日本文学の古典を現代語訳で読むこと ― 2016-09-18
昨日、言及した、池澤夏樹・個人編集『日本文学全集』(河出書房新社)には、いくつかの古典作品も収録されている。
http://www.kawade.co.jp/nihon_bungaku_zenshu/
見ると現代語訳である。たとえば、
『古事記』、池澤夏樹 (新訳)
『万葉集』、折口信夫「口訳万葉集」
『源氏物語』、角田光代(新訳)
『平家物語』、古川日出男(新訳)
『徒然草』、内田樹(新訳)
など、である。まあ、折口信夫の「口訳万葉集」は別格としておいても、他の作品は、新訳、それも、古典文学研究者ではなく、作家が訳している。たしかに、これが、この「全集」の新しさなんだろうとは思う。
もちろん外国語で書かれた外国文学は日本語訳で読む。これが普通である。であるならば、日本の古典文学も現代語訳で読んで悪いということはない。いや、これからは、このような読書、受容・鑑賞のあり方が、むしろ普通になってくるのかもしれない。
私が見た範囲では、Twitterなどでは、評判はいいようである。
これは、これとして別に悪いことではないのだろうと思う。だが、私自身、日本語の歴史的研究の片隅で仕事をしてきたということもあるので、やや複雑な感じがしないでもない。
小学館の「新編日本古典文学全集」、これは校注だけではなく現代語訳もついている。
https://www.shogakukan.co.jp/books/series/A10030
だが、その現代語訳は研究者(日本古典文学)によるものである。研究者として訳すことになるから、どうしても逐語訳になってしまう、と言えるかもしれない。端的に言えば、読んであまり面白くない。それに、あくまでも「原文」が、書籍・組版の中心であって、現代語訳は、欄外の補足的な位置づけでもある。
それにくらべれば、現代の作家の訳した古典文学は、読んで面白いのであろう。実は、私は、この河出書房新社のシリーズ、買って読んでいるというわけではないので、よくわからないのであるが・・・
私個人の趣味からするならば、『源氏物語』の現代語訳は、それはそれとして読んで楽しめばいいのだと思うようになってきている。ただ、こういうことを思う背景としては、原文(校注本)でも十分に読めるという、日本語学研究者としての矜恃のようなものがあってのことである。現代語訳は、あくまでも現代語訳であって、原文ではないという意識がどうしてもある。これは、しかたのないことでもあるとは思う。だが、これを人におしつけようとは思わない。
強いて言ってしまえばであるが、内田樹の訳した『徒然草』を読みたいとは、正直言って思わない。読むのなら、スタンダードなところで、岩波文庫。あるいは、新しい角川文庫版だろう。
小川剛生(訳注).『徒然草』(角川文庫).角川学芸出版.2015
http://www.kadokawa.co.jp/product/201004000516/
なんだか残念な気がしてならない。古典文学の素養があって、しかも、現代文学に通じていて、文章がうまくて……そして、古典の文学作品を現代の読者にわかりやすく提供する、このような仕事が少なくなってしまっているように思えてならない。私の若いころであれば、山本健吉とか、唐木順三とか、読んだりしたものであるが。
ところで、たまたま見つけた大塚ひかりの文章。
大塚ひかり「誰のための現代語訳か」[古典の面白さを伝えたいという立場から]【特集・古典の現代語訳を考える】●リポート笠間59号より公開
http://kasamashoin.jp/2015/12/59_20141130.html
『リポート笠間』は、毎号送ってもらっている。この文章も興味深く読んだ。それが、上記のようにWEBでも読めるようになっている。
古典が現代の読者にとどく、それも、学問的厳密さをある程度保ちながら、しかも、現代のセンスをもって、これは難しいことなのかもしれないが、これからの若い人たちの活躍に期待したいものである。もうこれからは、私自身としては、ひたすら、楽しむ側にまわって読んでいきたいと思っている。
論文のテンプレート ― 2009-08-17
ARGから、楽天の論文募集を見る。
ARG
http://d.hatena.ne.jp/arg/20090816/1250374729
楽天
