『元号戦記』野口武則2020-10-26

2020-10-26 當山日出夫(とうやまひでお)

元号戦記

野口武則.『元号戦記-近代日本、改元の深層-』(角川新書).KADOKAWA.2020
https://www.kadokawa.co.jp/product/322004000811/

昨年の改元以来、年号「令和」をめぐってはいくつかの本がでている。そのなかのひとつということになるが、これは抜群に面白い。そして、年号をめぐる問題点を深くえぐり出している。

「令和」をめぐっては、いったい誰が考案者なのか、そのスクープ合戦という趣がある。だが、この本は、近代になってからの年号の歴史を追っている。明治、大正、昭和、とそれぞれの改元のとき、どのようにして新たな年号が決められたのか、その歴史的経緯をふまえている。

その結果うかびあがるのは、ある一人の人物であり、また、一つの家のものがたりである。近代になってからの年号は、基本的にある家……漢学、儒学の家……がになってきたといってよい側面がある。また、新しい年号が決まるにあたっては、その準備に人生を費やしたとしか思えない一人の人物の姿があった。(しかし、結果として、その苦労は水疱に帰したということになるのだろうが。)

そして、「一世一元」という制度の持つ問題点にもふれる。無論、これは近代になってからのものである。象徴天皇制がこれから継続するなら、それにふさわしい年号のありかた、決め方というものが、あってよいはずである。この意味において、今回の「令和」の決定が妥当なものであったかどうか、疑問の残るところである。

それにしても、「令和」が決まったことの背景には、この本で指摘されているような、あまりにも、浅薄、軽薄としかいいようのない、歴史観、文学観によっているのかと思うと、暗澹たる気持ちになる。

「令和」の年号とともに即位された今上天皇に対して、私は敬意をもっておきたいと思うが、その年号を決めたいきさつについては、我が国の年号の歴史において、ひとつの汚点として残ることになるのだろうと感じずにはいられない。まさに、君側の奸の浅慮である。

近代における年号の歴史、古代からの年号のあり方、また、東アジアにおける年号の歴史、これらを総合的にふまえて、これからの年号について、さらなる議論が、よりオープンなかたちで進められるべきであると思う。

さらに書いておくならば、「令和」の年号は、その出典とされる『万葉集』の歴史においても、大きな問題点を残したことになる。我が国の「古典」とはなんであるのか、今こそ、本当に議論しなければならないと痛感する。

2020年10月25日記