「ヴァイオリニスト HIMARI〜13歳の現在地〜」2025-03-22

2025年3月22日 當山日出夫

「ヴァイオリニスト HIMARI〜13歳の現在地〜」

NHKのBSP4Kでの放送。たまたま番組表で見つけて録画しておいて見た。

私は音楽の才はまったくないのだが、番組を見ていて、すごいとしかいいようがない。桁がちがうというが、その桁のちがいかたが、想像をこえている。

番組の作り方としては、これは、芸術の分かる人が作っているな、と感じる。これは、音楽を聴かせるだけではなく、それを映像としてどう見せるか、その総合的な力量がないと作れない。

見ながら、HIMARIの演奏するシーンで、テレビの映像で、その眼を見ていた。これは、芸術家の眼である。一三歳の少女の眼ではない。

それにしても、技術的にも完璧、かつ、音楽的にも完成されている……このような天才(としかいいようがない)のこれからが、どうなるか。まあ、私の生きている間に、どこまで知ることができるか分からないが、どうだろうか。芸術には、円熟ということが言われることが多いが、この才能の将来は、誰にも予想できないかもしれない。

2025年3月21日記

NHKスペシャル「新ジャポニズム 第2集 J-POP“ボカロ”が世界を満たす」2025-03-22

2025年3月22日 當山日出夫

NHKスペシャル 新ジャポニズム 第2集 J-POP“ボカロ”が世界を満たす

初音ミクが世の中に登場したときのことは憶えている。だが、その後、このソフトや技術が、どのように使われるようになっていったかについては、ほとんど知らない。

もっとも興味深かったのは、ボーカロイドの音声を、あえて機械的な要素を残してある、ということである。現在のコンピュータ技術としては、どれだけ人間の音声に近づけるか、という方向で開発が進んでいるはずだが、しかし、ボーカロイドは、それとは逆の方向に向いていることになる。

これは、人間が、機械だから(生身の人間ではないから)ということに、なにがしかの価値を見出していることになる。ここのところは、とても興味深い。

現在では、AIの発達によって、人間と機械(コンピュータ)の違いが無くなるのではないか、シンギュラリティは本当に実現するのか、人間にしかできないことはいったい何なのか……という議論が、さまざまにかまびすしい。この流れのなかにおいて見ると、ボーカロイドの存在と受容、利用は、ちょっと異常にも見える。

人間ではないという要素が残してある、無機質で空っぽだから(と感じるから)、そこに、さまざまな人間の感情を込めることが可能になる。これは、たしかにそうだろうと思う。

だからこそ、その空白に何を感じとるか、感情移入するか、共感するか、これは、人びとのおかれた状況や、文化的背景によってさまざまであるにちがいない。はたして、この空白にこめる中身について、普遍性、共通性を見いだせるだろうか。逆に、容易にことばによって表現出来ないものだからこそ、根深い対立と反感の要因ともなりかねない。こういうことも考えておく必要があるだろう。

そして、これが、これからの世界の人間のさまざまな多様性を受け入れるものになっていくかどうかは、まだ未知数の部分があると思う。

NHKの作った番組だから、こういう場合、必ず登場するといっていいのが、性的マイノリティといわれる人たちである。そして、これを認めないのが、古い旧弊な価値観として、否定される。これは、そのような面があることはたしかなのだが、性にかんする文化の歴史は、まさに多様である。これを、ひとまとめにして、古くて理解がないとしてしまうのは、人間が過去に作りあげてきた、さまざまな性にかんするこれまでの過去の文化を、否定することになる。こういう一面的な描き方には、私は賛成できない。

また、音楽文化というのは、世界に対して開かれ普遍的であるという部分と、地域の生活に根ざしたローカルな性格と、二つの面がある。これを、ただ一方的に、普遍性をもった部分だけを強調して語るのは、文化ということが分かっていないと思うことになる。(極端に言えばであるが、音楽が共通するからといって、それで、世界市民になれるわけではない。)

