「情報は人類を滅ぼすか〜ユヴァル・ノア・ハラリ 現代を読みとく」 ― 2024-12-30
2024年12月30日 當山日出夫
BSスペシャル 情報は人類を滅ぼすか〜ユヴァル・ノア・ハラリ 現代を読みとく
『サピエンス全史』(ユヴァル・ノア・ハラリ、柴田裕之訳)は、読んだ本である。面白かった本ではあるが、あまり感心しないところもある。『ホモ・デウス』『21Lessons』も読んだ。(見てみると、『ネクサス』はAmazonですでに予約注文ができる。来年の三月の発売であるが。)
ハラリの本で何が不満かというと……人類史のなかでの最も重要なポイント、それは言語の獲得であり、宗教の誕生であり、そして、われわれという共同意識の成立……こういった、非常に重要なことがらについて、歴史上そのようなことがあった、とだけですませていることである。なぜ、そのようなことが起こりえたのか、ということについて追求するところがない。まあ、このところは、現代の言語学をはじめいろんな研究分野でも、まだ未解明の領域であることはたしかなのではあるが。
番組のなかでは言っていなかたことだが……AIについては、今まさに発展途上の技術であるので、私自身、よく分からないというのが正直なところである。だが、その開発競争は止めることができない。その理由の大きな要因は、欧米などで先端的な開発を行っている企業において、とにかく勝ち抜くことが至上命題であるから、ということがある。これは、資本主義社会において、避けることのできないことである。そして、もう一つの大きな要因は、AI開発で、中国に先をこされてこの分野で覇権をにぎられたら、(極端な言い方になるが)中国共産党に世界を支配されてしまうという懸念があるからである。ただ、このことは、あまり表だって言われることではないが。
人が何を知識として得て行動するのか。SNSがはじまったころ、夢と希望を持って語られたのが、中東におけるジャスミン革命である。それが、今では、アメリカ大統領選挙から、日本での兵庫県知事選挙にいたるまで、SNSの情報の真偽と人間の判断をめぐって、かまびすしい議論が起こっている。(だが、そこで言われていることは、SNSや世論形成の本質論というよりも、自分の陣営に不利になるような使い方を相手にさせたくないので、規制が必要である、という非常に低レベルの議論でしかないと、私には思える。)
社会において、人は何を情報として得て、それが、どのような行動に結びつくのか、それは、これからどうなるのか、という大きな観点からの総合的な考察が必要である。そこには、まず、人間とはどういうものなのか、について根本的に考えなければならない。少なくとも、ここで重要になってくるのは、本来の意味での「保守主義」(エドマンド・バークの言った)である。(自分は正しいと思っているが、ひょっとすると間違っているかもしれない)自分は何故その考え方を支持するのかということについての自省の念の必要である。そして、同時に、自分とは異なる考え方をする人は、なぜそう考えるのかを思ってみる想像力の必要である。多様性を言うだけではなく、多様性の多様性を考えなければならない。なかには、許容しがたい多様性もあるかもしれないが、しかし、そこからしか本当の意味での寛容は生まれないだろう。(これは、今日の、リベラルも保守もともに欠いているところだと、私は思っている。)
AIが道具であるレベルをこえることは、十分にありうることかもしれない。だが、その先にどのような人間の社会がまっているのかは、イメージすることができない。少なくとも、人間がこれまでに築いてきた、倫理観や道徳観といった基本的な価値観に大きな影響をあたえるかもしれない、という懸念はある。
AIをつかった統治が、民主主義よりも、全体主義に適合性があるというのは、そのとおりだろう。意志決定のプロセスが分散し、手間のかかるシステムである民主主義であるならば、その危険性は避けることができるかもしれない(あくまでも「かもしれない」である。)すくなくとも、少しブレーキをかけて、方向を変えるぐらいのことはできるだろう(これも「かもしれない」であるが。)
