3か月でマスターする江戸時代「幕府は「百姓・町人」とどう向き合ったのか?」2025-01-18

2025年1月18日 當山日出夫

3か月でマスターする江戸時代 (2)幕府は「百姓・町人」とどう向き合ったのか?

見ていていろいろと思うところがある。

これまで時代劇や歴史番組について思ったことを書いてきたこととして、何度も書いていることなのだが、百姓=農民=米作、という図式は、今ではもう無理なのではないだろうか。たしかに、日本の農民の多くは米を作っていた。しかし、米だけを作っていたわけではない。また、農業に従事しない「百姓」もいた。漁業や林業などに従事する人たちは、どのように暮らしていたのだろうか。

そして、年貢はすべからく米で物納ということでいいのだろうか。

その一方で、日本で、米がどのように流通していたかということもある。米の消費は、基本的には御飯として食べることである。他には、酒を造るのにも使えるが。

江戸時代、どこでとれた米が、どこに運ばれ、どのように消費されたか、その全体像が明らかにならないと、江戸時代の人びとの暮らし、また、経済の実態は分からないはずである。日本人は米を食べてきた、これは確かなことだろうが、しかし、米だけを食べてきたわけではない。

江戸のお侍さんが、米俵を大八車で運んで、それを、商人のところでお金に換えてもらっていた……ということではないだろう。もし、そうだとしても、そのお米は、わざわざ江戸まで運んでくる必要があったことになる。常識的に考えるならば、米を貨幣に換金したたうえで、給料としてもらっていた、となるはずである。

江戸時代の米について考えることは、この時代の人びとが実際に何を食べていたのかという問題と、経済の問題と、このふたつに大きくかかわる論点ということになるはずである。

それから、町人といっても、三井のような豪商もいただろうが、それよりも考えるべきは、普通に江戸市中で商いをしている、中小規模の商人が実際はどうだったのか、ということの方が問題だろう。どこからその商品ははこばれ、それはどこで生産され、最終的にだれがどのように消費したのか、ということになる。

江戸時代、農村の生産力が向上して、余剰生産物(富)が蓄積されるようになり、経済的にも発展して物価は上昇する。その一方で、武士の俸禄や経済的立場は昔のままであり、困窮することになる……これが進行した結果、江戸末期になって幕藩体制が維持できなくなった、と考えるあたりが、妥当なところなのかと思う。

なぜ百姓(それは、米作農民とは限らないと思うが)が年貢をさしだしていたのか、そこには、社会の役割分担の意識があった、ということは、これはうなずける考え方である。百姓や農民は、虐げられて働かされたのではなく(昔風の言い方をすれば、みじめな農奴であったわけではなく)、自ら働くことの意義を見出す、勤労意欲のもちぬしでもあった、こう考えることの方が、私は自然だと思う。このように考えてこそ、(この番組で出てくるかどうか分からないが)「常民」という概念も意味のあることになる。(さらに考えることとしては、日本における「資本主義の精神」を見出すことも可能かもしれない。だが、これは歴史学の枠を超えた議論になるだろう。)

それから、江戸時代において、あるいは、近代になってからも、旅に生きる人びとがいたということも大事なことである。人間が……それが武士であっても百姓であっても……基本的に一箇所に定住するものである、という考え方は、近代の国民国家となってからの考え方といっていいのかもしれない。(その典型的な現れが、戸籍における本籍、ということになる。)

江戸時代を通じての格差の拡大、それは、農民においてもあり、町人においてもあった、ということになるだろうが、農業における地主・小作の関係の成立ということは、歴史的にどう考えることになるのだろうか。

ちょっと出てきていたことだが、薩摩藩の借金は結局どうなったのだろうか。調所広郷の名前は出てきていなかったが。

2025年1月16日記

「ふたりの、終われない夜」2025-01-18

2025年1月18日 當山日出夫

ドキュメント20min. ふたりの、終われない夜

西村賢太は、名前をかろうじて知っているぐらいである。伊藤雄和については、まったく知るところがなかった。

今では、無頼派とか破滅型とかいうことばも過去のものになってしまっている。だが、これが、いわゆる文士のスタンダードであった時代も、かつてあった。現代におけるそのような人間を探しもとめることは、もう難しいのかもしれない。

