『紫文要領』本居宣長2019-02-09

2019-02-09 當山日出夫(とうやまひでお)

本居宣長集

日野龍夫(校注).『本居宣長集』(新潮日本古典集成 新装版).新潮社.2018
https://www.shinchosha.co.jp/book/620878/

去年、「本居宣長」という本をいくつか読んだ。これは、その時に読もうと思って買っておいたものである。その後、『失われた時を求めて』を読んだり、ドストエフスキーを読んだりしていた。手元にあった本なので、何気なく読み始めた。

『紫文要領』……これは、本居宣長の物語論、もののあはれ論、源氏物語論を代表する著作である。

読んで思うことは次の三点になるだろうか。

第一に、江戸時代の国学という学問の中に、それまでの古典研究が流れ込んでいることの確認である。無論、宣長は、旧来の伝統的な勧善懲悪的物語解釈をしりぞけている。この意味では、従来の研究を否定しているのだが、それだけではない。やはり、この著作の中には、中世以来、『源氏物語』を読んできた歴史的経緯というものが、集約されている。ただ、それが、否定的文脈で言及されることが多いので、「物の哀」という宣長の主張が全面に出たような印象となっているだけのことである。

第二に、宣長の独創というべき「物の哀」論である。物語、特に、『源氏物語』を読むとき、そこに「物の哀」を感じてこそ読んだことになる、この宣長の「発明」とでもいうべき、「物の哀」論には、なるほどと感じ入るところがある。

第三に、「物の哀」論に見られるような、主情主義・情緒主義的文芸理解、これが、特に宣長の独創というべきではなく、広く近世の儒学……例えば、荻生徂徠など……においても、指摘できることである。これは、主に、この校注本の注釈や解説によることになる。

以上の三点が、『紫文要領』を読んで、私の感じ取ったところである。

この本を読んでみて、『源氏物語』を読んでおきたくなった。私も、もう還暦は過ぎた。が、古希にはまだいくぶんの年月が残されている。まだ、元気で本が読めるうちに読んでおきたい本というものがある。『源氏物語』もその一つ。去年読んだ『失われた時を求めて』もそうである。

『源氏物語』は、若い時に、一通り読んでいる。古い岩波の古典大系で読んだ。だが、順番に「桐壺」の巻から読むということはなかった。「若菜」の巻を中心にして……『源氏物語』は「若菜」の巻をきちんと読んでおけば理解できるというのが、習った池田彌三郎先生の言っていたことである……紫上系の巻、玉鬘系の巻、そして、宇治十帖と読んでいったかと憶えている。

国語学というようなことを勉強してきたので、日本国語大辞典などをひいて、用例をとして、『源氏物語』を目にすることは日常的にあった。そして、今では、国立国語研究所の歴史コーパスで、『源氏物語』を自在にあつかうことができるようになっている。

『源氏物語』は、「桐壺」から順番に自分の目で読んでおきたい、そう思う。もう、老後の読書である。『源氏物語』を読んで、論文を書こうという気はない。ただ、自分自身のための読書として読んでおきたいのである。

本居宣長『紫文要領』を手がかりとして、『源氏物語』を読むことにしたい。

追記 2019-02-18
この続きは、
やまもも書斎記 2019年2月18日
『源氏物語』(一)新潮日本古典集成
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/02/18/9037548

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