「“ブレグレット” EU離脱を後悔? 英国 破られた約束」2024-12-23

2024年12月23日 當山日出夫

BS世界のドキュメンタリー 「“ブレグレット” EU離脱を後悔? 英国 破られた約束」

二〇二四年、フランスの制作。

最近のニュースで、イギリスがTPPに加盟、ということを目にしたのだが、これはイギリスにとってどういう意味のあることなのだろうか。(この番組は、これ以前の制作だろうから、このことについての言及はなかったが。)

イギリスのEU離脱ということは、日本の報道でも大きく報じられたことであるが、そのイギリスの社会や政治の実態がどのようなものであるかは、あまり大きく伝えられることがない。せいぜい、この前の選挙で労働党が勝利したと同時に、極右政党(日本のマスコミからすればこう評価することになる)が勢力を伸ばしたことが、報じられたぐらいである。

ブレグジット、EU離脱、この選択のとき、これがかなえばイギリスは良くなると、離脱推進派は主張したが、その課題は、一つも解決されていない、ということらしい。

強いていえばということになるが、社会全体の構造的な変化のなかで、「忘れられた」と感じる人びとが、少なからず存在することになる。これは、アメリカにおけるラストベルトの人たちとも、通じる問題だろう。

イギリスの漁業ということが、テレビで伝えられることは、ほとんどなかったと思うが、かなりダメージは深刻なようだ。EUサイドとの漁業権をめぐることが大きな要因ということだが、別の観点として漁業資源の問題としては、どうなのだろうか。(さて、今のイギリスの、フィッシュ・アンド・チップスは、どんな魚を使っていることになるのだろうか。)

医療について、イギリスはHNSの充実した国ということが、一昔前までのイメージであるが、これも崩壊の危機にあるらしい。

EU離脱の大きな理由の一つだった、移民の問題も根本的には解決していない。移民の出身地が、EU域内から、他の地域に変わっただけである。むしろ、移民の数は増えている。

このような問題は、イギリスという一国だけでどうにかなるものではない。少なくとも先進諸国全般に見られる、社会や産業の構造的な変化によるものなので、EU離脱という選択肢ですべて解決することは、難しいことにはちがいない。だからといって、EUに残ったとしても、問題が根本的に解決するとは思えない。

法的にイギリスがEUから離脱したとしても、文化的、歴史的、社会的に、ヨーロッパの一員であることは確かである。ジョンソン元首相の父親が、フランスの永住権をとっているということは、とても興味深い。これも、ただ、フランスとの連帯というだけではなく、住んでいるのがお城であるというのは、いかにも貴族趣味というか、社会の上層階級の考えることという印象を持ってしまう。

これに対して、トロ箱のなかの魚の少なさを嘆いている漁師の姿は、とにかく今の私たちの生活をなんとかしてくれという、労働者の生活実感である。

イギリスという国で起こっていることは、EU諸国にも、さらには、アメリカにも、日本にも、韓国にも、そして中国にも、つながる問題をふくんでいることだろうと、見ていて思ったことである。

2024年12月20日記

「絵を描くことは生きること〜モンゴル〜」2024-12-23

2024年12月23日 當山日出夫

Asia Insight 絵を描くことは生きること〜モンゴル〜

再放送である。二〇二三年の放送。

障碍者のことをテレビであつかうときは、いろんな視点や考え方がある。NHKや他のテレビ局でも、これまでにいろんな試行錯誤をしてきている。

私の考えとしては、普通の人びとの視線で見ることが重要かと思っている。障碍があることを隠すこともないし、逆に、ことさらに強調することもない。

この番組の良さは、普通の市民の視線で見て、絵を描くことの意味、それは、障碍があってもなくても同じである、このことを伝えようとしていることだろう。画廊で絵を見る人たちも、それが障碍者が描いた絵であることについては、まったく言及していない。(そのように番組を編集してあることもあるのだろうが、この方針は正しいと私は思う。)

