『制裁』A・ルースルンド、B・ヘルストレム2017-03-01

2017-03-01 當山日出夫

アンデルシュ・ルースルンド & ベリエ・ヘルストレム.ヘレンハルメ美穂(訳).『制裁』(ハヤカワ文庫).早川書房.2017 (ランダムハウス講談社.2007 改稿)
http://www.hayakawa-online.co.jp/shopdetail/000000013473/

本には、ふとした運命というものがあるのだろう。この本、10年ほど前に、ランダムハウス講談社から刊行されていたもの。絶版。それが、昨年、『熊と踊れ』が話題になったということで、再び、刊行になった。今度は、早川書房から。ハヤカワ文庫での刊行だから、ミステリとしては、れっきとしたブランドである。

やまもも書斎記 2016年12月30日
A・ルースルンド、S・トゥンベリ『熊と踊れ』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/12/30/8298284

もし、この本が、はじめからハヤカワから刊行になっていたら、たぶん、今年のミステリのベストにはいる作品になるにちがいない。(改稿、再刊、というのは、選出の基準にどう影響するのだろうか。)

また、こういうこともいえる。ミステリには、二つの方向がある。

第一には、知的ゲームとしての方向。例えば、昨年の作品であれば、『涙香迷宮』(竹本健治)がそうである。

第二には、その時代、社会を、犯罪を通じて描く。昨年の作品であれば、『熊と踊れ』がそうである。

そして、この『制裁』、あきらかに、後者のタイプ。小児性愛犯罪者が、脱獄するところから小説ははじまる。そして、おこる事件。被害者。その家族。そして、さらにおこる事件。捜査。逮捕。裁判。そして、事件。

この作品に描かれるのは、現代社会における、児童ポルノ犯罪、小児性愛犯罪、その被害者の家族(親)はどうすべきか、いや、それを超えて、現代社会において、犯罪はどのように裁かれるべきであり、その被害者は、どのようにふるまうべきなのか、という実に、現代的な問題提起がなされている。犯罪小説というものを通じて、現代社会のかかえる、種々の問題にするどくきりこんでいる。そして、問いかけるものがある。

この文庫本の帯には、「警察小説」とあるが、私の感想としてはあまりそのような印象はつよくない。むしろ、(こんな用語が適切かどうかわからないが)「刑務所小説」とでもいった方がよいかもしれない。小説の舞台のかなり部分が、刑務所内の描写になっている。この点では、あまりに日本の刑務所のあり方と違うので、やや驚く面もある。

日本とは、司法、警察、刑務所、などの制度がちがうので、すんなりとは理解できないところもあるのだが、しかし、社会全体として、犯罪について、どう対処すべきか、という観点からは、共感して読むことができる。特に、近年、我が国でも議論になっている、性犯罪者の情報は開示されるべきなのか、どうか、という議論にも及んでいる。

私としては、契機がどうであれ、埋もれていた作品、それも傑作というべきを、再発掘して世に出したということで、早川書房の判断を是としておきたい。『熊と踊れ』を面白く読んだ人には、おすすめである。

『廃墟に乞う』佐々木譲2017-03-02

2017-03-02 當山日出夫

佐々木譲.『廃墟に乞う』(文春文庫).文藝春秋.2012 (文藝春秋.2009)
http://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167796037

本を読む生活をしたいと思って、直木賞・芥川賞などの作品を、ボチボチと読んでいこうかと思っている。この『廃墟に乞う』は、第142回の直木賞。といって、佐々木譲を読むのは、はじめてではない。古くから読んできている。

『ベルリン飛行指令』(新潮文庫)
http://www.shinchosha.co.jp/book/122311/

『エトロフ発緊急電」(新潮文庫)
http://www.shinchosha.co.jp/book/122312/

『ストックホルムの密使』(新潮文庫)
http://www.shinchosha.co.jp/book/122315/
http://www.shinchosha.co.jp/book/122316/

など、出たときに読んでいる。今から思えば、まだ、パソコン通信の時代であった。読んだ感想など、書いていたことを思い出す。(ここには、現在の文庫本をしめしておいたが、読むのは、最初に出た単行本の時に読んでいる。)

それから、いうまでもなく、『警官の血』も読んだ。
『警官の血』(新潮文庫)
http://www.shinchosha.co.jp/book/122322/
http://www.shinchosha.co.jp/book/122323/