ドキュメンタリーの手法としては、ナレーションによる説明などは無しにして、登場人物のことばだけで作るということになっているが、映像としても、かなり凝った映像表現になっている。無頼派を描くということであるが、番組の作り方としては、オーソドックスな作り方になっていると、私は感じた。

西村賢太の『苦役列車』は、読んでいない。Kindle版があるので、読んでおこうかと思う。

どこで撮影したのか。背景に本棚があって、酒が飲めるところである。たぶん、業界関係者なら、すぐに分かるところなのだろう。

2025年1月14日記

「ナップスター事件 無料音楽サービスの衝撃」2025-01-18

2025年1月18日 當山日出夫

アナザーストーリーズ ナップスター事件 無料音楽サービスの衝撃

私は音楽配信サービスは使っていない。時代の流れとして、オーディオもストリーミングの時代になってきていることは、理解しているつもりである、その利便性も分かるのだが、CDというものが手元に自分のものとしてあるという感覚を手放したくはない。もうこういうのは時代遅れだとは思うのだけれど。

ナップスターのことであるが、かろうじて記憶にある。音楽の違法ダウンロードということが、日本でも問題になった時期があった。(番組では言っていなかったが、MP3形式の普及で、ファイルを小さくできるようになったということも、関係しているはずである。)

一時期は、音楽はCDというパッケージではなく、ダウンロード販売で手に入れる、その場合、楽曲の一つだけでも買える、という時代があった。その時代の産物として、iPodがあったことになる。だが、APPLEは、iPodを生産中止にしてしまって、かなりになる。(まだ、私は使っているが。)

趣味の問題もあるだろうが、CDを再生するために高額なオーディオをそろえるよりも、上位機種のWalkmanにCDをコピー(FLAC)して、上等のヘッドフォンで聴いた方が、はるかに手軽に高音質で音楽が聴ける。

音楽のビジネスとして、インターネットが革命的な変革をもたらしたことはたしかである。音楽配信サービスもそうであるが、YouTubeなどが新しい表現の発表の場になってきている。これはもう時代の変化である。

ただ、今のこのような時代になって、一番もうけているのは、そのプラットフォーム企業であることも確かである。それも、ごく一部の企業の寡占状況にある。

番組で言っていなかったのだが、日本における、Winny事件のことがある。社会の価値観や文化とまったく切り離して、技術の中立ということはありえないというのが、私の考えるところである。Winnyの技術の中立性を言うならば、原爆を作る技術の中立性も言えるはずである。その技術を人間がどうつかって、何をしたいのか、それに、科学者や技術者は責任を持つべきだとまでは思わないが、その使われ方についての想像力は必要だろう。

日本のこととして思うことは、新しい技術をどう使って、新しいビジネスにつなげるのか、ということについて、社会全体として支援するという雰囲気に乏しいということは、感じるところである。インターネットの黎明期、あるいは、その前のパソコン通信、その前の、パソコンの開発、このあたりから見てきていることになるのだが、どうして日本の技術の開発が世界的にひろまらなかったのだろうか、という思いはどうしてもある。

技術の開発をビジネスに結びつけるしたたかさ、先見の明のあるビジネスマン、こういうことの問題かなとも思ってみるのだが。

放送と通信の融合とは、かなり以前から言われていることであるが、音楽産業のみならず、映像コンテンツについても、はたして日本の企業が、どれだけの存在感を示せるか、もうあまり期待しないほうがいいかもしれないと、思ったりもする。しかし、同時に、これからのウエブビジネスはどんなものになるだろうかとも思う。今では、ネット広告を見ずにすませるためにお金を払う、という時代になってきているといってもいいだろう。

ちなみに、私が最近買ったCDとしては、

竹内まりや 『Precious Days』
サイトウ・キネン・オーケストラ 沖澤のどか指揮 『ブラームス 交響曲 1
番 2番』
テレサ・テン 『テレサ・テン 生誕70年 ベストアルバム』

などである。あまりストリーミング配信で聞きたいという音楽ではないと、我ながら思っている。

2025年1月14日記