画面に映っていたかぎりで見ても、どの絵画も非常にいい。

ただ、現在のモンゴルにおいて、障碍者が生きていくのは、かなり厳しい現実があるらしい。

モンゴルは、かつて、史上で二番目の社会主義国であった。最初は、ソ連。そのモンゴルも、今では、自由経済の国になっている。そして、首都のウランバートルへの一極集中が進んでいる。人びとの生活のスタイルも変わってきている。そのなかで、障碍をもつ人たちへの意識も、これから変わっていくことになるのかと思う。

ところで、美術学校は、正教会の敷地のなかにあるとのことだったのだが、今のモンゴルでの宗教事情はいったいどんなふうになっているのだろうか。こういうことは、まったく日本の普通の報道では出てくることがない。

それから、社会が自由化したときの混乱。多くの子どもたちが、住むところがなくなってマンホールで生活していた。このようなことは、日本の報道では、まず伝えられなかったことだと思う。

モンゴルは、日本という国にとっては、中国とロシアの間にある、戦略的に重要な国である。この国のいろんな事情は、もっと日本で伝えられていいことである。

2024年12月21日記

ドキュメント20min.「究極の謝罪」2024-12-23

2024年12月23日 當山日出夫

ドキュメント20min. 究極の謝罪

たまたま、ホッブズの『リヴァイアサン』(角田安正訳、光文社古典新訳文庫)を読んでいる。年をとってきたこともあって、昔、大学生のころ、教養のときに習ったような本をきちんと読んでおきたくなった。一番新しいKindleを買って(これで三台目である)、それで読むことにしている。哲学や政治思想の古典的名著のかなりが、新しい訳があり、Kindle版が出ている。

なるほどホッブズはこんなことを考えていたのかと、とても面白い。せまい意味での国家論ではなく、人間というもの、社会というものについて、その時代において深く考察をめぐらしていることが理解される。

読んだなかに、このようなことが書いてあった……人間は、人を許すときよりも、批判するときの方が、正義と感じるものである。

さて、謝罪であるが、どのように謝罪すれば、相手が納得してくれるか、許してくれるか、という視点はたしかにある。そして、番組の最後に出てきたように、相手の愛するものがなんであったかを理解することが重要である、ということも、なるほどそのとおりかと感じる。

だが、その一方で、どうすれば人を許すことができるのか、という観点もあっていい。番組のなかに出てきたのは、オウム真理教事件の被害者の一人の遺族。(目黒の公証人役場につとめていて、被害者となった。若いとき、目黒に住んでいて、その公証人役場があったことは知っていた。)

犯人(死刑が執行されたのだが)については、被害者であった父親の最期の様子がどうであったか、なぜ、その犯行におよんだのか、その本当のことを知りたい……ということだった。これは、確かにそのとおりだろう。

このようなことが、世の中でおこる、いろんな犯罪について、すべてあてはまることかどうかは、かなり微妙なことかもしれないとは思う。

人間は、そう簡単に人を許すことができるのだろうか。(今の日本の刑事事件をめぐる流れとしては、被害者の心情を考慮するという方向に向かっているところがある。これを極端におしすすめると、復讐心の肯定になる。)

また、加害者の側としても、はたしてなぜそのような行為をすることになったのか、加害者本人として、自分のこころのうちをはっきりと把握できて、語れるものなのだろうか。自分自身で自分のこころを語るというのは、実は、とてもハードルが高いことである。そう簡単に、「心の闇」を語れるということはない。

加害者として、犯人として、事件の主体者として語ることとは別に、会社などで、社員がおこした不祥事について、会社としての謝罪会見などは、また違った観点から考えなければならないだろう。(最近では、銀行の貸金庫の事件があるが。)

このような場合には、視点を変えて、危機管理という観点から考えることになるだろう。

それから、今の時代にややこしいのは、事件の当事者(加害者、被害者)だけではなく、社会のいろんな人たちが、SNSでいっぱい意見を表明してくることである。いわゆる炎上である。これにどう対処するかは、また別の観点から考えるべきことになる。

「人に迷惑をかけないようにしなさい」、これは日本でよく言われることである。だが、文化が違うと別の見方をする場合がある。「人は生きていくのに周りの人に迷惑をかけるものだから、人から迷惑と感じることがあっても許してあげなさい」。このように考えることがあってもいいと私は思う。寛容さというのは、こういうところから生まれるものかと思う。

2024年12月22日記