「混迷の世紀 最終回 “超大国・分断” アメリカはどこへ」 ― 2024-11-05
2024年11月5日 當山日出夫
NHKスペシャル 混迷の世紀 最終回 “超大国・分断” アメリカはどこへ
一昨日の放送であるが、録画してあったのをようやく見た。今日が、アメリカ大統領選挙の日である。
見ながら思ったことを書いてみる。
これまでアメリカ大統領選挙をめぐっては、いろんな番組があり、ニュースでも触れられてきている。そう新しい問題点とか、新たな視点からの解説があったということはないかと思う。
気になったことがある。この番組に登場していたアメリカの人は、基本的に白人で、男性が多かった。意図的に、このように取材して編集したのだろうか。今のアメリカでは、非白人である人びとが半数ほどいるはずなので、その人たちも重要であるはずである。女性が登場していたが、どちらかといえば若い女性が多かった。高齢女性はどうなのだろうか。教会で、祈りを捧げる人びとの様子は、確かにそうなんだろうと思うが、画面に映っていたのは、年配の白人男性ばかりであった。
このような番組を作るとき、登場人物の性別や年齢、それから「人種」や「宗教」ということについて、PC(政治的タテマエ)は必然的に要求されることにちがいない。その一方で、テレビの画面を見て、そこから視聴者が何を感じるかは、また別の問題かもしれない。この番組を作った人は、見る人が何を思って見るとおもっていたのだろうか。
あえて天邪鬼な言い方をしてみれば、民主主義はそんなにいいものなのだろうか。
まあ、私の年代としては(一九五五年生)、戦後民主主義の虚妄にかける……ということに、共感する。そして、この価値観を尊重するという意味ににおいて、(ことばの本来の意味において)「保守」でありたいと思っている。
世界の流れとしては、国民国家を枠とした新たな秩序の再構築ということになるのかと思う。これには、国民国家に失敗した国、地域を、どうするかということを含めてである。
日本が、アメリカから自立するべき(これは、主に日本では左派の主張になる)ということは、ものの考え考え方としては、トランプよりの発想であり、自前で軍備を持つことになる。だが、これは、同時に、日本の左派が否定していることでもある。左派は民主党支持である。(このあたりのネジレを、どう自覚しているかはさだかではないが。)
中国のことがまったく出てきていなかったことは、意図的にそのように番組を作ったのだろう。中国式の専制政治の方がうまくいく(かもしれない)というのは、アメリカの民主主義を主張する立場からすると、まっこうから対立することになる。
自分とは異なる意見を持つ人のことを理解すること。このことの重要性は改めていうまでもないことだろう。だが、このことがきわめて難しいことも、現在の日本においても痛感することである。先般の衆議院選挙の結果と、それをうけての各種の議論を見ると、自分とは異なる意見を尊重するという姿勢が、急激に失われてきているように思えてならない。刺激的で攻撃的な言論が目につくようになった。これは、今のネット社会において、しかたのないことかもしれないが。
ともあれ、選挙が終われば、その結果をうけて、いろんな番組が作られることになるだろう。
2024年11月5日記
NHKスペシャル 混迷の世紀 最終回 “超大国・分断” アメリカはどこへ
一昨日の放送であるが、録画してあったのをようやく見た。今日が、アメリカ大統領選挙の日である。
見ながら思ったことを書いてみる。
これまでアメリカ大統領選挙をめぐっては、いろんな番組があり、ニュースでも触れられてきている。そう新しい問題点とか、新たな視点からの解説があったということはないかと思う。
気になったことがある。この番組に登場していたアメリカの人は、基本的に白人で、男性が多かった。意図的に、このように取材して編集したのだろうか。今のアメリカでは、非白人である人びとが半数ほどいるはずなので、その人たちも重要であるはずである。女性が登場していたが、どちらかといえば若い女性が多かった。高齢女性はどうなのだろうか。教会で、祈りを捧げる人びとの様子は、確かにそうなんだろうと思うが、画面に映っていたのは、年配の白人男性ばかりであった。
このような番組を作るとき、登場人物の性別や年齢、それから「人種」や「宗教」ということについて、PC(政治的タテマエ)は必然的に要求されることにちがいない。その一方で、テレビの画面を見て、そこから視聴者が何を感じるかは、また別の問題かもしれない。この番組を作った人は、見る人が何を思って見るとおもっていたのだろうか。
あえて天邪鬼な言い方をしてみれば、民主主義はそんなにいいものなのだろうか。
まあ、私の年代としては(一九五五年生)、戦後民主主義の虚妄にかける……ということに、共感する。そして、この価値観を尊重するという意味ににおいて、(ことばの本来の意味において)「保守」でありたいと思っている。
世界の流れとしては、国民国家を枠とした新たな秩序の再構築ということになるのかと思う。これには、国民国家に失敗した国、地域を、どうするかということを含めてである。
日本が、アメリカから自立するべき(これは、主に日本では左派の主張になる)ということは、ものの考え考え方としては、トランプよりの発想であり、自前で軍備を持つことになる。だが、これは、同時に、日本の左派が否定していることでもある。左派は民主党支持である。(このあたりのネジレを、どう自覚しているかはさだかではないが。)
中国のことがまったく出てきていなかったことは、意図的にそのように番組を作ったのだろう。中国式の専制政治の方がうまくいく(かもしれない)というのは、アメリカの民主主義を主張する立場からすると、まっこうから対立することになる。
