『夜中の薔薇』向田邦子2021-01-11

2021-01-11 當山日出夫(とうやまひでお)

夜中の薔薇

向田邦子.『夜中の薔薇』(講談社文庫).講談社.2016(講談社.1981 講談社文庫.1984)
https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000159375

続きである。
やまもも書斎記 2021年1月9日
『眠る盃』向田邦子
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/01/09/9335851

向田邦子のエッセイを読んだのは、若いときである。その後、ながらく遠ざかっていた。今になって、そのエッセイを読みなおすと……文庫本で読めるものを読んでいる……これらのエッセイを読んでいたころの自分を思い出す。今になって思うと、若かった。そして、文章を書いている向田邦子もまだ若いときであった。(その後、これらのエッセイを書いてほどなくして、その訃報に接することになったのであるが。)

この文庫本に収録されているエッセイのなかでは、「手袋をさがす」が印象に残る。もし、向田邦子が、その後の事故にあうことなく、長生きしていたら、どのような人生を送ることになったのか、読後感としてしみじみと感じるところがある。

向田邦子のエッセイの魅力は、なんといってもその文章の良さにある。決して難しいことばはつかわない。平易な表現でありながら、実に的確に物事、感情を描き出していく。特にその文章がきわだつのは、食べ物のことを書いているときである。食べるものについては、いまではいろんな文章が書かれるようになってきているが、そのなかでもきわだっているといってよいだろう。私が読んだ記憶では、食べるもののことと、猫の話しが多いエッセイであるという印象をいだいてきた。

ただ、これは、若いときに読んで思ったことなのだが……向田邦子は、食べ物や料理のことは、実においしそうに描き出すのだが、「味」とか「食感」とかについての記述がほとんどない。(このことについて、自身でそう言及していた文章を読んだことがあるようにも記憶している。)

2021年1月6日記

追記 2021-01-14
この続きは、
やまもも書斎記 2021年1月14日
『あ・うん』向田邦子
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/01/14/9337395

『麒麟がくる』あれこれ「松永久秀の平蜘蛛」2021-01-12

2021-01-12 當山日出夫(とうやまひでお)

『麒麟がくる』第四十回「松永久秀の平蜘蛛」
https://www.nhk.or.jp/kirin/story/40.html

前回は、
やまもも書斎記 2021年1月5日
『麒麟がくる』あれこれ「本願寺を叩け」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/01/05/9334406

いよいよ本能寺の変にむかって歴史は動き出したようだ。

松永久秀は、結局、滅亡することになるのだが、平蜘蛛の名器を光秀に残した。これが、きっかけで、光秀と信長との間に、隙間風が吹くことになる。信長は言っていた……光秀がはじめて自分に嘘をついた、と。

この回の最後で、光秀は、帝(正親町天皇)に会う意志をしめしていた。おそらくは、帝の叡慮のおもむくところにしたがって、これからの光秀、そして、信長の命運はきまっていくのかもしれない。どうもこのあたり、本能寺の変朝廷陰謀説という雰囲気になりつつあるようにおもえるが、どうだろうか。

印象にのこっているのは、久々に登場した帰蝶。安土城での光秀との面会であった。以前にもまして、美しく感じた。帰蝶は、美濃に隠棲するという。信長の側から離れるということで、これもまた、これからの信長と光秀との関係に影をおとすことになるのだろうか。

ところで、やはり、このドラマでは、女性の座り方は基本は立て膝であると思える。たま(光秀の娘)、伊呂波太夫、帰蝶、などそうであった。しかし、駒だけは、正座である。このあたりは、社会的階層、身分による違いという演出なのだろうかと思う。

このドラマものこりわずかである。最後は本能寺の変ということになるのだろうが、いったいどのように描くことになるのか、これからの展開を楽しみに見ることにしよう。

2021年1月11日記

追記 2021-01-19
この続きは、
やまもも書斎記 2021年1月19日
『麒麟がくる』あれこれ「月にのぼる者」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/01/19/9339010

ヤツデ2021-01-13

2021-01-13 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日は花の写真の日。今日は、ヤツデの花である。

前回は、
やまもも書斎記 2021年1月6日
カナメモチ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/01/06/9334765

今年の冬は寒い。特に、年があらたまってからのここ数日は、特に寒い。外に写真を撮りに出ようという気にもならないでいる。去年のうちに撮っておいたストックからである。

冬になると、我が家の近くで咲く花というと、山茶花、椿、それから、ヤツデの花ぐらいである。このうちヤツデは、家のまわりに数ヶ所にある。

ヤツデは、晩秋から冬にかけて白い花をさかせる。ヤツデの白い花を見ると冬を感じる。高村光太郎の詩に、ヤツデの花に冬を感じることを詠みこんだ作品があったかと覚えている。

