『硝子戸の中』夏目漱石2019-08-23

2019-08-23 當山日出夫(とうやまひでお)

硝子戸の中

夏目漱石.『硝子戸の中』(新潮文庫).新潮社.1952 (2011.改版)
https://www.shinchosha.co.jp/book/101015/

続きである。
やまもも書斎記 2019年7月25日
『明暗』夏目漱石
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/25/9133086

ふとしたことからであるが……半藤一利・宮崎駿の『腰ぬけ愛国談義』を読んで……漱石の書いたものを、再度、読み直したくなってきている。漱石の作品は『三四郎』からはじまる作品群については、数年おきに読んできている。が、ここにきて、これまであまり読んでこなかった随筆の類を手にしている。『草枕』『明暗』と読んで、次に手にしたのが『硝子戸の中』である。これも新潮文庫で読んでみることにした。

この本を読むのは久しぶりである。漱石の最晩年の随筆であることは知識としては持っていた。

読んで見て感じることとしては……もし、自分が生きているときに、それも若いときに、漱石のような人間とめぐりあうことができたなら、たぶん、「先生」と呼んでみたくなったろう。しかし、それは、漱石にとっては、非常に迷惑な読者であったかもしれない。このようなことを思って見る。それほどに、この『硝子戸の中』に登場する漱石という人物は、人間的な魅力にあふれている。

ここでは、読みながら感じたところを二点ほどあげておくことにする。

第一には、「死」である。

そのような知識、この本が最晩年の作品になる、このことを知っていて読むせいかもしれないが、この作品には、どこかしら「死」のかげがある。犬や猫のみならず、多くの人の「死」が描かれている。それも、実に淡々としている。

これは、最晩年における漱石の死生観とでもいうような観点からまとめて考えることができるだろう。

第二には、「母」である。

この作品中には、漱石の「母」の思い出が記されている。漱石が、その両親がかなり年をとってからの子どもであり、里子に出されたりした、このことは知られていることである。その漱石にとって、「母」とはどのような存在であったか。その漱石の「母」の一端が、この作品には見ることができる。

以上の二点が、読みながら思ったことである。

漱石における「死」、あるいは「母」、このようなことは、おそらく近代文学研究の分野において、漱石研究としては、十分な研究があるのだろうと思う。(もう今となっては、それらの論文など検索して読んでみようという気もおこらない。ただ文庫本で作品を読んで、そのように思うだけである。)

村上春樹を読んでいる。その合間にとおもって読み始めた漱石である。漱石は小説家であり、同時にすぐれたエッセイストでもある。これまであまり読むことのなかった作品を読んでいこうと思う。

追記 2019-10-25
この続きは、
やまもも書斎記 2019年10月28日
『二百十日』夏目漱石
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/10/25/9168738