自分とは異なる意見を持つ人のことを理解すること。このことの重要性は改めていうまでもないことだろう。だが、このことがきわめて難しいことも、現在の日本においても痛感することである。先般の衆議院選挙の結果と、それをうけての各種の議論を見ると、自分とは異なる意見を尊重するという姿勢が、急激に失われてきているように思えてならない。刺激的で攻撃的な言論が目につくようになった。これは、今のネット社会において、しかたのないことかもしれないが。
ともあれ、選挙が終われば、その結果をうけて、いろんな番組が作られることになるだろう。
2024年11月5日記
フロンティア「世界は錯覚で出来ている」 ― 2024-11-05
2024年11月5日 當山日出夫
フロンティア 世界は錯覚で出来ている
以前、色彩学関係の本をかなり読んだことがある。色覚異常、一般に色盲といわれる現象であるが、その人にとって、辞書や辞典で使われる文字の色分けが、どう認識できるか、ということを考えたことがある。これは、いくつか論文にして発表もした。私としては、これも日本語学の研究の一部である。(結果としては、英語辞書などで重要な単語の見出しを赤色に印刷することはあまり意味がない、ということになる。それから、教室で黒板に板書するとき、赤い色のチョークは使わないのがよい。)
このとき、人間の眼から入った情報がどのように人間は認識することになるのか、考えることにもなる。たとえば、色彩だけを見るということはない。色彩を認識するとき、かならず形も同時に認識している。また、人間の眼は外の世界の一部しか見ることができないが、しかし視覚情報としては全体が見えているように感じる、など。
その延長としては、錯視という現象があることになる。番組は錯覚という用語を使っていたが、心理学の分野では錯視というはずである。錯視も、ひろい意味での錯覚の一部ということになるだろう。
人間にとって、脳のなかで構成される世界、それが視覚であれ聴覚であれ触覚であれ、構築されたもの、いわばバーチャルなものであるというのは、現代においては学問的に普通に理解できることかと考える。
いいかえるならば、脳に人間の根拠を求める考え方ということになる。人間の人間たるゆえんをどこに求めるかとなったとき、現代では、脳に求めるか、あるいは、DNAに求めるか、というところにいたりつくだろう。
では、脳が自己なのか。自己ととは何であるのか、新しい研究領域の発明と、技術の発達で、従来とは異なる発想で考えなければならなくなっていることは確かである。意識というものの中核に位置するのは脳であるだろうが、その脳はDNAの産物でもある。
哲学的な、そして同時に現実的な問題として、人間はどこまで自由意志を持ちうるのかということもある。バーチャル技術によって、自分の意識を改変することが可能であることが、証明されつつあることになる。また、既存の研究として、行動科学や心理学などの分野においても、人間の自由意志とは何かということが問われている。さらには、そもそも人間とは文化的社会的環境のなかで育ち自己を形成していくものであり、それらから完全に自由な人間ははたして有りうるのか、という古くからの問題もある。
人間の能力をバーチャルに拡張する、それを現実に使うことが想定されるのが、昔のSF漫画風にいうならばサイボーグ戦士である。そこまでいかないにしても、戦場において兵士を戦わせるための訓練として、この番組で紹介されていた発想や技術の応用の延長ということは、もうすでに現実のものになっていると認識しておいた方がいいだろう。人間の意識や心をバーチャルな世界でコントロールすることになる。(さらにその延長としては、戦場で心を傷ついた人間をどう癒やすのか、という方向での使い方もある。)
無論、これは、倫理的にどこまで許されるのかという問題をはらむことになり、これについては、今からきちんとした基礎的な考察や研究を積み重ねていく必要がある。科学や技術と人間の倫理、これは常に総合的にかえりみられなくてはならない。
興味深かったのは、バーチャルの技術を使って自分の能力を高めたいか、という質問に対して、学生がノーと言ったことである。おそらく、東京大学の学生を対象としたアンケートだと思うが、東京大学の学生なら、自分の努力で東京大学に入学したのだと思いたい、そう思っている、ということになる。(現実には、教育格差ということばでいわれているように、そのような環境で生まれ育ったという要因があるにはちがいないのであるが。)
人間の意識と身体性という議論、人間は世界をどう認知しているのかということ、人間はほんとうに自由なのかという問い、心とは何かという問題、など、これらの錯綜した、古くからあり、また、非常に現代的でもある議論のなかにわれわれはいるということは確かなことである。
人間の脳がバーチャルに作り出す世界、とはいうものの、それが人によってバラバラということではなく、ある一定の枠のなかにおさまっているのは、何故なのだろうか。人びとに共通しておこるからこそ錯覚、錯視なのである。では、人間がおたがいに共同で構築する文化というものをどう考えることになるのか、考えるべきことはさらに広がっていくにちがいない。
2024年11月1日記
フロンティア 世界は錯覚で出来ている
以前、色彩学関係の本をかなり読んだことがある。色覚異常、一般に色盲といわれる現象であるが、その人にとって、辞書や辞典で使われる文字の色分けが、どう認識できるか、ということを考えたことがある。これは、いくつか論文にして発表もした。私としては、これも日本語学の研究の一部である。(結果としては、英語辞書などで重要な単語の見出しを赤色に印刷することはあまり意味がない、ということになる。それから、教室で黒板に板書するとき、赤い色のチョークは使わないのがよい。)
