「“新約聖書 福音書” (1)悲しむ人は幸いである」 ― 2024-08-13
2024年8月13日 當山日出夫
100分de名著 “新約聖書 福音書” (1)悲しむ人は幸いである
再放送である。最初の放送のときは見ていなかった。
新約聖書を読むということについては、このこと自体について、いろんなことが言える。強いて言えば、聖書は「読む」ものなのか、という根本的な問題がある。また、言語学、文献学的にも、様々な論点がある。少なくとも、イエスは何語で話し、それが書物となったときには何語でどのような文字で書かれ、それが、その後、どのようにして今日にまで伝わっているのか、ということは考えるべきことになる。
だが、しかし、そんなことはふっとばして、現代日本語で聖書を読んでみるということも、また意義のあることなのだろう。現代日本で書物として聖書を読むということについては、やはり若松英輔が適任なのかなと思う。これが、特定の教会や宗派を代表するような人では、この番組にふさわしくないだろう。
とはいえ、どうでもいいことのようだが気になることとしては、番組で使っていた聖書が、フランシスコ会の訳であったのは、どういう理由によるのだろうか。私は、現代の日本の聖書の翻訳事情にはまったく疎いのでよく分からないところなのだが、何か理由があってのことにちがいない。
この回を見て思うことの一つとして、神とは何か、という問いかけをしていないことである。神はア・プリオリに存在するものとしてある。現代で、このように考えないと、聖書について語ることは難しいのかもしれない。
番組のなかで、若松英輔は「キリスト者」と言っていた。時々目にすることばなのだが、日本でこの用語はいつごろから使われるようになったのか、気になるとことである。おそらく日本におけるキリスト教信仰のあり方の歴史と深くかかわる言い方だろうと思う。
それにしても、聖書の読み方が、あまりにも現代的である、という印象を持ってしまうのだが、これはこれとしていいことなのだろう。そのように読めるのも、また聖書という書物である、ということである。
2024年8月12日記
100分de名著 “新約聖書 福音書” (1)悲しむ人は幸いである
再放送である。最初の放送のときは見ていなかった。
新約聖書を読むということについては、このこと自体について、いろんなことが言える。強いて言えば、聖書は「読む」ものなのか、という根本的な問題がある。また、言語学、文献学的にも、様々な論点がある。少なくとも、イエスは何語で話し、それが書物となったときには何語でどのような文字で書かれ、それが、その後、どのようにして今日にまで伝わっているのか、ということは考えるべきことになる。
だが、しかし、そんなことはふっとばして、現代日本語で聖書を読んでみるということも、また意義のあることなのだろう。現代日本で書物として聖書を読むということについては、やはり若松英輔が適任なのかなと思う。これが、特定の教会や宗派を代表するような人では、この番組にふさわしくないだろう。
とはいえ、どうでもいいことのようだが気になることとしては、番組で使っていた聖書が、フランシスコ会の訳であったのは、どういう理由によるのだろうか。私は、現代の日本の聖書の翻訳事情にはまったく疎いのでよく分からないところなのだが、何か理由があってのことにちがいない。
この回を見て思うことの一つとして、神とは何か、という問いかけをしていないことである。神はア・プリオリに存在するものとしてある。現代で、このように考えないと、聖書について語ることは難しいのかもしれない。
番組のなかで、若松英輔は「キリスト者」と言っていた。時々目にすることばなのだが、日本でこの用語はいつごろから使われるようになったのか、気になるとことである。おそらく日本におけるキリスト教信仰のあり方の歴史と深くかかわる言い方だろうと思う。
それにしても、聖書の読み方が、あまりにも現代的である、という印象を持ってしまうのだが、これはこれとしていいことなのだろう。そのように読めるのも、また聖書という書物である、ということである。
2024年8月12日記
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