だが、この『廃墟に乞う』は、読みそびれていた。文庫本で読めるようになっているので、買って読んでみた。

解説を書いているのは、佳多山大地。解説を読んでみて、これは、確かに、ミステリとしての観点からの解説だなと感じた。この解説に異論はない。犯罪小説、それを、捜査する探偵(警官)の描写、この観点からは、そのとおりである。

だが、私の感じたことを記せば、この『廃墟に乞う』は、ハードボイルドである。そのように読むのがいいと思う。無論、警察小説、警官小説としても読めるのであるが。

主人公は、仙道孝司。この作品、連作短編は、基本的に、この仙道孝司の「私」の視点から描かれる。一応、三人称視点の記述にはなっているが。そして、この人物設定としては、警察官であるが、精神的な病気のために休職中。心療内科医のすすめで、休暇を取っている。つまり、操作のノウハウは知っている、警察の事情にも詳しい、しかし、公的に事件にかかわれるわけではない、という立場。

だが、そのような立場にある主人公が、いやおうなしに、事件にまきこまれていく。あるいは、警察の側でも、同僚、先輩、後輩としての彼ならではの捜査に期待するところがあって、行動していく。この捜査の過程は、必ずしも、警察とうまくことを運ぶというのではない。時として、邪魔者あつかいされたりもする。だが、それにもかかわらず、「依頼者」のために彼は行動する。

これは、明らかに、ハードボイルドの設定である。また、そのように読めるように書いてある。しかし、著者としては、警察小説を描きたかったのか、という気もしないではない。だが、これは、読者の自由な読み方として、ハードボイルドとして、読んで楽しめばいいのだと思う。

それから、この小説(連作短編)は、北海道を舞台にしている。現代の北海道である。かつての、炭坑、漁業でさかえたころの姿はない。むしろ、そのような景気のよかった過去をひきずりながら、なんとか生きながらえている地方の光景として描かれる。

北海道を描いている作家としては、桜木紫乃が思い浮かぶが、彼女が描いているほどに、その地方色はつよくない。空の色、海の色が印象的であるということはない。むしろ、荒涼とした原野の風景といった方がよいか。これもまた、現在の北海道の景色の表現なのであろう。

『廃墟に乞う』、この作品は、北海道を舞台にした、ハードボイルド、休職中の警察官が主人公である、として、私は読んで楽しんだのである。

蛇足で書けば……ハードボイルドには、ピアノのがよくにあうのである。

『空母いぶき』かわぐちかいじ2017-03-03

2017-03-03 當山日出夫

かわぐちかいじ、惠谷治(協力).『空母いぶき』.小学館.2015~
http://www.big-3.jp/bigcomic/rensai/ibuki/index.html

私は、基本的に漫画は読まないことにしているのだが、希に手にすることがある。その一つは、最近、話題になったものでは、『この世界の片隅に』がある。

やまもも書斎記 2016年12月11日
こうの史代『この世界の片隅に』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/12/11/8273353

そして、もう一つ、刊行と同時に、第1巻から読んでいるのが、かわぐちかいじの『空母いぶき』である。現在、第6巻までが刊行。なお、雑誌では読んでいない。そこまでは手が回らない。コミックスで出たのを買っている。

一般的にいうならば、軍事エンタテインメントというジャンルになるのだろう。だが、この作品は、その枠をこえた、リアリティ、あるいは、問題提起がある。

近未来、中国が、沖縄に軍事的に侵略、占領するとことから物語ははじまる。中国側の条件は、尖閣諸島を中国領土と認めること。だが、それに対して日本政府はイエスとはいえない。そこで、空母いぶきを中心として、日本側からの対中国軍事作戦が発動することになる。

まあ、いってみれば、「もし、東シナ海で日中たたかわば」という設定の、軍事物語である。

とはいえ、私がこの作品にある種のリアリティを感じるのは、次の二点。

第一に、さすが、かわぐちかいじの作品だけあって、軍事的にリアルに描いてある。この点については、多くの専門的知識のある人が同意することだろう。

第二に、さりげなくであるが、国際状況の設定として、アメリカが介入しないということを前提としていること。つまり、中国側の判断として、尖閣諸島に軍事的に侵攻しても、米軍はかかわってこない、という読みがあっての軍事行動ということになる。この漫画の描写では、沖縄、尖閣諸島の防衛は、日本の個別的自衛権のもとに行っていることになっている。

この予測に、どれだけの裏付けがあるのかは不明である。しかし、そういうことももあり得るであろうとは予想できる。

かつての湾岸戦争のとき、イラクは、クェートに侵攻しても、アメリカが介入してくることはないという判断のもとに、作戦をおこなった。その読みが、あやまっていたことは、その後の歴史の推移が証明するところではある。しかし、イラクが、その時点で、アメリカ不介入と判断したことは確かなことだろう。また、この時の、アメリカ、多国籍軍の軍事作戦が、その後の世界情勢に与えた大きさははかりしれない。