このとき、人間の眼から入った情報がどのように人間は認識することになるのか、考えることにもなる。たとえば、色彩だけを見るということはない。色彩を認識するとき、かならず形も同時に認識している。また、人間の眼は外の世界の一部しか見ることができないが、しかし視覚情報としては全体が見えているように感じる、など。
その延長としては、錯視という現象があることになる。番組は錯覚という用語を使っていたが、心理学の分野では錯視というはずである。錯視も、ひろい意味での錯覚の一部ということになるだろう。
人間にとって、脳のなかで構成される世界、それが視覚であれ聴覚であれ触覚であれ、構築されたもの、いわばバーチャルなものであるというのは、現代においては学問的に普通に理解できることかと考える。
いいかえるならば、脳に人間の根拠を求める考え方ということになる。人間の人間たるゆえんをどこに求めるかとなったとき、現代では、脳に求めるか、あるいは、DNAに求めるか、というところにいたりつくだろう。
では、脳が自己なのか。自己ととは何であるのか、新しい研究領域の発明と、技術の発達で、従来とは異なる発想で考えなければならなくなっていることは確かである。意識というものの中核に位置するのは脳であるだろうが、その脳はDNAの産物でもある。
哲学的な、そして同時に現実的な問題として、人間はどこまで自由意志を持ちうるのかということもある。バーチャル技術によって、自分の意識を改変することが可能であることが、証明されつつあることになる。また、既存の研究として、行動科学や心理学などの分野においても、人間の自由意志とは何かということが問われている。さらには、そもそも人間とは文化的社会的環境のなかで育ち自己を形成していくものであり、それらから完全に自由な人間ははたして有りうるのか、という古くからの問題もある。
人間の能力をバーチャルに拡張する、それを現実に使うことが想定されるのが、昔のSF漫画風にいうならばサイボーグ戦士である。そこまでいかないにしても、戦場において兵士を戦わせるための訓練として、この番組で紹介されていた発想や技術の応用の延長ということは、もうすでに現実のものになっていると認識しておいた方がいいだろう。人間の意識や心をバーチャルな世界でコントロールすることになる。(さらにその延長としては、戦場で心を傷ついた人間をどう癒やすのか、という方向での使い方もある。)
無論、これは、倫理的にどこまで許されるのかという問題をはらむことになり、これについては、今からきちんとした基礎的な考察や研究を積み重ねていく必要がある。科学や技術と人間の倫理、これは常に総合的にかえりみられなくてはならない。
興味深かったのは、バーチャルの技術を使って自分の能力を高めたいか、という質問に対して、学生がノーと言ったことである。おそらく、東京大学の学生を対象としたアンケートだと思うが、東京大学の学生なら、自分の努力で東京大学に入学したのだと思いたい、そう思っている、ということになる。(現実には、教育格差ということばでいわれているように、そのような環境で生まれ育ったという要因があるにはちがいないのであるが。)
人間の意識と身体性という議論、人間は世界をどう認知しているのかということ、人間はほんとうに自由なのかという問い、心とは何かという問題、など、これらの錯綜した、古くからあり、また、非常に現代的でもある議論のなかにわれわれはいるということは確かなことである。
人間の脳がバーチャルに作り出す世界、とはいうものの、それが人によってバラバラということではなく、ある一定の枠のなかにおさまっているのは、何故なのだろうか。人びとに共通しておこるからこそ錯覚、錯視なのである。では、人間がおたがいに共同で構築する文化というものをどう考えることになるのか、考えるべきことはさらに広がっていくにちがいない。
2024年11月1日記
「東海道“五十七次”の旅▼第三夜 ついにゴールの大阪へ!」 ― 2024-11-05
2024年11月5日 當山日出夫
ブラタモリ 東海道“五十七次”の旅▼第三夜 ついにゴールの大阪へ!
第三回は、枚方から森口、そしてゴールが高麗橋、ということであった。
江戸時代、この道はどれぐらい利用されていたのだろうか。京都と大坂を結ぶものとしては、淀川の水運が知られている。それに対して、陸路でどれぐらい人が歩き、物資が運ばれていたのか、このことについて歴史学の方ではどのように考えられているのだろうか。
枚方のくらわんか舟のことはよく知られている、と思っている。川にそって宿屋があって宴会をしていた、ということであったが、実際には、女性を相手にする商売もさかんだったにはちがいないと思うが、このところは番組ではスルーしていた。まあ、このあたりのことはいたしかたないだろう。
どうでもいいことだが、ひらパーには行ったことがない。我が家から行くとすると、そう遠くはない。自動車でいけば比較的近いところにある。だが、京阪沿線になるので、電車で行くとなるとちょっと面倒である。
歴史的に面白いかなと思うのは、枚方と門真のあたりの近現代かもしれない。
高麗橋が終点ということだったが、当時の大坂の街の様子については触れることがなかった。橋の街である大坂と、淀川水運の関係については、いろいろと面白いことがあるにちがいない。
2024年11月5日記
ブラタモリ 東海道“五十七次”の旅▼第三夜 ついにゴールの大阪へ!
