『世界の大学危機』2007-12-30

2007/12/30 當山日出夫

以前に読んだ本を取り出してきてひらいたら、このようにあった。たまたま開いたページで見つけた。


また現代では、大学の教師が研究をすることは、当然の職務とされているが、かつてはそうではなかった。大学教授の職務は学生を教えることで、研究することは必ずしも教授の職務のなかに入っていなかった。研究をしなくても、それで職務怠慢と非難されることはなかった。

潮木守一(2004).『世界の大学危機―新しい大学像を求めて―』(中公新書).中央公論新社.p.55


さて、なぜ、この本『世界の大学危機』を本棚から出してきたかというと、現在の大学での研究や教育の枠組みを、自分なりに考え直してみる必要を強く感じているからである。

これを、デジタル・ヒューマニティーズの視点から見ると……文理融合という前に、文のなかの壁がどうにかならないものか、ということである。

文系・理系というが、実は、それほどかけ離れたものではないように思える。とはいえ、実際には、なかなか話しが通じないことが多いことは、たしかではある。だが、それに視点が固定されてしまうと、「文のなかの壁」が見えなくなってしまう。

そもそも……というのは大げさかもしれないが、今(あるいは、今までの)大学の学科や専攻の枠組みというのは、どういう経緯で決まったものなのか、それぞれの研究者が、考えてきただろうか。

私の場合、たまたま、日本語学(あるいは、国語学)という領域にいる。そして、この分野は、過去10年ほどの間、徹底的に批判されてきた。明治以降の近代的国民国家の言語=国語、への批判である。そのおかげ(?)でもあるが、なぜ、国語学という学問分野があるのか、きわめて自覚的になる。これは、おそらく、現在の日本語研究者の多く(特に、大学では文学部の国文・日本文学の出身)が、共通に持っている感覚である。

少なくとも、国語学(あるいは日本語学)という研究領域が、なぜ成立しているのか、そして、その分野の研究のことを何と称するのが適切であるのか、それぞれの研究者が、それぞれに意見を持っていることと思う。

ここで重要なのは、結果的に、国語学と称するか、日本語学と称するか、ということではない。そのいずれを選ぶにしても、研究者自身の判断が要求されるということであり、また、研究領域の枠組みというものは、歴史的・社会的経緯があって決まるものだという自覚的な意識である。明治になるまで、国語学という研究領域もなければ、職業的な日本語研究者(国語学者)もいなかった、さらに、学校で「国語」なる科目もなかった。

このような目で、『世界の大学危機』を読んでみるならば……研究領域の枠組みは、歴史的な文脈で決まったものであり、また、研究者という職務もまた、歴史的な産物である、ということである。

なぜ、大学には、講義とゼミがあり(最近では、まとめて「授業」と言ってしまうが)、論文(卒論)を書かねばならないのか。当たり前のように思っていたことが、実は、そうではないことが、『世界の大学危機』を読むとよくわかる。

著者の潮木守一氏は、高等教育研究の専門家であり、この本は、もともと桜美林大学大学院での大学アドミニストレーション課程のテキストとして書かれたものを、もととしている。現在の大学、そしてそこでの研究のあり方を考えるためには、その歴史をたどっておく必要がある。タイトルは、『世界の大学危機』とあるが、その内容は、近代のヨーロッパ、アメリカ、そして、日本における大学史となっている。

デジタル・ヒューマニティーズを考える際、必読の一冊といえよう。

當山日出夫(とうやまひでお)

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