現在、アメリカの政権が、トランプにかわって、日米同盟の確認ということがあったようだ。そのなかで、アメリカは、尖閣諸島は、日米安保の対象地域であることを明言した。

これも、裏をかえしてみれば、アメリカ・ファーストのトランプ政権の政策の方向いかんによっては、日米同盟もどうなるかわからない、ということがあってのこととも考えられる。むろん、日米安保、日米同盟も、永久につづくというものではない。その時々の、国際情勢のなかで存在にするにすぎない。

以前、このように書いたことがある。

やまもも書斎記 2016年7月5日
山内昌之『歴史という武器』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/07/05/8125641

「中国はあまりものごとを考えていないように見えて、実は、非常に長い射程で歴史を捉え戦略的思考をする国なのです。鄧小平は尖閣諸島の問題について「今の世代で解決するのは難しいだろうから、後世にいい知恵が出るまで待とう」と言って、日本側に譲ったとされています。しかし、それは違う。中国は尖閣に関する権利を留保しつつ時間を稼ぎ、将来自分たちに有利な状況になった時に日本を交渉のテーブルに着かせることを狙っていると解釈すべきです。」(pp.23-24)

絶対に、中国は、尖閣諸島に軍事的に手を出してこないといえるだろうか。もし、国際情勢によっては、アメリカは、日本と中国が紛争を起こしても手を出してはこないだろう、と判断されたとき、どうなるかわからないと、私は考える。といって、かわぐちかいじが書いているような軍事行動をとるということではないが。

もちろん、このようなことは、中国共産党政権の内情、それから、アメリカの東アジア政策、それから、台湾、韓国などの、周辺諸国、東南アジア諸国の動向など、総合的に関連して、おこるべくして、ことはおこるとすべきことではある。

ただの空想ではなく、リアルな国際政治の展望のあり方として、考えてみるに値することの一つであるとは思っている。現実に今、沖縄は、日本の国防の最前線なのである。

やまもも書斎記 2017年2月23日
『兵士に聞け 最終章』杉山隆男
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/02/23/8372568

『空母いぶき』は軍事エンタテイメントとして読めばいい作品なのであるが、そのはらんでいるものは、リアルである。そして、重要なことは、軍事的行動を視野にいれてこそ、現実的な平和主義も構築しうるということである。

『挽歌』原田康子2017-03-04

2017-03-04 當山日出夫

原田康子.『挽歌』(新潮文庫).新潮社.1961(2013改版) (昭和31年.東都書房)
http://www.shinchosha.co.jp/book/111401/

解説によると、この小説は、北海道、釧路の「北海文学」という同人誌でガリ版ででていたもの。それが、昭和31年に、東都書房から刊行され、ベストセラーになった。新潮文庫で、今も売っている本である。あるいは、原田康子の小説のなかで、この作品だけは、今でも売られている本である、といってもよかもしれない。この『挽歌』をのぞいて、他の作品は、すでに書店の市場から姿を消しているようだ。

この小説は、過去、二~三回は読んでいるはず。古い新潮文庫版である。新しい版になって、活字が大きくなったので、再度、読み直してみた。

桜木紫乃の小説、それも、特に釧路を舞台にした小説など、最近、気にいって読んでいる。そのような私にとって、釧路を舞台にした文学としてまず思い浮かぶのは、この『挽歌』である。最初に読んだのは、高校生のころだったろうか。映画も見ている。秋吉久美子主演のもの。釧路の街をかろやかな足取りで歩いている姿を、印象的に憶えている。

この小説の書かれたころの北海道、釧路は明るい。そして、未来のある街であった。いや、まだ日本全体に、これから高度経済成長を迎える予感のようなものがあった時代。ようやく戦後の終わりが見えてきた時代、といってもよいであろうか。

「この街は終戦当時六万だった人口が、十年間に倍の十二万に膨れあがり、なお人が増えつづけている街である。」(p.40)

そして、その空の描写も明るい。

「陽は長くなり、朱をふくんだ紫陽花色の夕空が、街のうえにひろがっていた。」
(p.205)