番組のなかでは、北朝鮮を具体例としてあげていたが、これはNHKとして配慮した作り方をしたせいで、実際には中国を念頭において考えるべきことであると、私は思う。(すでに中国国内のSNSは政府の監視下にあり、コントロールされているというのは、常識的なことである。それが、国内だけのことにとどまっていれば、よしとしておくことになるが。)中国に支配されるというよりも、さらにすすんでAIに支配された中国共産党に人類が支配される、これは、ディストピアである。(中国人の叡知はこれを回避できるとするのは、楽観的にすぎると思える。さて、どうだろうか。)
しかし、今の私として思うこととしては、あまり長生きして人類の暗い未来を見ることは幸せなことかな、と思ってみるのである。
2024年12月27日記
BSスペシャル 情報は人類を滅ぼすか〜ユヴァル・ノア・ハラリ 現代を読みとく
『サピエンス全史』(ユヴァル・ノア・ハラリ、柴田裕之訳)は、読んだ本である。面白かった本ではあるが、あまり感心しないところもある。『ホモ・デウス』『21Lessons』も読んだ。(見てみると、『ネクサス』はAmazonですでに予約注文ができる。来年の三月の発売であるが。)
ハラリの本で何が不満かというと……人類史のなかでの最も重要なポイント、それは言語の獲得であり、宗教の誕生であり、そして、われわれという共同意識の成立……こういった、非常に重要なことがらについて、歴史上そのようなことがあった、とだけですませていることである。なぜ、そのようなことが起こりえたのか、ということについて追求するところがない。まあ、このところは、現代の言語学をはじめいろんな研究分野でも、まだ未解明の領域であることはたしかなのではあるが。
番組のなかでは言っていなかたことだが……AIについては、今まさに発展途上の技術であるので、私自身、よく分からないというのが正直なところである。だが、その開発競争は止めることができない。その理由の大きな要因は、欧米などで先端的な開発を行っている企業において、とにかく勝ち抜くことが至上命題であるから、ということがある。これは、資本主義社会において、避けることのできないことである。そして、もう一つの大きな要因は、AI開発で、中国に先をこされてこの分野で覇権をにぎられたら、(極端な言い方になるが)中国共産党に世界を支配されてしまうという懸念があるからである。ただ、このことは、あまり表だって言われることではないが。
人が何を知識として得て行動するのか。SNSがはじまったころ、夢と希望を持って語られたのが、中東におけるジャスミン革命である。それが、今では、アメリカ大統領選挙から、日本での兵庫県知事選挙にいたるまで、SNSの情報の真偽と人間の判断をめぐって、かまびすしい議論が起こっている。(だが、そこで言われていることは、SNSや世論形成の本質論というよりも、自分の陣営に不利になるような使い方を相手にさせたくないので、規制が必要である、という非常に低レベルの議論でしかないと、私には思える。)
社会において、人は何を情報として得て、それが、どのような行動に結びつくのか、それは、これからどうなるのか、という大きな観点からの総合的な考察が必要である。そこには、まず、人間とはどういうものなのか、について根本的に考えなければならない。少なくとも、ここで重要になってくるのは、本来の意味での「保守主義」(エドマンド・バークの言った)である。(自分は正しいと思っているが、ひょっとすると間違っているかもしれない)自分は何故その考え方を支持するのかということについての自省の念の必要である。そして、同時に、自分とは異なる考え方をする人は、なぜそう考えるのかを思ってみる想像力の必要である。多様性を言うだけではなく、多様性の多様性を考えなければならない。なかには、許容しがたい多様性もあるかもしれないが、しかし、そこからしか本当の意味での寛容は生まれないだろう。(これは、今日の、リベラルも保守もともに欠いているところだと、私は思っている。)
AIが道具であるレベルをこえることは、十分にありうることかもしれない。だが、その先にどのような人間の社会がまっているのかは、イメージすることができない。少なくとも、人間がこれまでに築いてきた、倫理観や道徳観といった基本的な価値観に大きな影響をあたえるかもしれない、という懸念はある。
