもしれないが、自分なりに、咀嚼してきたつもりでいる。この時代、21世紀になって、「大衆の原像」(ここを書いたとき、ATOKは「げんぞう」から変換してくれなかった)に振り回されることはない。そうではなく、何故、あの時代、このことばに魅了されたのか、そこを静かに反省する時期にきている。
そうはいっても、たとえば、
竹内洋.『大衆の幻像』.中央公論新社.2014
http://www.chuko.co.jp/tanko/2014/07/004619.html
この本のタイトルを見て、すぐに吉本隆明の本を思い浮かべることができるほどの知識は、やはり必要だろうと思う。この意味では、まだ、吉本隆明の著作の多くは、賞味期限を失ってはいないと思う次第である。
呉智英.『吉本隆明という「共同幻想」』(ちくま文庫).筑摩書房.2016 (原著 筑摩書房.2012 補論の追加あり。)
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480433923/
いうまでもないが、この本のタイトルは『共同幻想論』からとってある。その『共同幻想論』を、きちんと通読したことが実はない、ということについては、すでに書いた。
やまもも書斎記 2016年11月2日
ちくま日本文学全集『柳田國男』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/11/02/8240413
くりかえし書いておけば、そこに引用されている「遠野物語」(柳田国男)の文章を読むのが怖いからである。
そして、この『吉本隆明という「共同幻想」』である。
はっきり書いてしまえば、私は、吉本隆明のファンということではないが、その著作のいくつかを読んできた。いや、読まねばならないものして読んできた、と言った方がいいだろうか。
1955年生まれの私にとって、大学生になったころ、まさに、吉本隆明がさかんに読まれた時期と重なる。とにかく読んでいて当たり前。読んでいなければ恥ずかしい。読んでいるふりぐらいはする……そんな時代だった。
白状してしまえば、「マチウ書試論」を引用して、レポートを書いたこともある。国文学の講義においてであったと覚えているが。
『吉本隆明という「共同幻想」』を読んで、ああなるほど、そういうことだったのか、と妙に納得するところがある。だからといって、吉本隆明についての評価を下げようとも思わない。いや、逆に、そのような「思想家」であるからこそ、批判的な目で、再度、きちんと読んでおく必要があると、自分なりに確認したりもするのである。
もう私のような世代ではなく、これからの若い人たちが、どんなふうにして吉本隆明を読んでいくのであろうか(あるいは、もう読まないであろうか)というあたりが気になる。この意味においては、この本は、ちょうどいい手引きなる本であると思う。少なくとも、吉本隆明に中毒症状をおこさないでするワクチンの役割をはたしてくれるだろう。
それにしてもと思うが、なんで、筑摩書房は、この本を文庫本で今になってだすのか。それから、
吉本隆明〈未収録〉講演集 全12巻.筑摩書房
http://www.chikumashobo.co.jp/special/yoshimoto/
今、晶文社で刊行中の「吉本隆明全集」、最初は、筑摩書房に話が行ったと聞いている。それを断っておきながら、なんで、という気がしなくもない。
吉本隆明については、「全集」として断簡零墨まで収集することはないと思う。それよりも主な著作をあつめて、「著作集」で十分であろう。以前、出ていた、勁草書房版の著作集に追加するようなものでよかったのではないか。ただ、その本文校訂は厳密なものでなければならないが。
若い頃、吉本隆明を読んできたことを、今になって、私は、後悔してはいない。かなり影響をうけてはきたかもしれないが、自分なりに、咀嚼してきたつもりでいる。この時代、21世紀になって、「大衆の原像」(ここを書いたとき、ATOKは「げんぞう」から変換してくれなかった)に振り回されることはない。そうではなく、何故、あの時代、このことばに魅了されたのか、そこを静かに反省する時期にきている。
そうはいっても、たとえば、
竹内洋.『大衆の幻像』.中央公論新社.2014
http://www.chuko.co.jp/tanko/2014/07/004619.html
この本のタイトルを見て、すぐに吉本隆明の本を思い浮かべることができるほどの知識は、やはり必要だろうと思う。この意味では、まだ、吉本隆明の著作の多くは、賞味期限を失ってはいないと思う次第である。
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