http://www.rakuten.co.jp/info/release/2009/0716.html
楽天技術研究所、新しいインターネットサービス技術を探求する楽天研究開発シンポジウム2009 開催-発表論文の募集を開始-
ということである。ちょっと気になったので、論文のテンプレートを見てみることにした。
情報処理学会論文誌向けに準拠
ということである。実際に見てみると、これは、研究会報告のテンプレートとはかなり違う。これは、論文誌用のものなのだろう。
個人的に感想を述べれば、このテンプレートで「論文」を書けと、いわれるのは、つらい。たとえば、本文の文字サイズが、8pt。高品質のレーザプリンタでプリントアウトしても、かなりきびしい。字が小さい。しかも、Wordのバージョンが、2003。もうこの秋には、次のWindows7が出て、さらに新しくなろうとしているのに、2003版はないだろうと思う。
Word2003でなければ、TEXということになる。
いろいろ言いたいことはあるが、どうにかならないかと思ってしまう。どうせなら、InDesineでというところまで考えたらどうかとさえも思う。
當山日出夫(とうやまひでお)
絵文字の安岡さんの論文 ― 2009-02-14
このブログを見ているようなひとであれば、既に、知っているであろうが、ねんのため、記しておく。
勉誠出版のメールマガジンPDF版における、家辺勝文さんの論文で引用の、安岡さんの論文は、オンラインで読める。
勉誠出版MM(PDF)
http://www.bensey.co.jp/mm.html
情報管理のバックナンバー
安岡孝一.『ケータイの絵文字と文字コード』
http://johokanri.jp/vol50-02/index.html
ところで、私のケータイは、MOVAなのであるが、さあ、これからどうしようか。我が家では、電波の受信が悪くて、ほとんど使えない状態である。現状では、FOMAは、さらに悪い。
もはや、通信のためではなく、ケータイでは、どう文字(絵文字)が見えるかを、確認するために所有しているに近い状態。
當山日出夫(とうやまひでお)
『思想地図 vol.2』 ― 2008-12-31
2008/12/31 當山日出夫
『思想地図 vol.2-特集:ジェネレーション-』(NHKブックス).東浩紀・北田暁大(編).日本放送出版協会.2008
まず、やはり問いかけたくなるのは、なぜ、「世代(ジェネレーション)」であるのか、ということ。この論集の第1号について、これは、世代ということを意識した希な論集であることを、述べた。
『思想地図』:研究者は自分の年齢を言うべきか ( 2008-05-01)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2008/05/01/3430366
そして、この第2号は、「特集:ジェネレーション」である。一般的に考えて、これが、自然科学などの分野であれば、研究者の年齢と、その業績評価は、あまり関係ないだろう。だが、人文学では、そうもいかない。文化的な事象をあつかうとき、研究者自身の年齢(世代)ということは、かなり重要な問題としてある。特に、「世代」ということを語るとき、自分がどの「世代」に属しているかは、重要な要件である。
そして、今の日本ほど、「世代」という問題が重要視されている時代も、また、希であろう。いわゆる「格差論」をふくめ、ネットワーク論においても、しかりである。この論集の第二特集は「胎動するインフラ・コミュニケーション」。ネットワーク社会についての議論は、「世代」抜きには語れない。
ところで、この論集の白眉というべきは、(もちろん、私の独断であるが)、
濱野智史.「ニコニコ動画の生成力(ジェネレイティビティ)-メタデータが可能にする新たな創造性-」(pp.313-354)
であると、読む。(この論文については、あらためて考えてみたい。)そして、
入江哲朗.「「市民性」と批評のゆくえ-〈まったく新しい日本文学史〉のために-」(pp.417-446)
當山日出夫(とうやまひでお)
学術書出版とDTP(1) ― 2008-11-12
2008/11/12 當山日出夫
昨日は、ARGのオフ会(でもって、立命館のグローバルCOEの火曜セミナーは、さぼってしまった。資料だけはもらってきた。)