この釧路の街は、明るく、モダンで、現代的な街として描かれている。この点では、桜木紫乃の小説(過疎と高齢化)とは、まさに対照的である。

さらにいうならば、登場人物も若い。主人公の兵藤怜子は、女学校を終えてしばらくたったが、定職にはつかず、劇団の仕事をしているという設定。

この小説のテーマは、若さの残酷さ、とでもいえばよいであろうか。そして、その残酷さのとともにある、あやうさ、はかなさ。

「わたしは、わたし達の気心の合うのがなによりも愉しかった。しかしわたしばかりでなく、座員の多くは、演劇そのものよりもお芝居をしようとする人達の雰囲気を愛しているようだった。」(p.42)

「しかしみみずく座で一緒に仕事をするようになってからのわたしは、彼の描く絵よりも、絵を描いているときとか、絵のことを考えているときの久田幹夫に魅かれるようになった。」(p.47)

このような女性……いや、少女といった方がよいかもしれない……が、ふとしたことから恋をする。相手は妻子ある男性。その男性に心ひかれるようになったきっかけは、その妻の不倫を知ったからである。

このような恋(といってよいだろうか)が、ハッピーエンドになるはずはない。悲劇的な破局をよびよせることになる。だが、それでも、彼女は、さらに生きていこうとする。若さという残酷さである。

かつて、私自身が若い時にこの小説を読んだときには、当然ながら、ヒロインの兵藤怜子によりそって読んだと憶えている。だが、もはや、その相手の男性よりも年をとってしまい、いや、さらには、ヒロインの父親よりも上かもしれないという年齢になって読んでみて、それでもなお、このヒロイン怜子は、魅力的であると感じる。わかさ、おさなさ、あるいは、あやうさ、というようなものを感じながらも、それでも、魅力的な人物造形の確かさに、こころひかれるものがある。これが、おそららくは、今でも、この『挽歌』という小説が読み継がれていることの要因なのであろうと思う。

ともあれ、戦後の日本文学史に残る作品として、この『挽歌』は、これからも読まれていくことだろうと思う。

『「兵士」になれなかった三島由紀夫』杉山隆男2017-03-05

2017-03-05 當山日出夫

杉山隆男.『「兵士」になれなかった三島由紀夫』(小学館文庫).小学館.2010 (小学館.2007)
https://www.shogakukan.co.jp/books/09408473

どうやら、著者(杉山隆男)は、この本で、「兵士シリーズ」を終わりにしたかったらしい。小学館のこの本のHPには、

三島自決の真実に迫る兵士シリーズ最終巻

とある。だが、実際は、その後、続編を書くことになる。

杉山隆男.『兵士は起つ-自衛隊史上最大の作戦-』(新潮文庫).新潮社.2015 (新潮社.2013)
http://www.shinchosha.co.jp/book/119015/

があるし、このブログでもすでに取り上げた、

やまもも書斎記 2017年2月23日
『兵士に聞け 最終章』杉山隆男
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/02/23/8372568

がある。

この『「兵士」になれなかった三島由紀夫』である。この本は、二つの視点から読むことができるだろう。

第一には、三島由紀夫論の観点からである。三島由紀夫にとって、自衛隊とはどのような存在であったのか。訓練への体験入隊の意味したものとは。そこで、三島は、どのような訓練をうけ、どのようにふるまっていたのか。

これをふまえて、最終的には、三島にとって自衛隊のもつ意味。盾の会とはなんであったのか。さらには、その最後の行動……自決にいたる過程。これらを考えて見るというものである。

第二には、逆に、自衛隊にとって、三島由紀夫とはどのような存在であったのか。特に、その体験入隊で訓練にあたった、現場の自衛隊員「兵士」は、どのように、三島のことを記憶しているのか。三島とは、どのような存在であったのか。

この本は、この二つの視点が、ないまざって、主に、三島の自衛隊体験を軸に語られる。タイトルがしめしているように、三島は、ついに、「兵士」にはなれなかった人間である。だが、三島は、「兵士」であろうとした。

その「兵士」になろうとして「兵士」になれなかった姿は、実際の訓練の描写として、本書に詳しい。

そして、最後に、自衛隊とは、日本にとって何であるのか、という問いかけで終わる。三島の語ったように、自衛隊は米軍の傭兵でしかないのか。だが、三島事件の後、数十年を経、今や、日米同盟ということが公然と言われる時代を迎えている。

この本を理解するためには、たぶん、これに先立つ「兵士シリーズ」のいくつかを読んでおく必要があると思う。また、同時に、ある程度は、三島由紀夫について知り、その作品を読んでおくことも必要かもしれない。

