オンラインの授業あれこれ(その二〇)2021-01-21

2021-01-21 當山日出夫(とうやまひでお)

続きである。
やまもも書斎記 2020年9月7日
オンライン授業あれこれ(その一九)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/09/07/9293018

学部の授業(日本語史)が、再びオンラインになった。京都府などの緊急事態宣言をうけての対応である。

今年になってからの最初の授業は教室で話しをした。後期の授業としては、一三回目の話しになる。このとき、昨年末に出しておいたレポートの提出、それから、最後(一五回目)のレポートの課題を配布した。

その後、大学からの連絡でオンライン授業推奨ということになったので、そのように対応することにした。残りは二回である。一回分の講義と、それから、まとめの話し。そして、最後の四回目のレポートの提出である。

教室での授業のとき、京都府などの緊急事態宣言があるので大学の授業も次回以降どうなるかわからないから注意するようにとは言っておいた。たぶん、学生の方でも、それなりの準備はできているだろうと思う。

方式は前期と同様。毎回の授業のプリント(二ページ)に解説(二ページ)を加えたものである。それを、授業日の午前九時に送信するように設定して、送信した。

残りは、あと一回。最後の回のみである。通常の授業ができるなら、まとめの話しと、最後のレポートの提出ということになる。これも、オンデマンド方式の教材プリント配信と、電子メールでのレポート提出ということになる。締切は、最終授業日である。

ともあれ、イレギュラーな形ではあったが、教室での話しと、オンラインの教材配信とで、どうにか後期の授業はのりきることができたかと思う。

さて、次年度、四月からどうなるか、これがまったく先が見通せないのが困ることでもある。現時点の判断としては、感染が今のままで推移するなら(これからそんなに急拡大することがないなら)、四月から、今年度の後期のような形態で授業を進めることができるかと思う。大きめの教室を用意して、学生が集まらないようにする、大人数の講義でそれが無理なものは、オンラインにする……このような複合的な対応で、どうにかなるかもしれない。

これが、普通に教室に多くの学生が集まってということはたぶん無理だろうと思う。また、感染の拡大いかんによっては、キャンパスの立ち入り禁止のような対応も必要になってくるかもしれない。こればかりは、今後の推移を見守るしかない。

2021年1月20日記

追記 2021-01-28
この続きは、
やまもも書斎記 2021年1月28日
オンライン授業あれこれ(その二一)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/01/28/9341762

『藤原定家『明月記』の世界』村井康彦2021-01-22

2021-01-22 當山日出夫(とうやまひでお)

藤原定家『明月記』の世界

村井康彦.『藤原定家『明月記』の世界』(岩波新書).岩波書店.2020
https://www.iwanami.co.jp/book/b530020.html

藤原定家という人物については、国語史、日本語史というような分野で勉強をしていると、かならずどこかで目にすることがある。その残した日記である『明月記』は、あまりにも有名であるといってもよい。

若いとき、ある目的……毎日の天候の記述の調査……のために、『明月記』は、全部のページを繰ったことがある。その当時の本は、国書刊行会本である。その後、古書店でみつけて、三冊を買ってもっている。しかし、そう手にすることなく今にいたっている。

国語史、日本語史の分野からいうならば、次の二つの点で『明月記』は貴重である。

第一に、定家は多くの平安朝の古典籍……和歌集や物語など……を書写、校訂している。なかでも、『源氏物語』については、今でも定家本を主につかうのが、この分野の主流であるといってよい。その定家の古典の校訂、書写についての記述を、『明月記』に見ることができる。また、歌人としての姿をそこから読みとることも必須である。

第二に、平安から中世にかけての、公家の日記としての『明月記』がある。いわゆる「変体漢文」である。その言語的な資料として、『明月記』の文章そのものが、研究対象になる。

以上の二点から、『明月記』は、重要な資料ということになる。

今では、冷泉家の時雨亭文庫の叢書のひとつとして、新しいテキストが刊行されている。(残念ながら、これは持っていない。)

以前、京都文化博物館で、冷泉家の展覧会があったとき、『明月記』も展示されていたのを見たことを覚えている。

このような『明月記』について、あるいは、藤原定家という人物について、いったいどんな人物で、どんなことが『明月記』には書いてあるのか……このあたりを、分かりやすくひもといてくれている本である。この本を読んで、なるほど藤原定家という人物は、このような人生をおくった人間であったのか、と認識を新たにするところが、少なからずあった。この意味では、国語史、日本語史のみならず、国文学、日本文学の勉強、さらには、日本史の勉強をこころざす、特に若い人にとっては、必読の本であるといってよいであろう。