第三回は、枚方から森口、そしてゴールが高麗橋、ということであった。
江戸時代、この道はどれぐらい利用されていたのだろうか。京都と大坂を結ぶものとしては、淀川の水運が知られている。それに対して、陸路でどれぐらい人が歩き、物資が運ばれていたのか、このことについて歴史学の方ではどのように考えられているのだろうか。
枚方のくらわんか舟のことはよく知られている、と思っている。川にそって宿屋があって宴会をしていた、ということであったが、実際には、女性を相手にする商売もさかんだったにはちがいないと思うが、このところは番組ではスルーしていた。まあ、このあたりのことはいたしかたないだろう。
どうでもいいことだが、ひらパーには行ったことがない。我が家から行くとすると、そう遠くはない。自動車でいけば比較的近いところにある。だが、京阪沿線になるので、電車で行くとなるとちょっと面倒である。
歴史的に面白いかなと思うのは、枚方と門真のあたりの近現代かもしれない。
高麗橋が終点ということだったが、当時の大坂の街の様子については触れることがなかった。橋の街である大坂と、淀川水運の関係については、いろいろと面白いことがあるにちがいない。
2024年11月5日記
ドキュメント72時間「気象神社」 ― 2024-11-06
2024年11月6日 當山日出夫
ドキュメント72時間 気象神社
この神社のことは知らなかった。『天気の子』は、名前を知っている程度である。
天気予報というのが「あたる」ものなったのは、最近のことである。私の子どものころは、天気予報は「あたらない」ものの代表のようなものだった。それが、いろいろな観測技術の進歩によって、精度が格段に向上した。一番の要因は、おそらく「ひまわり」の運用によるものだろうと思うのだけれど、どうなのだろうか。
登場していた男性……老人といってよい……が言っていたことだが、昔は東京で気温が三〇度を超えると暑いと言っていた。私が、東京で学生生活をはじめたころ、ほぼ半世紀ほど昔のことになるが、京都にくらべて東京の夏はそんなに暑くないと感じたものである。それから印象的だったのが、東京の冬の空の明るさである。京都の冬は陰鬱だった。
気象予報士である人にとっては、大事な神様ということになるのだろう。
神社の絵馬が下駄の形をしているのは、若い人には意味が分かるだろうか。
五円硬貨でお賽銭をあげている女性がいたけれど、実際には、両替手数料がかなりかかってしまうので、神社の取り分はわりと少ない。それで御利益が減ることはないだろうけれど。
最後のところで、協力に立志舎と名前があったけれど、これはどう関係があるのだろうか、ちょっと気になったところである。
神社の入り口のところに、鳥居で一礼と書いたのぼりがたっていた。神社にお参りするとき、鳥居のところで一礼する風習は、昔はなかったと記憶するのだが、いつごろからのものなのだろうか。無論、二礼二拍手一礼という作法も、近代になってからのでっちあげ(はいいすぎかもしれないが)である。
2024年11月2日記
ドキュメント72時間 気象神社
この神社のことは知らなかった。『天気の子』は、名前を知っている程度である。
天気予報というのが「あたる」ものなったのは、最近のことである。私の子どものころは、天気予報は「あたらない」ものの代表のようなものだった。それが、いろいろな観測技術の進歩によって、精度が格段に向上した。一番の要因は、おそらく「ひまわり」の運用によるものだろうと思うのだけれど、どうなのだろうか。
登場していた男性……老人といってよい……が言っていたことだが、昔は東京で気温が三〇度を超えると暑いと言っていた。私が、東京で学生生活をはじめたころ、ほぼ半世紀ほど昔のことになるが、京都にくらべて東京の夏はそんなに暑くないと感じたものである。それから印象的だったのが、東京の冬の空の明るさである。京都の冬は陰鬱だった。
気象予報士である人にとっては、大事な神様ということになるのだろう。
神社の絵馬が下駄の形をしているのは、若い人には意味が分かるだろうか。
五円硬貨でお賽銭をあげている女性がいたけれど、実際には、両替手数料がかなりかかってしまうので、神社の取り分はわりと少ない。それで御利益が減ることはないだろうけれど。
最後のところで、協力に立志舎と名前があったけれど、これはどう関係があるのだろうか、ちょっと気になったところである。
神社の入り口のところに、鳥居で一礼と書いたのぼりがたっていた。神社にお参りするとき、鳥居のところで一礼する風習は、昔はなかったと記憶するのだが、いつごろからのものなのだろうか。無論、二礼二拍手一礼という作法も、近代になってからのでっちあげ(はいいすぎかもしれないが)である。
2024年11月2日記
ねほりんぱほりん「社長秘書」 ― 2024-11-06
2024年11月6日 當山日出夫
ねほりんぱほりん 社長秘書
これは面白かった。
私は秘書などやとったこともないし、無論、秘書の仕事などしたこともない。なんとなくイメージで知っているだけである。こんなことまでやっているのか、という興味津々であった。
先方の会社のランクを意識して、秘書同士の仁義なき戦いがあるというのは、そんなものかもしれない。六本木ヒルズと銀座SIXのどっちにしますか、というのはリアルである。
相手の名前の表記で、斎藤とか渡辺とかの字のミスをしないようにというのは、同情する。(ちょっと専門的になるが、これが昔の「0208」だけの環境だったらあきらめがつくことでもあったのだが、とにかくユニコードが使えるようになったので、事態はややこしくなる一方だろう。辻とか葛とかの漢字を含んでいる場合は、どうすることになるのだろうか。「0213:04」でいきます、ということで折り合えればいいのかもしれないが。)
