アジアに生きる「インド 変革の風」2025-02-07

2025年2月7日 當山日出夫

シリーズ アジアに生きる インド 変革の風

私の基本的な立場は、人は自由意志で決められないことについて責任を問われたり、不平等なあつかいをうけることがあってはならない、ということである。

男性であるか、女性であるかは、自分で選んで産まれることはできない。どのような「人種」であるかも、選択することはできない。社会的階層や、生まれる地域や国などについても同様である。

このなかに性的指向もふくめて考えることができる。異性(男性/女性)を好きになるのか、同性でなければだめなのか、どちらも好きになれるのか、それとも、自分でもどうだか分からないのか……これらは、自らの自由意志で選択できることではない。だから、同性愛者だからといって、不当なあつかいがあってはならない。これが基本であると思っている。

ただ、現代のセクシュアリティについての議論は、その先のことになっている部分がある。人は、自分の性的指向を自由意志で選ぶことが可能である。人間の自由意志は、何よりもとうとい。これが侵害されることがあってはならない。だから、同性愛を選択したとしても、それは自由として尊重されなければならない。(これは、理屈としては分からなくはないが、しかし、人間の性(ジェンダー)の文化的側面について見るならば、それがかなり社会構築的な部分を持っていることを、考慮すべきかと思う。まったくの自由意志での選択と、自分の意志では変えることのできないこと、これらの中間的要素がある。)

インドの場合でみるならば、つい近年まで、同性愛が犯罪であったことから、いきなり、同性婚を法律的に認めるところまで求めるのは、ちょっと飛躍がありすぎるので、ついてこれない人が多くいるのは当然だろうとは思う。まずは、同性愛というのも、人間の性的指向として、少数ではあるが確実に存在するものである、という事実を認めるところからスタートすべきであろう。

このような番組では、多くの場合、同性愛者がすすんだ考えの持ち主で、それを認めないのは遅れている、という価値観を提示することが多い。これを、考え方が進んでいるか遅れているか、という基準でとらえようとするから、あまり建設的な議論にならないと感じるところである。

同性愛が、人間において、さほど不自然なものではなく、少数ではあるが確実に存在するものである、ということを認めた上で、では、社会の制度としてどうあるべきか……法的な結婚を認めるのか、実質的にはそれぞれの好みの問題として自由であることにするのか、このあたりのことについては、それぞれの文化や歴史のもとに、判断の違いがあってもいいだろうと、思う。これが、絶対に法的な結婚に固執すると、妥協点が見いだせなくなる。また、法的な結婚だけが、家族のあり方であるとすることになり、これはこれで、また議論を呼ぶことになる。

性的指向の多様性を認めるならば、同時にそれは、家族のあり方についての多様性も認めるものでなければならない。少なくとも理論上はそうなる。

この番組に登場していた女性は、インドのなかで、どれぐらいの社会的階層の人びとなのだろうか。ことの是非は別にして、社会の階層と、その生活の価値観は多くの場合、関連があるといっていいだろう。伝統的価値観から自由であっても生活できる人びともいれば、逆に、その中に埋もれて生きるしかない人びともいるはずである(私は、それが不幸だとは思わないが)。

インドの王様というのが、テレビに登場するのは珍しいかなと思う。こういう人たちは、今のインドで、どんな暮らし方をしているのだろうか。

2025年1月31日記

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