2021年1月20日記

『まちあわせ』柳美里2021-01-23

2021-01-23 當山日出夫(とうやまひでお)

まちあわせ

柳美里.『まちあわせ』(河出文庫).河出書房新社.2016(河出書房新社.2012 『自殺の国』改題)
https://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309414935/

柳美里の本を読んでいる。

『JR上野駅公園口』『飼う人』と読んで、これらがよかったのでさかのぼって文庫版、古書などで手にはいるものを、ぼちぼちと読んでいこうかと思っている。そろそろ、学校の授業も終わりである。居職の生活をつづけるなかで、これまで買いためてある本を整理して読みながら、柳美里を手にしている。

この作品については、評価が難しいかなと思う。だが、これもまた柳美里の描いている作品世界の一つなのだということは理解できる。

その描くところは、現代という時代における人びとのあり方の一面であることは確かである。それが成功しているかどうか、あるいは、その登場人物に共感して読めるかどうかは、また別の問題ではある。だが、すくなくとも現代社会に生きる人びとの一つの姿をそこに見ることはできるだろう。

しかし、事実は小説よりも奇なりというが……この小説の書かれた時代の様相を、今の時代……インターネットが生活の隅々にまではいりこみ、SNSの情報洪水とでもいうべきなかにいると……この小説の描こうとしたことが、すでに過去の出来事のように思えてならない。

ともあれ、柳美里がこんな小説を書いていた作家であったのか、という意味で非常に興味深かったというのが、正直な感想である。

この小説の描いたこと……自殺サイトであり、また、崩壊した家族の物語……たぶん、柳美里にとって、家族とは何か、家族の一員として生きることはどういうことなのか、このことについての問いかけが根底にあるのだろうということは理解できるように思う。柳美里は、その好き嫌いは別にしても、現代という時代を描いている作家の一人であることは確かなことである。

ところで、柳美里で本を検索して見ていると、この作品は、『JR品川駅高輪口』というタイトルで、再び改題して刊行になるらしい。これは、河出書房新社もどうかと思う。ほとんど詐欺に近いように思ってしまうのだが。

2021年1月22日記

『おちょやん』あれこれ「好きになれてよかった」2021-01-24

2021-01-24 當山日出夫(とうやまひでお)

『おちょやん』第7週「好きになれてよかった」
https://www.nhk.or.jp/ochoyan/story/07/

前回は、
やまもも書斎記 2021年1月17日
『おちょやん』あれこれ「楽しい冒険つづけよう!」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/01/17/9338341

この週で、映画女優としての千代のスタートということになった。

鶴亀の撮影所に女優として採用されることになった。最初は、大部屋女優の下っ端である。そこで失敗もする。が、なんとか生きのびていくことになる。千代を助けてくれたのは、助監督の小暮であった。また、高城百合子と再会する。

この週での見どころと思うのは次の二点ぐらいだろうか。

第一に、千代の女優としての成長。

大部屋女優の下っ端からスタートすることになるのだが、高城百合子をかつて知っていたこともあって、なんとか女優として仕事をもらえるようになった。高城百合子はこのように言っていた……役者は人をだます仕事である、しかし、自分に対してうそをついてはいけない。自由なのである、と。この高城百合子の助言が功を奏したのか、「カルメン」の映画の代役に抜擢され、監督から褒められることになる。

第二に、千代の恋。

恋人役をあてがわれて、どのように演じていいのか困る千代は、助監督の小暮に恋人役になってくれとたのむことになる。一緒に映画を見に行き、食事したりする。その結果、千代は本当に小暮のことが好きになってしまったようだ。

だが、撮影所には、幼い時から知っている、一平がやってきていた。さて、これから、千代の恋と、一平とはどんな関係になっていくのだろうか。

以上の二点が、この週を見て思ったことなどである。

ところで、千代は、カフェーのキネマに住んでいるのだが、女給の仕事はしているのだろうか。あるいは、昼間は映画撮影所で女優の仕事をし、夜は女給ということなのだろうか。どうもこのあたりが、曖昧である。しかし、キネマの人びとは、千代に優しい。

次週、父親のテルヲが撮影所にやってくることになるようだ。たぶん、また金の無心かと思うが、これに対して千代やどう対応することになるのだろうか。それから、小暮との関係はどうなるのか。楽しみに見ることにしよう。

2021年1月23日記

追記 2021年1月31日
この続きは、
やまもも書斎記 2021年1月31日
『おちょやん』あれこれ「あんたにうちの何がわかんねん!」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/01/31/9342678

