「混迷の世紀 最終回 “超大国・分断” アメリカはどこへ」2024-11-05

2024年11月5日 當山日出夫

NHKスペシャル 混迷の世紀 最終回 “超大国・分断” アメリカはどこへ

一昨日の放送であるが、録画してあったのをようやく見た。今日が、アメリカ大統領選挙の日である。

見ながら思ったことを書いてみる。

これまでアメリカ大統領選挙をめぐっては、いろんな番組があり、ニュースでも触れられてきている。そう新しい問題点とか、新たな視点からの解説があったということはないかと思う。

気になったことがある。この番組に登場していたアメリカの人は、基本的に白人で、男性が多かった。意図的に、このように取材して編集したのだろうか。今のアメリカでは、非白人である人びとが半数ほどいるはずなので、その人たちも重要であるはずである。女性が登場していたが、どちらかといえば若い女性が多かった。高齢女性はどうなのだろうか。教会で、祈りを捧げる人びとの様子は、確かにそうなんだろうと思うが、画面に映っていたのは、年配の白人男性ばかりであった。

このような番組を作るとき、登場人物の性別や年齢、それから「人種」や「宗教」ということについて、PC(政治的タテマエ)は必然的に要求されることにちがいない。その一方で、テレビの画面を見て、そこから視聴者が何を感じるかは、また別の問題かもしれない。この番組を作った人は、見る人が何を思って見るとおもっていたのだろうか。

あえて天邪鬼な言い方をしてみれば、民主主義はそんなにいいものなのだろうか。

まあ、私の年代としては(一九五五年生)、戦後民主主義の虚妄にかける……ということに、共感する。そして、この価値観を尊重するという意味ににおいて、(ことばの本来の意味において)「保守」でありたいと思っている。

世界の流れとしては、国民国家を枠とした新たな秩序の再構築ということになるのかと思う。これには、国民国家に失敗した国、地域を、どうするかということを含めてである。

日本が、アメリカから自立するべき(これは、主に日本では左派の主張になる)ということは、ものの考え考え方としては、トランプよりの発想であり、自前で軍備を持つことになる。だが、これは、同時に、日本の左派が否定していることでもある。左派は民主党支持である。(このあたりのネジレを、どう自覚しているかはさだかではないが。)

中国のことがまったく出てきていなかったことは、意図的にそのように番組を作ったのだろう。中国式の専制政治の方がうまくいく(かもしれない)というのは、アメリカの民主主義を主張する立場からすると、まっこうから対立することになる。

自分とは異なる意見を持つ人のことを理解すること。このことの重要性は改めていうまでもないことだろう。だが、このことがきわめて難しいことも、現在の日本においても痛感することである。先般の衆議院選挙の結果と、それをうけての各種の議論を見ると、自分とは異なる意見を尊重するという姿勢が、急激に失われてきているように思えてならない。刺激的で攻撃的な言論が目につくようになった。これは、今のネット社会において、しかたのないことかもしれないが。

ともあれ、選挙が終われば、その結果をうけて、いろんな番組が作られることになるだろう。

2024年11月5日記

フロンティア「世界は錯覚で出来ている」2024-11-05

2024年11月5日 當山日出夫

フロンティア 世界は錯覚で出来ている

以前、色彩学関係の本をかなり読んだことがある。色覚異常、一般に色盲といわれる現象であるが、その人にとって、辞書や辞典で使われる文字の色分けが、どう認識できるか、ということを考えたことがある。これは、いくつか論文にして発表もした。私としては、これも日本語学の研究の一部である。(結果としては、英語辞書などで重要な単語の見出しを赤色に印刷することはあまり意味がない、ということになる。それから、教室で黒板に板書するとき、赤い色のチョークは使わないのがよい。)

このとき、人間の眼から入った情報がどのように人間は認識することになるのか、考えることにもなる。たとえば、色彩だけを見るということはない。色彩を認識するとき、かならず形も同時に認識している。また、人間の眼は外の世界の一部しか見ることができないが、しかし視覚情報としては全体が見えているように感じる、など。

その延長としては、錯視という現象があることになる。番組は錯覚という用語を使っていたが、心理学の分野では錯視というはずである。錯視も、ひろい意味での錯覚の一部ということになるだろう。

人間にとって、脳のなかで構成される世界、それが視覚であれ聴覚であれ触覚であれ、構築されたもの、いわばバーチャルなものであるというのは、現代においては学問的に普通に理解できることかと考える。

