『春の戴冠』(一)辻邦生2018-08-25

2018-08-25 當山日出夫(とうやまひでお)

春の戴冠(一)

辻邦生.『春の戴冠』(一)(中公文庫).中央公論新社.2008
http://www.chuko.co.jp/bunko/2008/04/205016.html

辻邦生の主な作品は、高校生のころに読んでいた。『廻廊にて』『夏の砦』『嵯峨野明月記』『安土往還記』『西行花伝』そして『背教者ユリアヌス』も読んだ。

これまでに読んだ(再読であるが)については、書いてきた。

やまもも書斎記 2017年7月8日
『西行花伝』辻邦生
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/07/08/8616269

やまもも書斎記 2017年7月21日
『安土往還記』辻邦生
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/07/21/8624553

やまもも書斎記 2018年4月2日
『嵯峨野明月記』辻邦生
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/04/02/8816997

やまもも書斎記 2018年4月26日
『背教者ユリアヌス』辻邦生
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/04/26/8833495

『廻廊にて』『夏の砦』は、まだ読んで(再読)していない。この夏休み、時間のとれるときに大部な本を読んでおきたくなって、『春の戴冠』を読むことにした。中公文庫で、四冊、2000ページほどになろうか。

『春の戴冠』は未読であった作品である。高校生のころまで、辻邦生の世界に心酔するように読んでいたのだが、大学生になって、国文学、国語学……それも厳格な文献学的方法に基づく……を学ぶようになってから、辻邦生からは遠ざかってしまっていた。だが、この年になって(還暦をとうにすぎた)、もう国語学、日本語学という分野からは退いて自分の好きな本を読んで時間を使いたいと思うようになって、再度、辻邦生を読みなおしている次第である。

『春の戴冠』は、ヨーロッパのルネッサンスの時代、ボッティチェルリを主人公とした小説であることは知っていた。そして、ボッティチェルリといえば、ビーナスの誕生ぐらいしか作品が思い浮かばない。ほとんど予備知識の無い状態である。

が、これは文学、小説である。余計な予備知識は無くても、読んでみることにする。

第一冊目を読んでの印象は……やはりこれは、辻邦生の美学というか、芸術至上主義というか、他の辻邦生作品にみられた、芸術への讃仰が描かれている。といって、耽美的な芸術至上主義におちいってはいない。あくまでも、冷静、理知的である。きわめて静かな筆致で、芸術への理想が語られる。

読みながら付箋をいくつかつけたのだが、その中の一つを引用してみる。サンドロ(ボッティチェルリ)は、このように語っている。

「〈美〉とは〈悦ばしさ〉を経て〈不死〉へ通じているんだ、ぼくがアルノ河畔の桜草でもなくオルチェルラリの庭園の桜草でもはく〈不変の桜草の姿〉を追い求めていた理由がよくわかったよ。ぼくは時の変化や死や消滅がこわかったんんだ。だから必死で無変化や不死や永遠を求めていたのだ。(中略)だって〈悦ばしさ〉のなかに生きていると、もう死も消滅もこわくなくなるからだ。こういう〈美〉とは、フェデリゴ、永遠の虚無からぼくらを救いだす砦のようなものじゃないだろうか。」(p.176)

このような芸術への確信とでもいうべきものに、共感する人もいるだろうし、しない人もいるかもしれない。ここは、好みの分かれるところでもあろう。このあたりの感覚に共鳴できるかどうか、辻邦生の作品が好きになるかどうかのポイントであろう。

このような芸術への確信とでいいうべき感覚は、若いときか、さもなくば、(今の私のように)年取ってからでないと、共感できないものであるのかもしれないと思う。ともあれ、この作品、ルネッサンス時代のボッティチェルリという人物を通じて、芸術への確信とでもいうべき感覚を描き出すことになるのだろうと思う。

歴史考証の視点をもちこんでおくならば、中世、ヨーロッパにおけるギリシア哲学研究は、イスラム世界を経由して、再度もたらされたものであると認識している。このあたりのことは、井筒俊彦の著作によってであるが。直接、古代のローマ、ギリシアの時代から、ヨーロッパの学芸の世界が連続してあるのではないはずである。このようなことを心の片隅で思ってはみるものの、この小説の語り手である、フェデリゴという人物は、ギリシア古典語を勉強している。プラトンのイデア論などをふまえて、芸術というもの、美というものへについて、その本質を論ずるところがある。昔の大学の教養課程での哲学の講義のことなど、思い出しながら読んでいる。

そして、この第一冊目でただよっているのは、舞台となるフィオレンツァの町と、メディチ家の、繁栄の絶頂と、その陰に忍び寄る没落の気配なのだが、これからどうなるか。時代の栄枯盛衰のなかで、語り手のギリシア古典学者(フェデリゴ)、その友である画家サンドロ、それから、天才少年(レオ)の運命はどうなるのであろうか。また、〈仮面〉。これは何を意味しているのだろうか。人は〈仮面〉をつけることによってどう変わるのか、変わりうるのか、これも今後の伏線となるのであろうか。

次の第二冊目を読むことにしょう。

追記 2018-08-30
この続きは、
やまもも書斎記 2018年8月30日
『春の戴冠』(二)辻邦生
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/08/30/8952973