NHKアナザーストーリーズ向田邦子2021-01-25

2021-01-25 當山日出夫(とうやまひでお)

NHK「アナザーストーリーズ」突然あらわれ突然去った人〜向田邦子の真実〜
https://www.nhk.jp/p/anotherstories/ts/VWRZ1WWNYP/episode/te/RYXGKM7GR7/

この番組のことは、轟亭さんに教えてもらった。夜の放送を録画しておいて、後日見ることになった。

今年(二〇二一)は、向田邦子が亡くなって四〇年になる。いろいろと関連する本が出たり、テレビ番組があったりするかと思っているのだが、これもその一つといっていいのかもしれない。

向田邦子については、昨年の暮れから今年のはじめにかけて、集中的に読んでみた。その著作の多く……エッセイのいくつかと小説……は、そのほとんどを、文庫本で読むことができる。

私が向田邦子のことを知ったのは、どういうきっかけだったろうか。脚本家としての名前は知っていたように覚えている。だが、決定的に向田邦子という名前を意識したのは、エッセイの『父の詫び状』を読んでからだった。この本を読んだときのことは、なんとなく記憶にある。

その後、向田邦子のエッセイが文庫本で出るようなことがあると買って読んでいた。そのエッセイのかなりの部分は読んだかと思う。この前、向田邦子をまとめて読みかえしてみて、忘れていた作品もあれば、読んだ記憶が残っている作品もある、といったところだろうか。私にとって、向田邦子は、軽妙洒脱な文章を書くエッセイストという印象で強くのこっている。

特にネコの話しが興味深かった。独身で暮らしていた向田邦子が、なぜ人間の機微をうがったようなホームドラマが書けるのかと問われて、ネコを見ていればわかるとこたえた……たしか、こんな内容のエッセイを読んだ記憶がある。

ところで、NHKの番組である。見ていて思ったこととしては、ネコのことがまったく出てこなかったということが、ちょっと気になる。残念ということでもないが、すこしぐらいネコのことに触れてあってもよかったのではないか。

病気のことについては、向田邦子自身は多くを語っていない。エッセイでも、わずかにそれとなく触れてあるばかりである。ここのところを、番組でははっきりと描いていた。

また、番組では、向田邦子の声の録音が紹介されていた。聞いて感じたことは、きれいな東京アクセントの声だな、ということである。

少し時間をおいてから、さらに向田邦子の作品を読み返してみたいと思う。

2021年1月23日記

『麒麟がくる』あれこれ「離れゆく心」2021-01-26

2021-01-26 當山日出夫(とうやまひでお)

『麒麟がくる』第四十二回「離れゆく心」
https://www.nhk.or.jp/kirin/story/42.html

前回は、
やまもも書斎記 2021年1月19日
『麒麟がくる』あれこれ「月にのぼる者」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/01/19/9339010

この回で描いていたのは、やはり本能寺の変への道筋ということだろうか。

人びとの心が、信長から離れていく。正親町天皇も信長を信用していない。また、かつての将軍義昭も出てきていたが、信長については、見限っている。信長のいる京には上洛したくないとも言っていたかと思う。また、家康も信長にこころをゆるしてはいない。

そのなかにあって、信長への忠誠心を見せているのが、秀吉であり、光秀ということになりそうである。しかし、秀吉と光秀は、うまくいっていない。秀吉は、信長の家臣としての出世ばかりを考えているかのごとくである。天下の太平のことを思っているのは、光秀のみということになりそうである。

しかし、その光秀に対しても信長の疑心暗鬼の念は容赦ない。信長は、光秀を打ちすえることまでする。

徐々にではあるが、信長に対する反感、反信長の包囲網とでもいうべきものが、なんとなくできているようだ。これをうけて、光秀がどう行動することになるのか……その結果が本能寺の変ということなのだろうと思う。

この回においても、「麒麟」への言及があった。信長は麒麟たりえない。であるならば、光秀自身が麒麟になるほかないのかもしれない。

さて、このドラマもいよいよ最終に近づいてきた。四四回の予定だから、次回が四三回目。最終の一つ前ということになる。予告では、帰蝶の姿があったが、どのような登場のしたかをするのだろうか。ラストにむけてどのような展開になるのか。楽しみに見ることにしよう。

2021年1月25日記

追記 2021-02-02
この続きは、
やまもも書斎記 2021年2月2日
『麒麟がくる』あれこれ「闇に光る樹」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/02/02/9343313

