『われらの時代』ヘミングウェイ ― 2018-08-04
2018-08-04 當山日出夫(とうやまひでお)
ヘミングウェイ.高見浩(訳).『われらの時代・男だけの世界-ヘミングウェイ全短編1-』(新潮文庫).新潮社.1995
http://www.shinchosha.co.jp/book/210010/
ヘミングウェイの主な長編、『日はまた昇る』『武器よさらば』『誰がために鐘はなる』を読んだ。『老人と海』も読んだ。これらについては、このブログに書いてきた。次に読んでおこうと思ったのは、短篇集である。ヘミングウェイは、むしろ短編作家としての評価の方が高いのかもしれない。
まずは、新潮文庫の「ヘミングウェイ全短編1」から読むことにした。この本には、二つの短篇集が収められている。「われらの時代」と「男だけの世界」である。まずは、「われらの時代」から。
文庫本の解題によると、この短篇集は、ヘミングウェイがパリ滞在の時期に書かれたものらしい。そして、この短篇集で、ヘミングウェイは、作家として世に出ることになった。
読んで感じることを記せば、次の二点になる。
第一は、短篇小説という文学の形式が確立していて、それを使っての文学である、ということ。
私も年をとってきて、昔読んだ小説など読みなおしたりしているのだが、その中で、短編小説という文学の形式の成立が、新しいことを改めて知った。19世紀になってから。例えば、モーパッサンなどが、短編小説という文学の形式の確立に大きくかかわっている。(このあたりの詳しい経緯については、西欧近代文学の専攻というわけではないので、概略しか知らないのだが。)
ともあれ、「われらの時代」を読んで感じることは、短編小説という文学の形式を十分に駆使して書かれている。個々の短篇の作品としての完成度も高いが、短編小説集という形式でも、確固たるものになっている。
第二は、これは、個人的な思い出なのだが……この「われらの時代」に収められている作品については、高校生ぐらいのときに、英語の勉強で、参考書か何かで読んだ記憶がある。高校生でも読める程度の、いわば比較的やさしい単語で書かれている。構文も難しくはない。
だが、使われている単語・構文がそう難しいものではないということと、書かれていることの文学的感銘とはまた別である。いわゆる「ハード・ボイルド」というスタイルの文学と言ってもよいだろうか。特に、ニックを主人公とした作品のいくつかは、主人公視点で、きわめて簡潔で無駄の無い文章であり、余計な感情表現などがない。硬質な文体と言っていいかもしれない。
このような硬質な文体の新しさ……これは、今日の文学では珍しいものではないかもしれないが、「われらの時代」が書かれたのは、1920年代である。日本でいえば、大正時代になる。芥川などと同時代とみてさしつかえないだろうか。
軽々に日本文学の同時代の作品との比較はすべきではないのかもしれないが、近代文学というものは、19世紀以降、日本でいえば明治維新以降、世界的視野で考えることも、また、それなりの興味のあることである。
以上の二点が、「われらの時代」を読んで感じるところである。
短編小説という文学の形式、主人公視点の簡潔な文体……これらについては、現代の我々の視点だから言えることかもしれない。そのような文学が書かれ、読まれてきた歴史があって、今日の我々の文学観というものがある。その形成に、ヘミングウェイの特に短篇は、大きくかかわっていることを感じる。
ヘミングウェイの短篇は、新潮文庫版で、三冊になっている。順次、読んでいこうと思っている。
http://www.shinchosha.co.jp/book/210010/
ヘミングウェイの主な長編、『日はまた昇る』『武器よさらば』『誰がために鐘はなる』を読んだ。『老人と海』も読んだ。これらについては、このブログに書いてきた。次に読んでおこうと思ったのは、短篇集である。ヘミングウェイは、むしろ短編作家としての評価の方が高いのかもしれない。
まずは、新潮文庫の「ヘミングウェイ全短編1」から読むことにした。この本には、二つの短篇集が収められている。「われらの時代」と「男だけの世界」である。まずは、「われらの時代」から。
文庫本の解題によると、この短篇集は、ヘミングウェイがパリ滞在の時期に書かれたものらしい。そして、この短篇集で、ヘミングウェイは、作家として世に出ることになった。
読んで感じることを記せば、次の二点になる。
第一は、短篇小説という文学の形式が確立していて、それを使っての文学である、ということ。
私も年をとってきて、昔読んだ小説など読みなおしたりしているのだが、その中で、短編小説という文学の形式の成立が、新しいことを改めて知った。19世紀になってから。例えば、モーパッサンなどが、短編小説という文学の形式の確立に大きくかかわっている。(このあたりの詳しい経緯については、西欧近代文学の専攻というわけではないので、概略しか知らないのだが。)
ともあれ、「われらの時代」を読んで感じることは、短編小説という文学の形式を十分に駆使して書かれている。個々の短篇の作品としての完成度も高いが、短編小説集という形式でも、確固たるものになっている。
第二は、これは、個人的な思い出なのだが……この「われらの時代」に収められている作品については、高校生ぐらいのときに、英語の勉強で、参考書か何かで読んだ記憶がある。高校生でも読める程度の、いわば比較的やさしい単語で書かれている。構文も難しくはない。
だが、使われている単語・構文がそう難しいものではないということと、書かれていることの文学的感銘とはまた別である。いわゆる「ハード・ボイルド」というスタイルの文学と言ってもよいだろうか。特に、ニックを主人公とした作品のいくつかは、主人公視点で、きわめて簡潔で無駄の無い文章であり、余計な感情表現などがない。硬質な文体と言っていいかもしれない。
このような硬質な文体の新しさ……これは、今日の文学では珍しいものではないかもしれないが、「われらの時代」が書かれたのは、1920年代である。日本でいえば、大正時代になる。芥川などと同時代とみてさしつかえないだろうか。
軽々に日本文学の同時代の作品との比較はすべきではないのかもしれないが、近代文学というものは、19世紀以降、日本でいえば明治維新以降、世界的視野で考えることも、また、それなりの興味のあることである。
以上の二点が、「われらの時代」を読んで感じるところである。
短編小説という文学の形式、主人公視点の簡潔な文体……これらについては、現代の我々の視点だから言えることかもしれない。そのような文学が書かれ、読まれてきた歴史があって、今日の我々の文学観というものがある。その形成に、ヘミングウェイの特に短篇は、大きくかかわっていることを感じる。
ヘミングウェイの短篇は、新潮文庫版で、三冊になっている。順次、読んでいこうと思っている。
追記 2018-08-06
この続きは、
やまもも書斎記 2018年8月6日
『男だけの世界』ヘミングウェイ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/08/06/8934764
この続きは、
やまもも書斎記 2018年8月6日
『男だけの世界』ヘミングウェイ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/08/06/8934764
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