『水底の女』村上春樹訳2019-08-05

2019-08-05 當山日出夫(とうやまひでお)

水底の女

レイモンド・チャンドラー.村上春樹(訳).『水底の女』.早川書房.2017
http://www.hayakawa-online.co.jp/shopdetail/000000013740/

続きである。
やまもも書斎記 2019年8月2日
『プレイバック』村上春樹訳
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/08/02/9136373

村上春樹訳で、レイモンド・チャンドラーの長編を読んできた。これが最後になる。この本は、まだ文庫本が出ていないので、単行本で買って読んだ。

読んで思うことは、次の二点だろうか。

第一には、ミステリとして読んだときには、少し劣る作品であるということ。(といって、チャンドラーをおとしめるつもりはないが。)メインのトリックは、すぐにわかる。ミステリをある程度読み慣れた人間なら、あのてのトリックだなとすぐに察しがつく。後は、どのようにして、その最後の決着のところまで小説をもっていくのか、その手並みを味わいながら読むということになるだろうか。

第二には、そうはいっても、チャンドラーの作品である。この作品においても、マーロウは、かっこいい。チャンドラーのハードボイルドの楽しさを十分に感じることのできる仕上がりになっている。

以上の二点が、この作品を読んで思うことである。

ところで、ひとりでチャンドラーの作品……長編の七作を……日本語訳したのは、村上春樹だけということになる。これは、快挙と言っていいだろう。

文学、古典には、賞味期限はないけれども、翻訳には賞味期限がある……村上春樹の言うところは、このように理解できるだろうか。清水俊二訳もいいが、今後は、村上春樹訳でチャンドラーが読まれていくことになるだろう。

チャンドラーの作品は、ミステリのみならず、多くの文学者に影響を与えている。村上春樹の記すところによれば、カズオ・イシグロなども、チャンドラーの愛読者であるらしい。では、なぜ、チャンドラーなのであろうか。

文学の歴史にうとい私としては、この点について知識がない。ハードボイルドの世界文学史、誰か書いているのだろうと思うが、残念ながら知らないでいる。

ただ、今の私なりに思うことを、記せば次のようになろうか。西欧の文学は近代になって、「神の視点」を手にいれた。登場人物の心のなかに自由に入り込むことができる、小説技法を確立した。それが、ハードボイルドという、「私」の視点に限定される〈不自由〉にこだわるのは何故か。強いて言うならば、「私」の視点の再発見とでもいうことができるだろうか。

無論、「私」といっても、日本における「私小説」の「私」ではない。「神の視点」を経由して描きだされるところの「私」である。これを、すべて「彼」におきかえても、小説は成立する。それを、「私」の語りによって描き出すことによって、「私」の目から見た一つの物語世界を構築することができる。

村上春樹の初期の作品は、第一人称「僕」が登場する。それが、第三人称視点の小説に変貌するのは、『海辺のカフカ』以降ということになる。村上春樹は、「私」からスタートして、第三人称へといたっている。そして、その第三人称視点の複数の物語が交錯する作品としては、『1Q84』が思い浮かぶ。

文学における「私」視点ということについては、これから、おりをみて考えていきたいと思う。

チャンドラーの翻訳を読み終えたので、再度、村上春樹の日本語の作品を読んでいくことにする。次は、『夜のくもざる』である。

追記 2019-08-10
この続きは、
やまもも書斎記 2019年8月10日
『夜のくもざる』村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/08/10/9139334

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