センリョウ2021-01-27

2021-01-27 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日は写真の日。今日は黄色いセンリョウである。

前回は、
やまもも書斎記 2021年1月20日
千両
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/01/20/9339278

我が家には、二種類のセンリョウの木がある。赤い実をつけるものと黄色い実をつけるものとである。今日は、そのうち黄色い実をつけるものの写真である。

これも、今では全部鳥が食べて無くなってしまっている。先月(去年の一二月)のうちに撮影して残してあったものからである。

どうして、赤い実のものと黄色い実のものがあるのか、その理由について詮索したことはない。センリョウは園芸植物であるから、好みによって、分かれていったものであろう。たまたま我が家には、その両方が植わっていることになる。

昨年のうち、まだ実がついているころは、ほぼ毎朝、NHKの朝ドラを見てからカメラを持って外に出て、センリョウやマンリョウの写真を撮っていた。これも見ていると、秋から冬にかけて、青かった実が徐々に色づいてきて、黄色く、あるいは、赤くなっていくのを観察することができる。

写真を撮るのは、基本的に朝早くである。まだ太陽が昇りきらないうちに撮ることが多い。これが、ちょっと遅く外にでると、日が昇って朝日があたっているときがある。光の状態によっては、実がきれいに光って見えたりもする。場合によっては、そこだけ朝日があたって、光っているように見えるときもある。毎日同じように見ている木の実であるが、写真に撮ると、日毎に見え方が異なってくる。

今庭に出て咲いている花としては、椿の花があるぐらいだろうか。梅も木瓜もまだ冬芽といってよい。沈丁花の冬芽も色が赤くなってきているのが見える。今年の冬は去年よりも寒い。しかし、確実に季節が進んでいることがわかる。

センリョウ

センリョウ

センリョウ

センリョウ

センリョウ

Nikon D500
TAMRON SP 90mm F/2.8 Di MACRO 1:1 VC USD
TAMRON SP AF 180mm F/3.5 Di MACRO 1:1

2021年1月25日記

追記 2021-02-03
この続きは、
やまもも書斎記 2021年2月3日
松の葉に雨の滴
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/02/03/9343638

オンライン授業あれこれ(その二一)2021-01-28

2021-01-28 當山日出夫(とうやまひでお)

続きである。
やまもも書斎記 2021年1月21日
オンラインの授業あれこれ(その二〇)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/01/21/9339554

ようやく今年度(二〇二〇)の後期授業が終わった。オンラインの教材配信が終わったところである。後は、最後のレポートの電子メール提出である。

思い返せば、二〇二〇年度は異例ずくめの授業であった。前期は、オンライン。LMSを使っての教材配信と、電子メールでのレポート提出。後期は、教室で授業ができたのだが、例年と違って大きな部屋に変更になった。学生が着席して距離を取るためである。大きな教室なので板書して、説明ができない。やむをえず、配布した教材プリントについて、説明を加えるだけの話しになってしまった。授業はちょっと早く終わることにした。終わって、学生が、エレベーターや廊下、階段で密集しないためである。

その後期の授業も、京都の緊急事態宣言をうけて、最後の二回はオンラインになった。前期と同様の教材配信。

レポートは、教室で受け取ったものもあるし、電子メールで受け取ったものもある。A4一枚ぐらいに書くもので、四回。これで、通常の試験ができた場合と同じようなことを、答案の代わりに書いて提出ということになった。

オンライン、それも動画配信ではなく、教材プリント、解説の配信という、文字を基本のものとしたが、これはこれなりに、なんとかうまくいったかと思う。たまたまであるが、日本語史という科目で、日本語の文字や表記、文章といった内容の話しを中心にしたので、とにかく書いたものを読むことが重要になる。学生が読んで考えてくれなければ、意味がない。

これが、音韻とかアクセントとかのことについて触れるとなると、どうしても音声つきの動画像の配信ということが必要になっただろう。

それから、二〇二〇年度になって、急遽、授業がオンラインになるということで、当初心配されていたこと、学生のインターネット通信環境の問題は、どうなったのだろうか。学生が自分のパソコンを持ち、光回線などでインターネットに接続している、という状況になっているという話しは、伝わってこない。これはどうなのかなと思う。やはり、依然として、スマホだけしか持っていないという学生もいるのかもしれない。あるは、スマホも持っていない学生もいるのだろうか。このあたりの事情が、どう改善されるのか、詳しいことがわからないのが、どうにももどかしい。