AIをつかった統治が、民主主義よりも、全体主義に適合性があるというのは、そのとおりだろう。意志決定のプロセスが分散し、手間のかかるシステムである民主主義であるならば、その危険性は避けることができるかもしれない(あくまでも「かもしれない」である。)すくなくとも、少しブレーキをかけて、方向を変えるぐらいのことはできるだろう(これも「かもしれない」であるが。)
番組のなかでは、北朝鮮を具体例としてあげていたが、これはNHKとして配慮した作り方をしたせいで、実際には中国を念頭において考えるべきことであると、私は思う。(すでに中国国内のSNSは政府の監視下にあり、コントロールされているというのは、常識的なことである。それが、国内だけのことにとどまっていれば、よしとしておくことになるが。)中国に支配されるというよりも、さらにすすんでAIに支配された中国共産党に人類が支配される、これは、ディストピアである。(中国人の叡知はこれを回避できるとするのは、楽観的にすぎると思える。さて、どうだろうか。)
しかし、今の私として思うこととしては、あまり長生きして人類の暗い未来を見ることは幸せなことかな、と思ってみるのである。
2024年12月27日記
「カラカサン 私たちに力を」 ― 2024-12-30
2024年12月30日 當山日出夫
ETV特集 カラカサン 私たちに力を
日本のなかにこのようにして暮らしている人がいることを忘れてはならない。(だから、行政や法的制度として、どうしろと声高に叫ぶことではないとは、思うのだけれども。)
見ながら思ったことを書いてみる。
フィリピンから来た女性たちは、八〇年代に日本にやってきたという。ちょうどバブル景気のころのことになる。いったいどんな仕事をしていたのか、はっきりと説明はなかったが、おそらくは飲食店での接客業(かなり穏健な表現であるが)だろうと思う。
そのようなフィリピン女性と結婚する、(日本人の)男性は、いったいどんな人たちだったのだろうか。本当に純粋に愛し合って結婚したという場合もあるだろうが、そうではなかった場合もあるかもしれない。どういう事情で、結婚にいたったのか、これは知りたいところである。(こういう言い方は偏見を助長することになるかもしれないのだが)フィリピン女性と結婚するしか相手がいないような男性だからこそ、その後の生活がうまくいかなかった……はたして、男性の側に視点をおいて、取材してみるとどういうことになるのか。
出入国管理のあり方は、いろいろと問題がある。これも、マスコミ(NHKをふくめて)の報道だと、きわめて悪質で問題がある例か、逆に、日本社会のなかでまともに生きて暮らしている善良な例か、このどちらかに偏っているように感じる。法律の運用にあたって、個別の事例に則して、人道的な配慮がなされるべきと思うだけである。(将来的なことを考えれば、日本が移民を受け入れる社会になろうとするならば、法的な整備は必要であると思うと同時に、その人たちが日本で暮らして、老いて、死んでいく、そして、子どもができることになることまで視野にいれた政策が求められることになる。)
登場してきたなかで男性は、フィリピン人女性の子どもと、それから、カナダにいる弟ぐらいだった。その他、日本にやってきて働くことになったフィリピン人は女性だけではなく、男性もいただろうと推測はしてみるが、その人たちは、どんな仕事をして、今は、どうしているのだろうか。えてして、日本の社会は、困っている女性や子どもには救いの手をさしのべる(この番組でのように、決して十分な支援であるとはいえないとしても)、だが、困っている男性には、きわめて冷淡である。もし想像することが許されるならば、かなり悲惨な生活であったとしてもおかしくないと思うが、はたしてどうなのだろうか。
女性たちはカトリックの信仰をもっている。これに対して、日本のカトリックの教会などは、どう対応しているのかも気になる。日本にも、カトリックの教会はある。その教会の扉をたたくことはないのだろうか。(だからといって、日本のカトリックの教会や信者である人たちの責任ということを、言いたいわけではない。信仰が生きていく支えになっているならば、その面で……信仰に限ってでも……援助することも教会の役割だろうと思ってみることになるということである。)