もちろん、この本、単独で読んで、十分に有益な本だとは思うのだが、上記のような準備のもとに、接した方がいいと、私は思う。

個人的な思い出をしるせば、三島由紀夫事件のことは、記憶にある。学校(中学校の時だった)、その事件のおこった日、教師(担任)が、熱っぽく、その事件があったことを教室で語っていたことを憶えている。

文学者としての三島由紀夫の作品を読むようになったのは、高校生になってからだったろうか。『金閣寺』『午後の曳航』などは読んだ記憶がある。『豊穣の海』四部作を読んだのは、大学生になってからのことであった。

一方、杉山隆男の著作については、何よりも、『メディアの興亡』である。この本を読んで、名前を覚えた。その後、「兵士シリーズ」が刊行になって、いくつかを手にとったものである。

なお、『メディアの興亡』は、いまだにその価値を失っていない。最近出た本では、

武田徹.『なぜアマゾンは1円で本が売れるのか-ネット時代のメディア戦争-』(新潮新書).新潮社.2017
http://www.shinchosha.co.jp/book/610700/

このひとつの章が、かつての杉山隆男の仕事『メディアの興亡』をふまえたものになっている。

ともあれ、この本は、「兵士シリーズ」の一冊として読んでもいいし、また、三島由紀夫の文学を理解するためにも、価値のある仕事である。

NHK「ブラタモリ」奄美大島2017-03-06

2017-03-06 當山日出夫

2017年3月4日のNHK「ブラタモリ」は、奄美大島だった。
http://www.nhk.or.jp/buratamori/map/list66/index.html
http://www.nhk.or.jp/buratamori/yokoku.html

テレビを見ながら私の念頭にあったのは、『海辺の生と死』(島尾ミホ)である。あるいは、『出発は遂に訪れず』(島尾敏雄)のこともあった。

やまもも書斎記 2017年2月10日
『海辺の生と死』島尾ミホ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/02/10/8356483

やまもも書斎記 2月27日
『出発は遂に訪れず』島尾敏雄
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/02/27/8377810

奄美大島を語るのにはいくつかの視点があるだろう。番組で放送していたように、大島紬、製糖、それから、蘇鉄を、中心に見るのもいいだろう。あるいは、次回の放送がたぶんそうだろうと思うが、亜熱帯の自然と動植物を中心に見るのもいいかもしれない。

ながい島の歴史からみれば、ほんの一瞬のことにすぎなかったかもしれないが、太平洋戦争の末期、そこに特攻隊(震洋)の基地がおかれていたことは、記憶されてもいいように思う。また、その土地に住む人びとの生活がどんなであったか、詩情ゆたかに描き出す文学的感性についても、忘れてはならないものでもある。

たぶん、NHKの番組では、島尾敏雄、ミホのことは出てこないだろう。少なくとも、先日の放送では出てこなかった。

薩摩の過酷な支配下にあった農民の生活……蘇鉄の実を食料にせざるをえないような悲惨な生活……については語っていたものの、その島に訪れてきていた、旅芝居の一行とか、それを心待ちにしている、村の人びとの心情などは、これはこれとして、そのような生活があったことが、「文学」として読まれることがあっていい。

えてしてステレオタイプな目で見がちな、奄美大島という土地について、島尾敏雄、ミホの文学的な仕事は、新たな視点を提供してくれる。

今、読んでいるのは、『「死の棘」日記』(新潮文庫)。この「作品」にも、奄美大島のことは、数多く登場する。この日記を書いていたころ(昭和30年ごろ)の、島尾敏雄、ミホにとって、奄美大島とはどんなものであったのだろうか、というようなことを、なんとなく考えながら、テレビを見ていたのであった。

『おんな城主直虎』あれこれ「桶狭間に死す」2017-03-07

2017-03-07 當山日出夫

『おんな城主直虎』2017年3月5日、第9回「桶狭間に死す」
http://www.nhk.or.jp/naotora/story/story09/

前回は、
やまもも書斎記 2017年2月28日
『おんな城主直虎』あれこれ「赤ちゃんはまだか」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/02/28/8379090

ネコが出てこなかった。それから、織田信長も……

桶狭間の戦いを描いていながら、織田信長が登場しない、このところが、今回のこの脚本のポイントなんだろうなあ、と理解はできるのだが、なんとなく物足りない。つまりは、これから、どこの段階で、どのように、織田信長が登場することになるのか、という期待が高まる。