このヤツデの花については、その雌雄をめぐっていろいろと面白いことがあるらしい。だが、横着をして、詳しく調べてはいない。

写真に撮るのはちょっとむずかしい。どのような構図で、どこにピントを合わせるか、現像しながらディスプレイを見て、考えてみるのだが、なかなか気にいったのがない。白い花なので、現像処理のときに、露出を少し調整してある。

庭に出ると、梅や木瓜の花の冬芽が観察できる。藪椿がそろそろ咲くだろうかと思う。冬は花には乏しいが、それなりの写真の対象になるものは見つけることができる。寒さがゆるんだら、カメラを持って庭にでることにしたい。

ヤツデ

ヤツデ

ヤツデ

ヤツデ

ヤツデ

Nikon D500
TAMRON SP AF 180mm F/3.5 Di MACRO 1:1

2021年1月11日記

追記 2021-01-20
この続きは、
やまもも書斎記 2021年1月20日
千両
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/01/20/9339278

『あ・うん』向田邦子2021-01-14

2021-01-14當山日出夫(とうやまひでお)

あ・うん

向田邦子.『あ・うん』(文春文庫).文藝春秋.2003(文藝春秋.1981 文春部の.1983)
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167277208

続きである。
やまもも書斎記 2021年1月11日
『夜中の薔薇』向田邦子
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/01/11/9336489

向田邦子の小説である。連作短篇を集めた長篇、あるいは、中編といったところだろうか。文庫本の解説を書いているのは、山口瞳。それによると、向田邦子は、この作品で直木賞をとったかもしれない、とある。結果的には、『思い出トランプ』で受賞ということになったのだが。

いい作品だと読んで感じる。このような、爽涼感のある小説は久しぶりという感じがする。しかし、描かれている内容は、どちらかといえば、暗く、重い。

仙吉と門倉の友情。その家族。出てくる登場人物は少ない。その少ない登場人物の、なんとも奇妙な交流のあり方、しかし、どこにでもあるよう家族の情感といったものを、しみじみと描いている。

その一方で、この作品は、「時代」を感じさせる。舞台となっている時代背景としては、昭和戦前の日中戦争のころである。まだ、太平洋戦争になるまえの時期という設定である。その時代の雰囲気というものを、作品の行間に感じ取ることができる。

そして、このような時代設定でなければ成り立ち得ないような、すじだてでもある。このあたりの微妙な感覚が実にたくみであると感じる。この小説が現代(向田邦子の生きた時代)であったとしたら、また別の作品になっていただろう。

向田邦子の作品の多くは若いときに読んだと思っていたが、たぶんこの小説は読んでいない。もう忘れてしまっている。だが、後書きにでてくる「目習い」ということばは、向田邦子の書いたもので覚えたという記憶がある。はて、この小説ではない、何か別の文章でだったのだろうか。

向田邦子は、ある意味で上手にその人生を終えたひとでもあると思う。しかし、このような作品を読むと、もう少し生きて小説を残してほしかったと、深く思うのである。

2021年1月7日記

追記 2021-01-15
この続きは、
やまもも書斎記 2021年1月15日
『女の人差し指』向田邦子
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/01/15/9337718

『女の人差し指』向田邦子2021-01-15

2021-01-15 當山日出夫(とうやまひでお)

女の人差し指

向田邦子.『女の人差し指』(文春文庫).文藝春秋.2011(文藝春秋.1982 文春文庫.1985)
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167277239

続きである。
やまもも書斎記 2021年1月14日
『あ・うん』向田邦子
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/01/14/9337395

向田邦子は、だいたい若いときに読んだかと思うのだが、このエッセイ集は、どうだったろうか。確かに読んだという記憶がない。

このエッセイ集は、いろんな雑誌などに書いたものを、テーマごとに部類分けして編集してある。

女の人差し指
テレビドラマ
食べ物


向田邦子のエッセイのエッセンスがつまったような編集になっている。

読んで興味深かったのは(どの文章もいいのだが)、テレビドラマについての文章かと思う。面白い指摘は、昔のテレビドラマは、ゆっくりしゃべっていた。原稿用紙の枚数も少なかった。それが、今(向田邦子の書いている今の時点)では、より多くの原稿用紙の枚数になっている。

このような指摘の箇所は、国語学、日本語学の観点から見ても、いろいろと考えるところでもある。

それから、向田邦子はこのようなことも書いている……テレビドラマは残らない。消えて無くなっていくものである。向田邦子の時代のテレビの作品は、確かに今では残っていない。これはこれでいいことなのかもしれない。そのようなものとしてのテレビドラマであり、そのようなものとして脚本を書いていた。