食事のときに、ハイボールのウイスキーを少なめでお願いします、というのは、そこまでしなくてもと思うが、酔っ払ってしまえば違いは分からないかもしれない。
多忙な社長の業務をささえるということであるが、実は影で、その企業のないないの事情(社員のゴシップなどをふくめて)に精通している必要があり、その秘書の気遣いのおかげて、その会社の業績がある、というあたりは、あるいは日本の企業ならではのことかもしれない。
旧来の日本の企業と、ベンチャー企業との、社風の違いということも興味深い。秘書にもとめられるものも、違ってくる。
それにしても社長は忙しい。分刻みでスケジュールが決まっている。五分の会議でことを決めるというのは、そのように準備できるスタッフが社内にいてのことにはちがいない。だが、これでは、お腹をこわしてトイレに行っている暇もないだろう、ということは、はっきり言って同情するしかない。我が身をふりかえって、社長にならない人生でよかったと思う。
2024年11月3日記
ねほりんぱほりん 社長秘書
これは面白かった。
私は秘書などやとったこともないし、無論、秘書の仕事などしたこともない。なんとなくイメージで知っているだけである。こんなことまでやっているのか、という興味津々であった。
先方の会社のランクを意識して、秘書同士の仁義なき戦いがあるというのは、そんなものかもしれない。六本木ヒルズと銀座SIXのどっちにしますか、というのはリアルである。
相手の名前の表記で、斎藤とか渡辺とかの字のミスをしないようにというのは、同情する。(ちょっと専門的になるが、これが昔の「0208」だけの環境だったらあきらめがつくことでもあったのだが、とにかくユニコードが使えるようになったので、事態はややこしくなる一方だろう。辻とか葛とかの漢字を含んでいる場合は、どうすることになるのだろうか。「0213:04」でいきます、ということで折り合えればいいのかもしれないが。)
食事のときに、ハイボールのウイスキーを少なめでお願いします、というのは、そこまでしなくてもと思うが、酔っ払ってしまえば違いは分からないかもしれない。
多忙な社長の業務をささえるということであるが、実は影で、その企業のないないの事情(社員のゴシップなどをふくめて)に精通している必要があり、その秘書の気遣いのおかげて、その会社の業績がある、というあたりは、あるいは日本の企業ならではのことかもしれない。
旧来の日本の企業と、ベンチャー企業との、社風の違いということも興味深い。秘書にもとめられるものも、違ってくる。
それにしても社長は忙しい。分刻みでスケジュールが決まっている。五分の会議でことを決めるというのは、そのように準備できるスタッフが社内にいてのことにはちがいない。だが、これでは、お腹をこわしてトイレに行っている暇もないだろう、ということは、はっきり言って同情するしかない。我が身をふりかえって、社長にならない人生でよかったと思う。
2024年11月3日記
「出稼ぎ先は戦場 〜ネパール〜」 ― 2024-11-07
2024年11月7日 當山日出夫
Asia Insight 出稼ぎ先は戦場 〜ネパール〜
ロシアとウクライナが戦争するとしても、国民国家どうしの戦争として、戦場に行くのは自国民だけである……ということにはならないのが、現実の姿ということである。ロシアについては、ワグネルなどの軍事会社のことが言われていたし、また、囚人の軍役ということも伝えられている。だが、それ以外に傭兵として、外国からの出稼ぎ労働としての軍役もあることは、広く報じられていいことだと思う。(おそらく同じようなことは、ウクライナについてもあるのかもしれないが。)
戦争が「国民」によるものであるというのは、『坂の上の雲』から太平洋戦争までの日本の感覚にすぎないのだろう。ベトナム戦争になると、東西冷戦の時代である、アメリカ軍が戦った相手は、ベトナム人のベトコン(いまどきこんなことばは使わなくなっているが)だけではなかったはずであると思うが、どうだったろうか。
ネパールという国が、まともな生活をおくろうとするならば、外国に出稼ぎにいくしかない貧しい国である、ということは認識しておくべきだろう。そのうちの一部は日本にも来ている。ちなみに、日本での自動車の二種免許にネパール語が追加されたのは、最近のニュースである。
ネパールという国の政策の問題でもあるし、また、ロシアの問題でもある。少なくとも、戦場にいる兵士がどのような人びとであるのか、これはもっと知られていいことだと思う。
北朝鮮がロシアに派兵するということらしい。現代における戦争が、当事国の国民だけによるものではなくなっていることを、認識しておくべきことになる。また、もしイスラエルがさらに戦闘を拡大するとしたら、そこで戦う兵士はどのような人間で構成されたものであるのかとも思う。
傭兵として出稼ぎに外国に行く、ということがリアルには感じられないのは、それだけ日本が平和にすごしてきたということになるのだろう。
2024年11月1日記
Asia Insight 出稼ぎ先は戦場 〜ネパール〜
ロシアとウクライナが戦争するとしても、国民国家どうしの戦争として、戦場に行くのは自国民だけである……ということにはならないのが、現実の姿ということである。ロシアについては、ワグネルなどの軍事会社のことが言われていたし、また、囚人の軍役ということも伝えられている。だが、それ以外に傭兵として、外国からの出稼ぎ労働としての軍役もあることは、広く報じられていいことだと思う。(おそらく同じようなことは、ウクライナについてもあるのかもしれないが。)