桶狭間の戦いは、これまでも、大河ドラマで何度となく描かれてきているはずだが、織田信長が登場しないというのは、初めてではないだろうか。

また、「桶狭間に死す」のタイトルも、ある意味で巧い。普通に考えれば、死んだのは、今川義元ととるだろうが、実は、ドラマでは、次郎の父ということとして描いてあった。

それはともかく、今回の見どころは、亡くなった父との対面シーン、それから、母の次郎法師への手紙のシーンだろう。このようなシーンを見ると、今回の大河ドラマは、つくづくと、家族、井伊の一族を描くドラマとして作っているのだなと感じる。そう思って見ればいいのであって、母が書いていた手紙が、古文書学的に書式がどうのこうのというのは、野暮な議論だろうと思う。まあ、当時の、女性が、亡くなった家臣の家族……おそらくは女性だろう……にあてて書いた書状としては、書式の面でどうかなと思わないではないが。

それから、佐奈と南谿和尚との対面のシーンも、興味深かった。ここでも、最終的には、井伊の一族として、どうあつかってくれるのか、というところが、おとしどころになっていた。

最後の政次のシーンで、番組が終わって、次回に続くになったあたり……これも、事件の決着としては、井伊のイエをどうまもっていくことになるのか、というところになろうかと思ったが、どうなるだろうか。

次回は、もうネコは出てこないのだろうか。

追記
このつづきは、
やまもも書斎記 2017年3月14日
『おんな城主直虎』あれこれ「走れ竜宮小僧」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/03/14/8405259

『帰郷』浅田次郎2017-03-08

2017-03-08 當山日出夫

浅田次郎.『帰郷』.集英社.2016
http://books.shueisha.co.jp/CGI/search/syousai_put.cgi?isbn_cd=978-4-08-771664-1&mode=1

浅田次郎の短編集である。どの作品も、なにがしかの意味で、戦争(太平洋戦争、大東亜戦争)に関係している。その登場人物の多くは、兵士、元兵士である。あるいは、自衛隊。

買ったまま積んであったのだが、大佛次郎賞を受賞したということなので読んでみた。

大佛次郎賞
http://www.asahi.com/shimbun/award/osaragi/

読んで、一番気にいったのは、タイトルにもなっている作品『帰郷』。本書の冒頭におかれている。

ストーリー、登場人物は、いたって単純。戦後の荒廃した街の風景。そこで必然的にうまれてきた、女……街娼……。そこにとおりかかる、復員兵。彼がものがたる体験談。戦争のはじまるまで、戦争になってから、戦地に行ってから。帰ってから。男は、故郷に、妻子をのこして出征した。それから、病弱だった弟も。彼の所属していた部隊は玉砕したと伝えられていた。その彼が故郷にかえってみると……いかにも、ありきたりの題材ばかりである。ありふれた話しである。

だが、そのありふれた話しが、浅田次郎の語りの手にかかると、ものの見事に一つの物語へと変貌する。その語り口のうまさは、随一といってよいだろう。この小説は、その語りだけで、読者を魅了してやまない。読後には、ある種の文学的感銘が残る。

浅田次郎の文学作品を特徴付けるもの、それは、登場人物の愚直さと、物語の幻想性である、このようなことについては、すでに書いたことがある。

やまもも書斎記 2016年12月6日
浅田次郎『見上げれば星は天に満ちて』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/12/16/8276227

この短編集も、このような特徴をもった作品が多く収録されている。戦争、自衛隊、というものにふれながら、時に幻想的に、時にその組織のなかで愚直に生きていくことになる人間を哀惜の念をこめて描く。

ただ、余計なことを書いてみれば、浅田次郎が戦争、軍人、兵士を描くとき、それは、基本的に下士官、兵卒についてである。士官がメインに登場することは、あまりない。登場人物の行動としても、徴兵されてから、幹部候補生になるという道は選んでいない。あくまでも、下士官として、兵隊としての生き方を選択している。このあたり、浅田次郎の、軍隊、兵士についての考え方がうかがえるかと思う。

それから、この短編集のなかの作品では、『不寝番』。この作品では、太平洋戦争の時の軍隊(陸軍)と、現在の自衛隊とが、幻想のなかで融合している。兵士の立場にたってみて、旧軍隊と、自衛隊とを、連続するものとしてイメージする。

浅田次郎が、戦争、軍人・兵士を語るときの視点のおきかたは、上記の二つのところに特徴を見いだせるといってよいであろう。確認するならば……兵士の視点にたって、戦前の軍隊と戦後の自衛隊を連続するものとして見る。これは、著者(浅田次郎)の経歴……自衛隊体験……ということと無関係ではないはずである。現代文学研究、評論において、浅田次郎がどのように扱われているか、門外漢である私には、知るよしもない。だが、ここで述べたような点は、その文学を特徴付けるものとして、注目すべきことがらであると思う次第である。