それが、エッセイ、小説になると、後の時代まで残る。現に、向田邦子のこの本でも、文庫版の「新装版」という形で、今でも刊行されている。

脚本家としての向田邦子の作品(ドラマ)は残っていない。私ぐらいの世代であれば、まだかろうじてそれを覚えている。さて、はたして向田邦子は、今の時代、テレビの制作がデジタル化され、そのドラマでも基本的には残すことが可能になっている時代、このような時代をどう思うだろうか。

たぶん、小説家、エッセイストとしての向田邦子は、これからも読まれ続けていくことだろうと思う。

2021年1月3日記

『男どき女どき』向田邦子2021-01-16

2021-01-16 當山日出夫(とうやまひでお)

男どき女どき

向田邦子.『男どき女どき』(新潮文庫).新潮社.1985(2011.改版)
https://www.shinchosha.co.jp/book/129404/

続きである。
やまもも書斎記 2021年1月15日
『女の人差し指』向田邦子
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/01/15/9337718

今、普通に文庫本で読める、向田邦子のエッセイ、小説としては、これが最後の本ということになるようだ。いわば遺作集というような形で、小説とエッセイが編集されている。タイトルは、「おどきめどき」と読む。

ふと思いたって向田邦子の本を読んでみたくなって読んだことになる。まずは、川本三郎の『『細雪』とその時代』を読んだ。そのつづきで、『向田邦子と昭和の東京』を読むことになった。この流れとして、向田邦子の作品を読んだことになる。

やまもも書斎記 2020年12月21日
『『細雪』とその時代』川本三郎
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/12/21/9328814

やまもも書斎記 2020年12月24日
『向田邦子と昭和の東京』川本三郎
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/12/24/9329899

既に書いたことではあるが、私が向田邦子を読んだのは若いころである。学生のころになるだろうか。たしか最初に読んだのが『父の詫び状』であったかと記憶する。それから向田邦子の本が出ると……文庫本でだったと覚えているが……買って読んだものである。直木賞の受賞については、なるほど向田邦子が受賞するのは当然だろうな、と思ったものである。

その訃報に接したのは、いつのことだったろうか。そのころはテレビを持っていない生活だったので、新聞で知っただろうか。とにかく向田邦子が亡くなったということを覚えている。

若いころはテレビを持っていない生活をしていたので、その作品である、ドラマ脚本についてはあまりよく知らない。『寺内貫太郎一家』など、少し見たことがある。だが、『阿修羅のごとく』などについては、残念ながら見てはいない。私が見たことをはっきり覚えているのは、『時間ですよ 昭和元年』ぐらいであろうか。ドラマのなかで出てきた歌「昭和かれすすき」も覚えている。

読んで思ったことは、とにかく文章がたくみである、ということがある。そんなに難しいことばを使うこともない。高邁な思想を述べるというのでもない。普通の日常で感じるところを、平明な文章でつづってある。日常の生活感覚の文章といっていいだろうか。それが、その当時としては、先進的であったというべき、自立して働く女性という生き方をしめすと同時に、その感覚の根底にあるのは、昭和戦前からひきつづいてある日本の人びとの当たり前の情感である。家族であったり、学校であったり、という普通の生活のことが、つづられる。いや、向田邦子が文章に書いたおかげで、ああ昔はこんなだったなあ、と改めて感じたといった方がいいかもしれない。

今年(二〇二一)は、向田邦子が亡くなってから、四〇年目になる。もうそんなに時間がたってしまったのかというのが、正直な感想である。自分が、向田邦子のエッセイを読んでいたころのことが、つい昨日のことにように思い出される。まあ、それだ、自分自身もとしをとったしまったということなのだろうが。

四〇年ということで、今年は、向田邦子について、また本が出るかもしれない。気をつけていて、興味のある本は読んでみたいと思う。ここしばらく、向田邦子の本をまとめて読んでみて、たしか読んだはずだと思う文章に出会えていないということがある。

COVID-19の影響で、居職の生活である。読もうと思って買ってある本がかなりたまっている。整理しがてら、それらをこれから読んでいきたいと思う。

2021年1月15日記

『おちょやん』あれこれ「楽しい冒険つづけよう!」2021-01-17

2021-01-17 當山日出夫(とうやまひでお)

『おちょやん』第6週「楽しい冒険つづけよう!」
https://www.nhk.or.jp/ochoyan/story/06/

前回は、
やまもも書斎記 2021年1月10日
『おちょやん』あれこれ「女優になります」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/01/10/9336178