戦争が「国民」によるものであるというのは、『坂の上の雲』から太平洋戦争までの日本の感覚にすぎないのだろう。ベトナム戦争になると、東西冷戦の時代である、アメリカ軍が戦った相手は、ベトナム人のベトコン(いまどきこんなことばは使わなくなっているが)だけではなかったはずであると思うが、どうだったろうか。
ネパールという国が、まともな生活をおくろうとするならば、外国に出稼ぎにいくしかない貧しい国である、ということは認識しておくべきだろう。そのうちの一部は日本にも来ている。ちなみに、日本での自動車の二種免許にネパール語が追加されたのは、最近のニュースである。
ネパールという国の政策の問題でもあるし、また、ロシアの問題でもある。少なくとも、戦場にいる兵士がどのような人びとであるのか、これはもっと知られていいことだと思う。
北朝鮮がロシアに派兵するということらしい。現代における戦争が、当事国の国民だけによるものではなくなっていることを、認識しておくべきことになる。また、もしイスラエルがさらに戦闘を拡大するとしたら、そこで戦う兵士はどのような人間で構成されたものであるのかとも思う。
傭兵として出稼ぎに外国に行く、ということがリアルには感じられないのは、それだけ日本が平和にすごしてきたということになるのだろう。
2024年11月1日記
「“百人一首” (1)「外から」見た魅力と謎」 ― 2024-11-07
2024年11月7日 當山日出夫
100分de名著 “百人一首” (1)「外から」見た魅力と謎
今から半世紀ほど前の昔、私が大学生になったときのことである。慶應の文学部であった。一年目は日吉のキャンパスで、教養課程になる。ちょうど私が入学した年からのことだったと思うが、三田の方から各学科から一人ずつ専門の先生がきて、特別に一コマ(通年)の講義があった。そのとき、国文科からは池田彌三郎先生の講義があった。教材は「百人一首」であった。
つかったテキストは、その当時の角川文庫版の『百人一首』(島津忠夫訳注)であった。これは、その当時において、「百人一首」の注釈書としては最高水準のものであった。その後、改訂新版が出て、これは、今でも「百人一首」の注釈書としては不動の地位にあるといっていいだろう。学生のときに使った、旧版の角川文庫の『百人一首』は、今でもしまってある。
池田彌三郎先生は、「ひゃくにんいっしゅ」とは言わなかった。「ひゃくにんしゅ」と言っていた。江戸っ子の言い方を伝えていたということである。
そのころ、国文学を勉強する学生が読んでおくべき本としてあったのが、岩波文庫の『百人一首一夕話』である。江戸時代に書かれた、啓蒙的な「百人一首」の解説であり、おもにその作者をめぐるいろんなエピソードが紹介されている。この本は、二回ぐらい読んだ。
「百人一首」は、近年になって急速に研究の進んだ文学作品の一つである。その成立、また、受容の歴史については、さまざまなことが分かってきている。特に成立論については、学生のころに学んだ知識では、追いつかなくなってきている。
第一回を見て思うこと、というか言いたいことはいくつかある。
山部赤人の「田子の浦……」の歌であるが、これは、『万葉集』にあるが、「百人一首」では改められている。(このようなことは、「百人一首」の注釈書なら書いてあることである。)「百人一首」にはこのような改作がある。それは、和歌の歴史、日本語の歴史をふまえて、理解しなければならないことになる。
番組の中で、和歌を書くと言っていた。おそらく「百人一首」は書かれたものとして成立したといっていいだろう。しかし、和歌の歴史をさかのぼれば、そもそもは書くものではなかった。まず、声に出して詠むものであったはずである。『万葉集』の歌の多くは、まず声に出して詠むものとして成立したと考える。ただ、全部がそうであるということではなく、一部には書かれたものもあったろう。そして、それは木簡が使われたとおぼしい。歌木簡の出土例などから、そう考えるのが、現在では妥当だろう。
昔は妻問婚で歌が必須であった。まあ、たしかにそうなのだろうが、これはやはり貴族階層に限って、と考えておくべきことかと思っている。一般の庶民にとって歌とはどんなものだったのか、これは分からないとすべきかもしれない。
ただ、日本文学における歌の歴史、受容ということを考えるとき、「百人一首」を手がかりとして、勉強することが有効であることは、これは私が学生だった昔も今も変わらないと思う。
2024年11月6日記
100分de名著 “百人一首” (1)「外から」見た魅力と謎
今から半世紀ほど前の昔、私が大学生になったときのことである。慶應の文学部であった。一年目は日吉のキャンパスで、教養課程になる。ちょうど私が入学した年からのことだったと思うが、三田の方から各学科から一人ずつ専門の先生がきて、特別に一コマ(通年)の講義があった。そのとき、国文科からは池田彌三郎先生の講義があった。教材は「百人一首」であった。
つかったテキストは、その当時の角川文庫版の『百人一首』(島津忠夫訳注)であった。これは、その当時において、「百人一首」の注釈書としては最高水準のものであった。その後、改訂新版が出て、これは、今でも「百人一首」の注釈書としては不動の地位にあるといっていいだろう。学生のときに使った、旧版の角川文庫の『百人一首』は、今でもしまってある。