そして、さらに余計なことを書いてみるならば、浅田次郎は、三島由紀夫を嫌っているようである。いや、すくなくとも、その文学においては、かなり意識していることは、見てとれる。たとえば、初期の代表作、『きんぴか』の「軍曹」の描写などは、三島事件をふまえている。また、『勇気凜凜ルリの色』に所収のエッセイにおいても、三島由紀夫への言及があったかと記憶する。

そして、また、その三島由紀夫も、「兵士」にあこがれを持っていた。

やまもも書斎記 2017年3月5日
『「兵士」になれなかった三島由紀夫』杉山隆男
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/03/05/8391460

その「兵士」にあこがれるが、ついになることはできなかった三島と、現実に自衛隊員「兵士」であった経歴をもつ浅田次郎と、現代文学のなかで、この二人の作家の、「軍隊」「兵士」というものへの意識を、比較・検討してみることは、面白い研究を生むことになるのかもしれない。(私が知らないだけで、すでにあるのかもしれないが。)

『豊饒の海』三島由紀夫2017-03-09

2017-03-09 當山日出夫

この春休みの「宿題」にしようとしてあるのが、『豊饒の海』四部作。三島由紀夫である。

『春の雪』
http://www.shinchosha.co.jp/book/105021/

『奔馬』
http://www.shinchosha.co.jp/book/105022/

『暁の寺』
http://www.shinchosha.co.jp/book/105023/

『天人五衰』
http://www.shinchosha.co.jp/book/105024/

以前に読んだのは、大学生になって、国文学専攻になってからのことだったと記憶する。その当時の新潮文庫版で読んだ。そのとき、このような文学があるのかとは思ったが、この年になって、再読してみることになるとは予想だにしなかった。いや、もう、三島はこれでいい、終わりにしようと感じたぐらいである。

それぐらい、読後感の印象のつよい作品であった。

憶えているのは……「春の雪」の甘美な恋愛小説の雰囲気……「奔馬」のラストのシーン……「暁の寺」のインドの濃厚な描写……「天人五衰」のその最後のことば……などである。

三島由紀夫という作家は、最後にひとこと多いのである。そのひとことが余計だなと感じるか、それで納得するかは、人によって違うかもしれない。が、私は、余計なひとことを書いてしまう作家だという印象で憶えている。

例えば、『午後の曳航』のラストのひとこと。これなど、無い方がいいだろうと、読んだときに思ったものである。

ともあれ、新学期の準備には、まだ時間の余裕がある。次年度から、授業も減ることになる。オンラインで、古書「1円」で買える文庫本でも読んで時間をすごしたいと思っている。花粉症のシーズンなので、あまり外出はしたくない気分でいる。本を読むという生活をおくりたい。そして、それが、あくまでも人文学の基本なのであるということを、確認しておきたいと思っている。

昔、若い時に読んだ本、名作、名著、古典、それから、近年の文学賞受賞作など、再度、読書ということに時間をつかう生活をおくりたいと思っている。

今、『春の雪』を読み始めている。

三島の文章というのは、こんなに華麗な、あるいは、見方をかえれば、虚飾とでもいうべき文章であったかと、今になって再読してみて、感じいっている。昔、若いときに読んだときには、この装飾過多とでいうべき文章は、さほど気にならなかったのだが。

「春の雪」の冒頭近くにある、清水と髑髏の例え話。昔、読んだときも、このエピソードだけは、強烈に憶えているのだが……今でも憶えている……このエピソードが、『豊饒の海』にどうかかわるのか、ある意味での余計なひとことなのか、あるいは、用意周到な伏線として書いてあるのか、そのようなことを考えながら読んでいる。

追記 2017-03-19
『春の雪』については、
やまもも書斎記 2017-03-19
『豊饒の海』第一巻『春の雪』三島由紀夫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/03/19/8410111

追記 2017-03-24
第二巻『奔馬』については、
やまもも書斎記 2017-03-24
『豊饒の海』第二巻『奔馬』三島由紀夫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/03/24/8418304

追記 2017-03-30
『暁の寺』については、
やまもも書斎記 2017年03月30日
『豊饒の海』第三巻『暁の寺』三島由紀夫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/03/30/8425704

追記 2017-04-03
『天人五衰』については、
やまもも書斎記 2017年4月3日
『豊饒の海』第四巻『天人五衰』三島由紀夫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/04/03/8441386

