『どくろ杯』金子光晴/中公文庫2022-12-12

2022年12月12日 當山日出夫

どくろ杯

金子光晴.『どくろ杯』(中公文庫).中央公論新社.1976(2004.改版)
https://www.chuko.co.jp/bunko/2004/08/204406.html

NHKの朝ドラ『舞いあがれ!』を見ている。ドラマの始めの方の、大阪編のところで、ヒロインの舞の幼なじみの青年が、文学への思いが強く、初任給をつかって本を買うシーンがあった。その時に、登場していたのが、金子光晴の自伝であった。『どくろ杯』『ねむれ巴里』『西ひがし』が、登場してたと思う。(ただ、ドラマでは、金子光晴がどのような詩人で、どんな活動をしたのか、自伝三部作がどんな作品なのか、一切の説明はなかった。これはこれで、ドラマの作り方だと思う。)

私が、金子光晴の自伝三部作を読んだのは、学生のころだったろうか。当時の中公文庫で手にしたかと思う。全集版が欲しくなって、京都の書店で買ったのを憶えている。(その本も探せば、まだどこかにあるはずである。)

朝ドラで、久々に金子光晴のことを目にして、再び読んでみたくなった。何十年ぶりのことになるだろうか。

久しぶりに読んで、まず一冊目の『どくろ杯』を、ほぼ一気に読んだ。読んで思わずに、その世界にひきずりこまれる。人間が、おちるところまでおちる生活をした記録とでも言えばいいだろうか。読んで思うこととしては、次の二点ぐらいを書いてみたい。

第一に、底辺の文学の生活。

どのように表現したらいいのだろうか、適当なことばが思いつかない。金子光晴が東京で詩人として生活していた時代から、森三千代と結婚して、上海で生活するまでが、主に描かれる。最終的にはパリにいくことになるが、その途中までである。

作者の視点は、流浪者のそれである。無論、生活も流浪者である。パリまでの資金があっての旅ではない。とりあえず上海までの旅費ができたので行ってみる。そこに滞在し、なにがしか稼ぐことができたら、次の行けるところまで行く。そんな旅である。金子光晴が生計にしていたのは、絵である。絵を買いて売る。

世の中を支配者と被支配者に分けてみるならば、作者はどちらでもない。だから流浪者ということになる。その視点は、その土地と人びとの生活、そして時代の様相に、するどく批判的である。だが、ほとんど最底辺の生活をしながら、しぶとく生きていっている。作者のまわりにあつまるのは、最底辺の娼婦、苦力、詐欺師、まあ一般的にはろくでもない人びとである。

第二、歴史的、風俗的興味。

時代としては、昭和の初期のころである。その当時の日本の文学者たちの生活。それから、上海の人びと、そこでの日本人。中国の人びとにとっては、日本人は、(今の概念でいえば)侵略者、支配者、ということになるのかもしれない。この時代の、上海の様子が非常に興味深い。特に、内山書店のことなど、これは貴重な証言と言えるかもしれない。

その当時の東京、上海、ジャワあたりの生活の様子を書き残したものとして、これはこれでとても面白い。

以上の二点のことを思ってみる。

この作品が書かれたのは、その旅があってから数十年後のことになる。『どくろ杯』は、昭和四六年(一九七一)の刊行である。著者の晩年になってからの回想録ということになる。そのせいか、社会の底辺にある人びとのことを描きながら、かつてそのような時代があったことを、冷静に見つめている冷めた印象がどこかにある。おそらくは、抵抗の詩人である金子光晴が晩年になって、なお抵抗の精神を持ち続けて、時代を回顧したと言っていいのかもしれない。

2022年11月30日記