いいかえるならば、脳に人間の根拠を求める考え方ということになる。人間の人間たるゆえんをどこに求めるかとなったとき、現代では、脳に求めるか、あるいは、DNAに求めるか、というところにいたりつくだろう。

では、脳が自己なのか。自己ととは何であるのか、新しい研究領域の発明と、技術の発達で、従来とは異なる発想で考えなければならなくなっていることは確かである。意識というものの中核に位置するのは脳であるだろうが、その脳はDNAの産物でもある。

哲学的な、そして同時に現実的な問題として、人間はどこまで自由意志を持ちうるのかということもある。バーチャル技術によって、自分の意識を改変することが可能であることが、証明されつつあることになる。また、既存の研究として、行動科学や心理学などの分野においても、人間の自由意志とは何かということが問われている。さらには、そもそも人間とは文化的社会的環境のなかで育ち自己を形成していくものであり、それらから完全に自由な人間ははたして有りうるのか、という古くからの問題もある。

人間の能力をバーチャルに拡張する、それを現実に使うことが想定されるのが、昔のSF漫画風にいうならばサイボーグ戦士である。そこまでいかないにしても、戦場において兵士を戦わせるための訓練として、この番組で紹介されていた発想や技術の応用の延長ということは、もうすでに現実のものになっていると認識しておいた方がいいだろう。人間の意識や心をバーチャルな世界でコントロールすることになる。(さらにその延長としては、戦場で心を傷ついた人間をどう癒やすのか、という方向での使い方もある。)

無論、これは、倫理的にどこまで許されるのかという問題をはらむことになり、これについては、今からきちんとした基礎的な考察や研究を積み重ねていく必要がある。科学や技術と人間の倫理、これは常に総合的にかえりみられなくてはならない。

興味深かったのは、バーチャルの技術を使って自分の能力を高めたいか、という質問に対して、学生がノーと言ったことである。おそらく、東京大学の学生を対象としたアンケートだと思うが、東京大学の学生なら、自分の努力で東京大学に入学したのだと思いたい、そう思っている、ということになる。(現実には、教育格差ということばでいわれているように、そのような環境で生まれ育ったという要因があるにはちがいないのであるが。)

人間の意識と身体性という議論、人間は世界をどう認知しているのかということ、人間はほんとうに自由なのかという問い、心とは何かという問題、など、これらの錯綜した、古くからあり、また、非常に現代的でもある議論のなかにわれわれはいるということは確かなことである。

人間の脳がバーチャルに作り出す世界、とはいうものの、それが人によってバラバラということではなく、ある一定の枠のなかにおさまっているのは、何故なのだろうか。人びとに共通しておこるからこそ錯覚、錯視なのである。では、人間がおたがいに共同で構築する文化というものをどう考えることになるのか、考えるべきことはさらに広がっていくにちがいない。

2024年11月1日記

「東海道“五十七次”の旅▼第三夜 ついにゴールの大阪へ!」2024-11-05

2024年11月5日 當山日出夫

ブラタモリ 東海道“五十七次”の旅▼第三夜 ついにゴールの大阪へ!

第三回は、枚方から森口、そしてゴールが高麗橋、ということであった。

江戸時代、この道はどれぐらい利用されていたのだろうか。京都と大坂を結ぶものとしては、淀川の水運が知られている。それに対して、陸路でどれぐらい人が歩き、物資が運ばれていたのか、このことについて歴史学の方ではどのように考えられているのだろうか。

枚方のくらわんか舟のことはよく知られている、と思っている。川にそって宿屋があって宴会をしていた、ということであったが、実際には、女性を相手にする商売もさかんだったにはちがいないと思うが、このところは番組ではスルーしていた。まあ、このあたりのことはいたしかたないだろう。

どうでもいいことだが、ひらパーには行ったことがない。我が家から行くとすると、そう遠くはない。自動車でいけば比較的近いところにある。だが、京阪沿線になるので、電車で行くとなるとちょっと面倒である。

歴史的に面白いかなと思うのは、枚方と門真のあたりの近現代かもしれない。

高麗橋が終点ということだったが、当時の大坂の街の様子については触れることがなかった。橋の街である大坂と、淀川水運の関係については、いろいろと面白いことがあるにちがいない。

2024年11月5日記