『とめられなかった戦争』加藤陽子2017-03-10

2017-03-10 當山日出夫

加藤陽子.『とめられなかった戦争』(文春文庫).文藝春秋.2017 (NHK出版.2011)
http://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167908003

加藤陽子の本については、すでに何度かとりあげている。

やまもも書斎記 2016年9月12日
加藤陽子『戦争まで-歴史を決めた交渉と日本の失敗-』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/09/12/8182853

やまもも書斎記 2016年7月9日
加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』憲法とE・H・カーのこと
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/07/09/8127772

やまもも書斎記 2016年7月10日
加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』松岡洋右のこと
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/07/10/8128707

そして、今回のこの本(文庫版)は、以前、2011年に、NHK出版から、『NHKさかのぼり日本史 ②昭和 とめられなかった戦争』のタイトルで出ていたもの。HNK版も買って読んだが、文庫本になって出たので、改めて読んでみた。

著者(加藤陽子)が、この本にこめた思いは、本書の最後にある次のようなことばだろう。やや長くなるが引用する。

(戦争の責任などについて)国家の責任を強く追求する思いで歴史を振り返りたくなる気持ちもわかります。しかし、たとえば、自らが分村移民を送り出す村の村長であったらどう行動したか、あるいは、県の開拓主事であったらどう行動したか、移民しようとしている家の妻であったらどう行動したか、関東軍の若い将校であったとしたらどう行動したか、そのような目で歴史を振り返って見ると、また別の歴史の姿が見えてくると思います。近代史をはるか昔におきた古代のことのように見る感性、すなわち、自国と外国、味方と敵といった、切れば血の出る関係としてではなく、あえて現在の自分とは遠い時代のような関係として見る感性、これは、未来に生きるための指針を歴史から得ようと考える際には必須の知性であると考えています。(pp.174-175)

このような歴史観のもとに、この本では、4章にわけて、時代をさかのぼるかたちで、なぜ、あの時に戦争をやめることができなかったのかが、検証してある。

第1章は、1944(昭和19)年 サイパン陥落
第2章は、1941(昭和16)年 日米開戦
第3章は、1937(昭和12)年 日中戦争
第4章は、1933(昭和8)年 満州事変

一般に、満州事変は、1931(昭和6)年の事件だが、この本では、熱河侵攻を歴史のターンイングポイントにしている。

そして、この本を歴史書として読んだときに、その特徴となるのは、歴史を動かすものとして、時の為政者の判断も重用だが、それと同時に、時代の雰囲気……今のことばでいえば「空気」とでも読み替えることができようか……の流れがあることを、書いてあることだろう。上は、昭和天皇の判断から、東条英機、松岡洋右、石原莞爾などの人物の、その時々の、重要人物の判断があったことが記される。そして、その時代、なぜ、そのような判断をすることになったのか、時代の流れ、社会全体の人びとの気持ちというものを見ることを忘れてはいない。

その一例として、第2章の日中戦争について語るとき、その当時の、四十歳代の社会の中堅をになっている人間たちが、いつの生まれかを見ている。それは、日露戦争の勝利の記憶のある人びとである、と指摘する。

引用すると、

三十六年も前、四十歳代の彼らは、もちろん(日露戦争に)参戦したわけではありません。けれども、「少年のときに日露戦争を体験した」という共通点があるのです。(p.84)

とあり、昭和天皇もその例外ではないことに言及している。

この本は、重厚な歴史書ではないが、今日から近現代の歴史をどのように考えるか、貴重な視点を提供してくれる本である。まず、NHKから出た本であり、今回、文庫版になった。新発見の歴史的事実があるという類の書物ではない。しかし、歴史から何を学び取るかという観点からは、重要な提言のある本だと思う。

さて、このような観点にたって、私自身の場合は、どうであろうか。日露戦争に勝った時の体験を幼少期にもっている人間が、日中戦争から太平洋戦争・大東亜戦争へとつきすすんでいくことになった。では、戦後に生まれた、私自身の場合はどうか。戦争に敗れた記憶を継承している世代ということになろうか。あるいは、ベトナム戦争の記憶のある世代ともいえよう。だから、平和主義ということもあるし、反面、軍事的リアリズムの重要性を感じるというところもあるだろう。このような自分自身の感性のよりどころを、歴史の流れのなかにおいて見ることも、時には必要なことである。

追記 2017-03-11
このつづきは、
やまもも書斎記 2017-03-11
『とめられなかった戦争』加藤陽子(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/03/11/8400780