この週で、千代は女優としてスタートすることになる。

まず、山村千鳥一座での、いきなりの主演。これはたまたまそうなったという設定であるが、「正ちゃんの冒険」で主役をつとめることになる。たぶん、このような展開にでもしないと、長い下積み生活があって、徐々に役をつかんでいくということだったら、このドラマも面白くない。

いきなりの主役であった。また、小道具が無くて、途中からアドリブで芝居を進めるなどアクシデントもあったが、ともかく、評判はよかったようだ。そして、そのことを、千鳥も認めることになる。

その結果、千代は、映画の撮影所に女優として入ることをゆるされる。しかし、ここの所長といい、監督といい、くせ者ぞろいという印象である。はたして、無事に千代は女優としてやっていけるのだろうか。

この週で印象に残っているのは、やはり千鳥の述懐かもしれない。自分の生まれ……政治家の妾の子……から、結婚、そして、芸能の道へと、その人生は多難なものであったようだ。その千鳥も、千代の熱心さには折れたということでいいのだろう。結果として、千鳥からの紹介で、映画の世界に千代は入ることになる。

千鳥の複雑な心中を、うまく若村麻由美が演じていたと感じる。(この週で、もう千鳥は出てこないのだろうか。ちょっとさみしい気がする。)

このドラマでいいと思うことの一つは、劇中劇の部分をきちんとつくっていることにあると思う。京都の劇場での「正ちゃんの冒険」にしても、また、映画の撮影シーンにしても、きちんと作ってある。それにしても、下手な芝居をする役者を演じるというのも、これはこれで、演技としては、かなり難易度の高いことだと思う。ここのところを、見事にこのドラマは作っている。

次週以降、映画撮影所での話しになるようだ。高城百合子もまた出てくるらしい。どんなことになるのか、楽しみに見ることにしよう。

2021年1月16日記

追記 2021-01-24
この続きは、
やまもも書斎記 2021年1月24日
『おちょやん』あれこれ「好きになれてよかった」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/01/24/9340454

『飼う人』柳美里2021-01-18

2021-01-18 當山日出夫(とうやまひでお)

飼う人

柳美里.『飼う人』(文春文庫).文藝春秋.2021(文藝春秋.2017)
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167916268

昨年の暮れに柳美里の『JR上野駅公園口』を読んだ。そのつづきで、柳美里の小説を読んでみようと思って手にした。

やまもも書斎記 2020年12月26日
『JR上野駅公園口』柳美里
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/12/26/9330511

本のタイトルは「飼う人」である。何を飼っているかというと、「イボタガ」「ウーパールーパー」「イエアメガエル」「ツマグロヒョウモン」とまあ、いわゆるペットとしてはなじみのないものばかりである。そして、なぜ、このような生きものを飼うことなったのか、そのいきさつは様々であるが、しかし、そこのところについての描写はほとんどないといってよい。ただ、結果として、これらの短篇作品に出てくる主人公の人物は、その生きものを「飼う」ことになる。

これを読んで感じるところとしては、「飼う」という行為のもつ意味である。生きものを「飼う」とは、本当はいったい何なのであろうか。何故ひとは生きものを「飼う」のか。そこには、自らが生きていることへの、確認とでもいうべき感覚を感じる。生きものは「他者」である。それを「飼う」ことは、その生命のすべてを引き受けることに他ならない。そして、その他者の生命を背負うことによって、自分自身の生命をそこに再帰的に確認することになる。私は、この作品を読んで「飼う」ことの意味をそのように感じる。

それから、この作品のなかで、特に印象に残るのが「イエアメガエル」である。東日本大震災、そして、原発事故……これをめぐっては、多くの文学が書かれ、これからも書かれていくことだと思うが、そのなかで、柳美里の「イエアメガエル」は、特筆すべき作品として残るものであるかと思う。原発事故の汚染地域に暮らす普通の人びと、その生活感覚をとらえる文学的想像力に、読んでいて思わずに、読みふけっていることになる。ああ、こういう生活感覚で生きている人びとがいるのか、いわゆる報道やジャーナリズムでは伝えることのできない、心のうごきとでもいうべきものを、この小説は見事に描き出していると思う。

柳美里は、名前は知っていたが、これまで手にすることがなくすごしてきた作家である。つづけて、柳美里の作品で文庫本、古本で、手に入るものを読んでいってみようかと思っている。

2021年1月16日記

『麒麟がくる』あれこれ「月にのぼる者」2021-01-19

2021-01-19 當山日出夫(とうやまひでお)