池田彌三郎先生は、「ひゃくにんいっしゅ」とは言わなかった。「ひゃくにんしゅ」と言っていた。江戸っ子の言い方を伝えていたということである。
そのころ、国文学を勉強する学生が読んでおくべき本としてあったのが、岩波文庫の『百人一首一夕話』である。江戸時代に書かれた、啓蒙的な「百人一首」の解説であり、おもにその作者をめぐるいろんなエピソードが紹介されている。この本は、二回ぐらい読んだ。
「百人一首」は、近年になって急速に研究の進んだ文学作品の一つである。その成立、また、受容の歴史については、さまざまなことが分かってきている。特に成立論については、学生のころに学んだ知識では、追いつかなくなってきている。
第一回を見て思うこと、というか言いたいことはいくつかある。
山部赤人の「田子の浦……」の歌であるが、これは、『万葉集』にあるが、「百人一首」では改められている。(このようなことは、「百人一首」の注釈書なら書いてあることである。)「百人一首」にはこのような改作がある。それは、和歌の歴史、日本語の歴史をふまえて、理解しなければならないことになる。
番組の中で、和歌を書くと言っていた。おそらく「百人一首」は書かれたものとして成立したといっていいだろう。しかし、和歌の歴史をさかのぼれば、そもそもは書くものではなかった。まず、声に出して詠むものであったはずである。『万葉集』の歌の多くは、まず声に出して詠むものとして成立したと考える。ただ、全部がそうであるということではなく、一部には書かれたものもあったろう。そして、それは木簡が使われたとおぼしい。歌木簡の出土例などから、そう考えるのが、現在では妥当だろう。
昔は妻問婚で歌が必須であった。まあ、たしかにそうなのだろうが、これはやはり貴族階層に限って、と考えておくべきことかと思っている。一般の庶民にとって歌とはどんなものだったのか、これは分からないとすべきかもしれない。
ただ、日本文学における歌の歴史、受容ということを考えるとき、「百人一首」を手がかりとして、勉強することが有効であることは、これは私が学生だった昔も今も変わらないと思う。
2024年11月6日記
ザ・バックヤード「東京国立近代美術館」 ― 2024-11-07
2024年11月7日 當山日出夫
ザ・バックヤード 東京国立近代美術館
ここには何度か足をはこんでいる。高畑勲展は行った。東京で学会か何かあったときだったろうか。
番組のなかで紹介されていた、岸田劉生の「道路と土手と塀」は、その前に立ってしばらくの時間見ていたことを思い出す。強調していうならば、この絵を見てから、風景というものを人間がどのように認識するのか、ということについて改めて考えることになったといってもいいだろう。あるいは、芸術家がものを見る目とは何であるか、といってもいいかもしれない。
文化財の修復が可逆的なものでなければならない、というのは常識的なことだろう。近代の絵画に限らず、日本の古来からの絵画などについても、表装してある場合、将来において、それをやりなおすことができるように、そのときに作品を損傷することのないように、これは基本であると思っている。
絵を壁にかけるときのフックが映っていたが、見ると「MOMAT」と刻印してあった。つまり、これらは東京国立近代美術館の特注品であるということになる。
専門家は知っていることだが、東京国立近代美術館のみならず、国立西洋美術館や東京国立博物館などは、書物などの文献資料も多くコレクションしている。専門の研究者向けには、基本的にオープンなものとして運営されているはずである。
2024年10月31日記
ザ・バックヤード 東京国立近代美術館
ここには何度か足をはこんでいる。高畑勲展は行った。東京で学会か何かあったときだったろうか。
番組のなかで紹介されていた、岸田劉生の「道路と土手と塀」は、その前に立ってしばらくの時間見ていたことを思い出す。強調していうならば、この絵を見てから、風景というものを人間がどのように認識するのか、ということについて改めて考えることになったといってもいいだろう。あるいは、芸術家がものを見る目とは何であるか、といってもいいかもしれない。
文化財の修復が可逆的なものでなければならない、というのは常識的なことだろう。近代の絵画に限らず、日本の古来からの絵画などについても、表装してある場合、将来において、それをやりなおすことができるように、そのときに作品を損傷することのないように、これは基本であると思っている。
絵を壁にかけるときのフックが映っていたが、見ると「MOMAT」と刻印してあった。つまり、これらは東京国立近代美術館の特注品であるということになる。
専門家は知っていることだが、東京国立近代美術館のみならず、国立西洋美術館や東京国立博物館などは、書物などの文献資料も多くコレクションしている。専門の研究者向けには、基本的にオープンなものとして運営されているはずである。
2024年10月31日記
「バングラデシュ“世界の縫製工場”は変わったか」 ― 2024-11-08
2024年11月8日 當山日出夫
Asia Insight バングラデシュ“世界の縫製工場”は変わったか
いわゆるグローバルサウスという国における現状、ということになるのかなとは思う。安価な労働力で、単純な工場労働で、仕事を請け負う。バングラデシュの場合は、縫製工場ということになる。
たぶん、バングラデシュの工場に仕事を発注している日本の企業やブランドもあるにちがいないが、だからといって、日本で販売する価格を上げて、それを現地の工場労働者の待遇改善に……ということにはならない。国際的な熾烈な価格競争のなかで消費と仕事がまわっている。