これは、次年度(二〇二一)の授業をどう考えるかに影響してくる。これは、COVID-19感染症の程度によることは無論であるが、しかし、新年度から無事にそれまでと同じ通常の授業ができる状況になるとは考えられない。せいぜい楽観的に考えてみても、緊急事態宣言が解除されるかどうか、といったところである。感染症はつづくだろうから、以前のように教室で授業ができるかどうかわからない。こればかりは、今後の推移を見ながら判断することになる。

だが、ともあれ、オンライン方式にせよ、大教室での授業にせよ、どうにかなるということは経験的にわかってきたところでもある。なんとか、状況に合わせて対応していくしかないと思う。

2021年1月27日記

追記 2021-05-03
この続きは、
やまもも書斎記 2021年5月3日
オンライン授業あれこれ(その二二)
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/05/03/9373438

『家族シネマ』柳美里2021-01-29

2021-01-29 當山日出夫(とうやまひでお)

家族シネマ

柳美里.『家族シネマ』.講談社.1997

これは古書で買った。柳美里の芥川賞受賞作である。

『JR上野駅公園口』から、ボチボチと柳美里の小説を読んでいっている。共感できる作品もあるし、今一つよくわからないといった作品もある。が、ともあれ、その出発点になるはずの芥川賞の作品を読んでみることにした。

柳美里は、家族を描いている作家である。だが、その家族は、どことなくいびつな、あるいは、壊れてしまったといってもいいかもしれない、家族の物語である。(このあたり、昨年末から読んできた、向田邦子のエッセイに描かれる昭和の家庭の雰囲気と、かなり異なる印象をうける。)

そして、『家族シネマ』では、その家族を、さらに外側の視点が見ている。小説を読んで、このところはよく分からないところなのだが、どうも映画の撮影ということで、家族が描かれている。

芥川賞だから、そう長い小説ではない。ほぼ一気に読んでしまった。読後感としては、不思議な感じがする。確かに現代社会における、ある意味での家族のあり方というものを描いているのであろうことは、理解できる。だが、なんとなくおちつかない。ふと突然に終わってしまうという印象で終わりになる。

この作品が芥川賞をとったことについては、納得はする。芥川賞が多くそうであるように、この作品もまた、その完成度というよりも、その後の可能性にかけた受賞と理解していいのだろう。

2021年1月28日記

「100分de名著」『ブルデュー ディスタンクシオン』岸政彦2021-01-30

2021-01-30 當山日出夫(とうやまひでお)

ディスタンクシオン

岸政彦.『100分de名著 ブルデュー ディスタンクシオン』.NHK出版.2020
https://www.nhk-book.co.jp/detail/000062231202020.html

実は、『ディスタンクシオン』は買ってもっている。おそらくNHKのこの番組にあわせたのかもしれないが、昨年、新しい版で廉価版として刊行になっている。これを読もうと思って買ってはあるのだが、その前に予習というような意味で、こっちの本を読んでみた。

ただ、私は、NHKの番組は見てはいない。これはそのテキストである。しかし、良く書けていると思う。

第一に、ブルデューの生いたちからはじまって、『ディスタンクシオン』の概要が簡潔にまとめてある。

第二に、その批判についてどう考えるかが、それぞれの論点について、手際よくまとめてある。

以上の二点をきちんとふまえているし、全体として大部なものではない。あっさりと読めてしまった。(後は、覚悟を決めて『ディスタンクシオン』を読むということになる。)

さらに思ったことを書いてみるならば、次の二点があるだろうか。

第一に、自分はどのような環境に生まれ育った、どのような教育をうけてきた人間なのか、自らを知るという視点を与えてくれるところにある。キーワードとなるのは、「文化資本」である。これを一種の決定論と考えるのではなく、自分自身が何であるかを考える手がかりとしているのが、この本の特徴といっていいのかと思う。

第二に、まさに「文化資本」であるが……結局は、このような本を読むような人間、あるいは家庭環境であるか、あるいは、そうでないのか……このあたりのことが、まさに「文化資本」として現れてくることになるのだろうと思う。『ディスタンクシオン』が廉価版で出たので買っておこうという人間と、そうではない人間の違いといってもいいかもしれない。

以上のようなことを思って見る。

『ディスタンクシオン』のこと、また、「文化資本」ということばは知っていたが、これまであまり考えてみたことはなかったことでもある。いやあるいは、むしろ、自分のこれまでの人生は、ある意味で「文化資本」をどう意識するかということもあったかと思うところがないではない。この本を読んで、自らの過去を顧みて、自分はいったい何であったのか、これから何であり得るのか、さまざまに考えるところがある。

2021年1月29日記