さらに思うこととしては、日本の現代社会は、地域社会、町内会、PTAというような、中間的な共同体を、否定する方向にむかってきた。これらは、封建的遺制であり個人を束縛するものにすぎないという価値観である。たしかにこのような性格はあったにせよ、これからの日本社会においては、個人と行政・国、という関係だけではなく、地域社会の中間的な共同体の再構築が必要になると思うことにもなるだろう。そのメンバーには、移民の人たちなどもふくむことになる。だが、一度壊してしまったものを、もういちど作ることは難しいかと思うけれど。
2024年12月29日記
ETV特集 カラカサン 私たちに力を
日本のなかにこのようにして暮らしている人がいることを忘れてはならない。(だから、行政や法的制度として、どうしろと声高に叫ぶことではないとは、思うのだけれども。)
見ながら思ったことを書いてみる。
フィリピンから来た女性たちは、八〇年代に日本にやってきたという。ちょうどバブル景気のころのことになる。いったいどんな仕事をしていたのか、はっきりと説明はなかったが、おそらくは飲食店での接客業(かなり穏健な表現であるが)だろうと思う。
そのようなフィリピン女性と結婚する、(日本人の)男性は、いったいどんな人たちだったのだろうか。本当に純粋に愛し合って結婚したという場合もあるだろうが、そうではなかった場合もあるかもしれない。どういう事情で、結婚にいたったのか、これは知りたいところである。(こういう言い方は偏見を助長することになるかもしれないのだが)フィリピン女性と結婚するしか相手がいないような男性だからこそ、その後の生活がうまくいかなかった……はたして、男性の側に視点をおいて、取材してみるとどういうことになるのか。
出入国管理のあり方は、いろいろと問題がある。これも、マスコミ(NHKをふくめて)の報道だと、きわめて悪質で問題がある例か、逆に、日本社会のなかでまともに生きて暮らしている善良な例か、このどちらかに偏っているように感じる。法律の運用にあたって、個別の事例に則して、人道的な配慮がなされるべきと思うだけである。(将来的なことを考えれば、日本が移民を受け入れる社会になろうとするならば、法的な整備は必要であると思うと同時に、その人たちが日本で暮らして、老いて、死んでいく、そして、子どもができることになることまで視野にいれた政策が求められることになる。)
登場してきたなかで男性は、フィリピン人女性の子どもと、それから、カナダにいる弟ぐらいだった。その他、日本にやってきて働くことになったフィリピン人は女性だけではなく、男性もいただろうと推測はしてみるが、その人たちは、どんな仕事をして、今は、どうしているのだろうか。えてして、日本の社会は、困っている女性や子どもには救いの手をさしのべる(この番組でのように、決して十分な支援であるとはいえないとしても)、だが、困っている男性には、きわめて冷淡である。もし想像することが許されるならば、かなり悲惨な生活であったとしてもおかしくないと思うが、はたしてどうなのだろうか。
女性たちはカトリックの信仰をもっている。これに対して、日本のカトリックの教会などは、どう対応しているのかも気になる。日本にも、カトリックの教会はある。その教会の扉をたたくことはないのだろうか。(だからといって、日本のカトリックの教会や信者である人たちの責任ということを、言いたいわけではない。信仰が生きていく支えになっているならば、その面で……信仰に限ってでも……援助することも教会の役割だろうと思ってみることになるということである。)
さらに思うこととしては、日本の現代社会は、地域社会、町内会、PTAというような、中間的な共同体を、否定する方向にむかってきた。これらは、封建的遺制であり個人を束縛するものにすぎないという価値観である。たしかにこのような性格はあったにせよ、これからの日本社会においては、個人と行政・国、という関係だけではなく、地域社会の中間的な共同体の再構築が必要になると思うことにもなるだろう。そのメンバーには、移民の人たちなどもふくむことになる。だが、一度壊してしまったものを、もういちど作ることは難しいかと思うけれど。
2024年12月29日記
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