日本にいてできることとしては、たとえば「フェアトレード」の製品を買う、ということぐらいだろうかなと、思うことになる。
ちょっと気になって見てみたのだが、BRICSにはバングラデシュは入っていないし、協力関係のある国のなかにも名前はない。BRICSなどに名をつらねることのできる国は、すでにそれだけの豊かさを実現している、資源と工業力を持った国という理解でいいのかなと思う。さらにそこからこぼれ落ちる国があり、そこで働く人びとがいることを、忘れてはならない。
強いて希望を感じるところは、グリーンファクトリーの認証制度。これが広く世界的に認識されるようになって、少々高くても、このような工場で作った製品を選べるようになるかもしれない。(だがそうすると、より安価な製品を求めて、より劣悪な労働環境のところに仕事が流れるということもあるだろうが。)
バングラデシュでメーデーで更新する人びとの映像が映っていた。日本で、メーデーというと、ほとんど形骸化してしまっているが、この国では、切実に労働者の問題である。イスラムの国でメーデーが行われているということは、はっきり言ってすこし意外な気もしたのではあるけれど。
2024年11月7日記
Asia Insight バングラデシュ“世界の縫製工場”は変わったか
いわゆるグローバルサウスという国における現状、ということになるのかなとは思う。安価な労働力で、単純な工場労働で、仕事を請け負う。バングラデシュの場合は、縫製工場ということになる。
たぶん、バングラデシュの工場に仕事を発注している日本の企業やブランドもあるにちがいないが、だからといって、日本で販売する価格を上げて、それを現地の工場労働者の待遇改善に……ということにはならない。国際的な熾烈な価格競争のなかで消費と仕事がまわっている。
日本にいてできることとしては、たとえば「フェアトレード」の製品を買う、ということぐらいだろうかなと、思うことになる。
ちょっと気になって見てみたのだが、BRICSにはバングラデシュは入っていないし、協力関係のある国のなかにも名前はない。BRICSなどに名をつらねることのできる国は、すでにそれだけの豊かさを実現している、資源と工業力を持った国という理解でいいのかなと思う。さらにそこからこぼれ落ちる国があり、そこで働く人びとがいることを、忘れてはならない。
強いて希望を感じるところは、グリーンファクトリーの認証制度。これが広く世界的に認識されるようになって、少々高くても、このような工場で作った製品を選べるようになるかもしれない。(だがそうすると、より安価な製品を求めて、より劣悪な労働環境のところに仕事が流れるということもあるだろうが。)
バングラデシュでメーデーで更新する人びとの映像が映っていた。日本で、メーデーというと、ほとんど形骸化してしまっているが、この国では、切実に労働者の問題である。イスラムの国でメーデーが行われているということは、はっきり言ってすこし意外な気もしたのではあるけれど。
2024年11月7日記
「深海探査を自動化せよ!海洋プラスチック汚染 最新報告2」 ― 2024-11-08
2024年11月8日 當山日出夫
サイエンスZERO 深海探査を自動化せよ!海洋プラスチック汚染 最新報告2
海洋プラスチック汚染についての、最新研究の報告である。
JAMSTECによる調査で、深海の海底にしずんだプラスチックのゴミの映像は、衝撃的である。これが、世界のどこにどれだけ蓄積されているのか、その全貌はまだ不明である。
海洋プラスチック汚染対策には、まず現状がどうなっているかを知る必要がある。どこにどれだけの汚染物質があるのか、地図を作らないといけない。そのために、無人の探査機の開発、それから、海中にあるマイクロプラスチックの調査のための機器の開発、ということであった。
こういう地道な調査研究については、やはり予算的な裏付けと、それから、国際的な協力が不可欠である、という当たり前の感想しか思いうかばないのだが、しかし、やっていく他はないだろう。
興味深いのは、海中のマイクロプラスチックの調査について、失敗したら現地で船のなかで、改良型を作ってしまうこと。こういう柔軟な対応ができるということが、必要なことになる。
2024年11月7日記
サイエンスZERO 深海探査を自動化せよ!海洋プラスチック汚染 最新報告2
海洋プラスチック汚染についての、最新研究の報告である。
JAMSTECによる調査で、深海の海底にしずんだプラスチックのゴミの映像は、衝撃的である。これが、世界のどこにどれだけ蓄積されているのか、その全貌はまだ不明である。
海洋プラスチック汚染対策には、まず現状がどうなっているかを知る必要がある。どこにどれだけの汚染物質があるのか、地図を作らないといけない。そのために、無人の探査機の開発、それから、海中にあるマイクロプラスチックの調査のための機器の開発、ということであった。
こういう地道な調査研究については、やはり予算的な裏付けと、それから、国際的な協力が不可欠である、という当たり前の感想しか思いうかばないのだが、しかし、やっていく他はないだろう。
興味深いのは、海中のマイクロプラスチックの調査について、失敗したら現地で船のなかで、改良型を作ってしまうこと。こういう柔軟な対応ができるということが、必要なことになる。
2024年11月7日記
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