『麒麟がくる』第四十一回「月にのぼる者」
https://www.nhk.or.jp/kirin/story/41.html

前回は、
やまもも書斎記 2021年1月12日
『麒麟がくる』あれこれ「松永久秀の平蜘蛛」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/01/12/9336833

本能寺の変の背後には朝廷があったのか。あるいは、秀吉はそれを知っていたのか。

この回は、光秀を中心にいくつかの対面シーンで構成されていた。

第一には、光秀と秀吉。

この『麒麟がくる』における秀吉の描き方は、これまでのドラマとはかなりちがっていると感じる。抜け目がない、あるいは、権謀術数にたけた秀吉というイメージで描いている。これは、どちらかといえば真面目といっていい明智光秀と、どうもうまくいかないようだ。

第二には、光秀と信長。

光秀は、平蜘蛛の名器を信長にさしだす。名器はそれを持つにふさわしい人物を必要とする。だが、信長は素直にそれをうけいれようとはしない。売ってしまうといっていた。信長は、平蜘蛛を持つのにふさわしい人物たりうるのだろうか。

第三には、光秀と菊丸。

思い起こせば、菊丸は、このドラマの最初の方から登場してきている。その正体はなぞであった。結果としては、家康配下の忍びということになる。それを、光秀は知っていて逃げろという。このドラマの要所には、菊丸の忍びとしての活躍が意味を持っていたところもあった。さて、最後の本能寺の変に、もはや菊丸はかかわることはないのであろうか。

第四には、光秀と正親町天皇。

光秀は正親町天皇と会うことになる。そこで、どうやら帝は、信長という人物に見切りをつけたかと思われる。すくなくとも、もはや信長が天下を平定するにふさわしい人物であるという評価ではなくなったようだ。では、その信長に対してこれからどうあるべきか。その責務が帝から光秀に託されたとみていいのではないだろうか。

以上のようないくつかの光秀を軸とした対面シーンで、今回は構成されていた。

ドラマは、最後の本能寺の変に向かって大きく動き出したようだ。ただ、現在のわれわれは、本能寺の変があったことを知っている。また、その後の光秀のことも。しかし、ここは、歴史のドラマとして、これからどうなるであろうか、そこのところが緊張感を持って描かれていたと思う。まさに、歴史の「今」の視点が、このドラマにはあると感じる。

また、冒頭の丹波での戦の後の光秀の台詞が印象にのこっている。戦に正義はない。勝ち負けはあるが、それは時の運である。このような台詞を語った人間のおこしたものとして、この後の本能寺の変があることにある。

さらに書いておけば、駒がよかった。どこかしら憂いをおびた表情にしんみりとした思いを感じた。駒がいなくてもこのドラマは成立したと思うが、歴史に翻弄されたひとりの人間としての存在感があったと思う。

2021年1月18日記

追記 2021-01-26
この続きは、
やまもも書斎記 2021年1月26日
『麒麟がくる』あれこれ「離れゆく心」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/01/26/9341089

千両2021-01-20

2021-01-20 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日は植物の写真の日。今日は千両である。

前回は、
やまもも書斎記 2021年1月13日
ヤツデ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/01/13/9337126

掲載の写真は、先月(昨年の一二月)のうちに撮影しておいたものからである。今では、もう鳥が食べてなくなってしまっている。

我が家にいくつかの千両の木がある。赤い実をつけるものと黄色い実をつけるものとがある。どちらも、秋から冬にかけて実をつける。朝起きて、NHKの朝ドラを見てカメラを持って外にでる。千両、万両などの写真を撮る。

その千両の実も、ちょうど年が改まるころには、鳥が食べ尽くしてしまう。鳥が食べないように、防護策を講じてもいいようなものかもしれないが、これはこれとして、自然の姿だと思って特に何もしていない。

万両の実も鳥がたべる。だが、これは千両よりも後まで実が残る。庭に出ると、まだ万両の実を確認することができる。

写真については、現像処理のとき、ガンマ補正を少しかけてある。実の色合いを少し強調して見えるようにするためである。実際の肉眼で見たよりも、やや濃いめの色にしてある。

今年、初夏のころには、これらの千両の木の新芽が季節を感じさせることになる。そして、秋になるとまた実がつくことだろう。これらの写真を撮ることができたらと思っている。

千両

千両

千両

千両

千両

Nikon D500
TAMRON SP 90mm F/2.8 Di MACRO 1:1 VC USD
TAMRON SP AF 180mm F/3.5 DI MACRO 1:1

2021年1月18日記

追記 2021-01-27
この続きは、
やまもも書斎記 2021年1月27日
センリョウ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/01/27/9341420