『文章読本』中村真一郎(その三)2017-08-31

2017-08-31 當山日出夫(とうやまひでお)

つづきである。

やまもも書斎記 2017年8月26日
『文章読本』中村真一郎(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/08/26/8657880

夏目漱石の『硝子戸の中』を引用したあとに、このようにある。

「こうした自由に客観と主観を往来し得る、そして時には平凡に感じられるくらいに平易な、と同時に正確で癖のない、漱石の完成した口語文は、その後、大きな影響を日本の各界の人々に与えました。教養のある現代の日本人は、殆ど誰でもこの文体で、文章を綴っているのではないでしょうか。/これは鴎外の硬質の文体の影響が文学者の一部に限られているのと、極端な対照をなしている現象です。」(p.89)

たぶん、このことに、異論はないだろうと思う。現代日本語の口語文は、夏目漱石に源流を見いだすことができる。あるいは、特に夏目漱石に限ったことではないのかもしれないが、その文学的な影響力ということをも含めて考えてみるならば、夏目漱石の文章に流れの中に、現代の日本語の文章……特に口語文、小説の文章……はあるといってよいのだろう。

近代日本文学のなかで、夏目漱石は、いまだに読み継がれている作家であり、研究もつづいている。その作品の多くは、ほとんど何の注釈もなしで読める。無論、一部、風俗描写など細かな注釈が必要になるところもないではないが、しかし、文章そのものが難しいので注釈をつけないと読めないということはない。

だが、同時に忘れてはならないことは、これはよく知られていることであると思うが……漱石は、晩年になって『明暗』を執筆するのと同時に、漢詩文の世界にあそんでいる。漱石の文章を考えるにあたって、その口語散文以外の領域……俳句であり、また、漢詩文である……を、視野にいれおかなければならない。

そのうえで、現代のわれわれの日本語文が、漱石の残した文章の延長にあることに、あらためて自覚的である必要があろう。

文学とは文体である……と言い切ってしまうことが許されるなら、漱石のつかった口語散文の切り開いていった世界につらなるところに、現代の文学も、またあるということになる。この意味においても、漱石の文学は顧みられるべきである。このことは、逆説的にいえば、森鴎外や、泉鏡花のような文章の延長には、我々はいない。その逆の可能性をふくめて考えなければならないことでもある。

そして、このようなことを考える意味でも、中村真一郎の『文章読本』は、いい本だと思う。

追記 2017-09-02
この続きは、
やまもも書斎記 2017年9月2日
『文章読本』中村真一郎(その四)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/09/02/8666586

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