見る人、聴く人によって、余白を埋める、これが日本文化の伝統のなかにある。これも、たしかなことかとも思うが、だからといって、これが日本の文化のすべてであるわけではない。能楽や、水墨画(松林図屏風)や、枯山水ではない、日本の文化の流れもある。また、こういった場合、日本の文化の普遍性をいいたいのか、あるいは、独自性をいいたいのか、曖昧になっている。また、ここで例示された日本の文化は、ハイカルチャーという領域のものであり、一般庶民のかかわるものではない。それが、どのような経緯で、現在のサブカルチャーの領域と関係するのか、非常に興味深い問題であると同時に、考えるのに難しい課題である。きわめて高度に洗練され、修行の極致で表現される能楽と、あえて機械的な部分を残したボーカロイドを、関連させて考えることは興味深いことではあるが、ある意味では非常に乱暴である。ここのあたりの作り方は、人間の社会と歴史と文化というものに対する、理解の浅さというべきである。(はっきり思うことを書けば、NHKがよくこんな粗雑なシナリオの番組を作ったな、という気持ちである。)

生きづらさを表現したものとしてボーカロイドの音楽が、世界の若者をひきつけていることは確かなのだろうが、だからといって、それで、リアルに世界のさまざまな社会にいる若者たちが、全面的に、全人格的に共感し合えるということではない。そこには、やはり、生まれ育った文化的環境の影響から完全に自由であるということはできないはずである。共感し合えるという幻想をいだくことはできるかもしれないが、それは、幻想にとどまるということも知っておくべきだろう。幻想であっても、そのように共感し合えると感じること(あるいは、思いこむこと)の価値はある。

人間の気持ちは、何か表現することが可能になれば、それを表してみたくなる。だが、その反面、何か形のあるものに表現することができて、それでようやく自分の気持ちに気づく、自分はこんなことを思っていたのだと理解できる、ということもある。そして、重要なことは、それがえてして、非常にバイアスのかかった誤解であるかもしれない危険性をはらんでいることである。人間は、そんなに簡単に自分の意識を表現出来るものではない。表現できたという気持ちになることは可能であるが。このあたりの描き方は、人間の心理や文化そして表現ということについて、理解が浅いというべきだろう。人間の気持ちや心理になにがしかの形をあたえるものが、文化ということの本質であると私は思っている。その形には、文化によって異なっている。一方で、人間として共通する普遍性という部分もあるが。(もちろん、私自身も、この文章を書くことによって、自分の考えていることを確認していることになる。間違っていることを書いているかもしれないが、書くことの意義とは、こういうことである。)

余計なこととして気になるのは、ボーカロイドの音楽が、イスラム文化圏や中国やロシアなどでは、どうなっているのか、ということがある。取材できなかったのか、しなかったのか、どうなのだろうか。

2025年3月18日記

フロンティア「ローマ 知られざる地下世界へ」2025-03-22

2025年3月22日 當山日出夫

フロンティア ローマ 知られざる地下世界へ

ローマというのは、すごいなあ……というのが、見ての率直な感想である。さすが二八〇〇年の間、人が都市として住み続けてきただけのことはある。

掘れば何かが出てくる。それが分かっていても、地下鉄をとおさなければ、近代の都市としての機能をはたせない。それは、ときとして、遺跡の保存と対立することになるかもしれない。だが、その前に、工事をすすめて掘って何が見つかるか、ということが重要である。

下水道とか、二〇〇〇年以上前の、都市インフラを、現在でも使っているというのは、さすがローマである。

文化財の保存科学の最新の技術が使われているようである。こまかく分析すれば、いろんなことが分かってくるにちがいない。

ちょっと気になったこととしては……ローマン・コンクリートのために大理石を加熱した炉の跡が見つかったとあったのだが、さて、このとき何を燃料に使ったのだろうか。木材の一部でも残っているならば、どういう木を燃やしていたのか分かるかもしれない。あるいは、石炭などが使われていたのだろうか。

それにしても、ローマのこういう光景を見ると、日本の平城宮跡に作った大極殿の偽物は、日本の学問の敗北としか感じられない。

2025年3月21日記