オフ会について、いろいろ感想がある。が、ここから論じたいのは、そろそろおひらきにしましょうか、というところで、話題になったこと。
結論的なことを言えば、学術書出版において、フォント埋め込みPDFの完全原稿での出版の是非、をめぐる問題。
今、学術書出版は、マイナスのスパイラルの中にある。本が高い。売れない。買わない。著者(研究者)もあきらめてしまう。出版社も、売れない本を出そうとしない。
では、どうすべきか。
その前に確認しておきたいことがある。それは、「学術書」の出版と、通常の出版(小説・実用書・雑誌、など)とは、同じかどうか、である。
一般的な理解としては、読者が、研究者であり、専門的な内容であるかどうか、ということである、と推測する。これも、確かにある。
だが、私の考えるに、「学術書」が、他の一般の書籍と異なる点は、著者(研究者)が、その内容に、責任を持たなければならない、という、一点である。
これも、たしかに、通常の出版物にもあてはまる。観光ガイドブックに掲載の地図が、まちかっていたら、これは、大問題である。だが、このような一般的な意味とは違って、「学術書」は、書籍にする時点で、一定の「知の完結性」をそなえてしまう。その「知の完結性」について、著者(研究者)は、究極の責任を負うことができる、唯一の存在である。
であるならば、学術書・論文などにおいて、著者(研究者)が、版下(組版)にまで、責任を負える状態であるとき、すすんで、それを引き受けるべきではないだろうか。さらに、それが「文字」についての論集であるならば、その責務は、より重大であると、私は考える。
その他、学術書や図書館、書籍の作成から流通までめぐる問題が多々ある。追って、考えていきたい。
當山日出夫(とうやまひでお)
『ウィキペディア革命』 ― 2008-11-01
2008/11/01 當山日出夫
『ウィキペディアで革命-そこで何が起きているのか?-』.ピエール・アステリーヌ(他)/佐々木勤(訳).木村忠正(解説).岩波書店.2008
原著は、フランス語。本の内容そのものも大いに参考になるが、それと同時に、解説も読む価値がある。解説で、木村忠正は、そのタイトルを、
「ウィキペディアと日本社会-集合知、あるいは新自由主義の文化的考察-」
としている。読んで、私が、付箋をつけたの次の箇所。
>>>>>
学術的コミュニティにおいて、参照文献は、必要な場合には、その文献を第三者が参照し、引用者の記述内容の適否について議論することが前提とされてきた。
(中略)
しかしそれ(=ネット上の情報)は、言及するファイルの内容が固定されていることを前提にしている。
(中略)
つまり、学術論文は、ある時点で凍結され、化石化することにより、学術的情報源とし、引用、参照の対象となり、それをもとに、さらなる学術的議論が発展するのである。
pp.136-137
<<<<<
先にこのブログで触れた、『ウィキペディアで何が起こっているのか』(山本まさき・古田雄介.オーム社)、においても、逆の方向から、同様のことが指定されている。
端的に言えば、「知」の「完結性」と、「完全」なる「知」をもとめての「流動性・可変性」の、逆説的な関係である。
この点をふまえて、考えるならば、少なくとも、教育現場で、学生に、一律にウィキペディアの利用を禁じるのではなく、また、野放しに利用させるのでもなく、このようなネット社会における「知」のあり方そのものを、考えさせることが必要であると、考える。
當山日出夫(とうやまひでお)
学術論文の投稿サイトができるそうだが ― 2008-06-02
2008/06/02 當山日出夫
これも、笠間書院のメールマガジンによる。
笠間書院
Linux Today
http://japan.internet.com/linuxtoday/20080516/5.html
My Open Archive
これは、学術論文の投稿サイト。さっそくここを見てみると、次の論文が投稿されている。
『電子図書館と「館」の希薄化-物理的な、あるいは電子的な』
著者は、min2-fly とある。
笠間書院は、日本語・日本文学関係では、著名な出版社であるが、多くの学術書出版がそうであるように、ほとんど、零細企業といってよい規模である。その笠間書院にとって、あるいは、研究者にとって、このような、論文投稿サイトの出現は、どのような意味があるだろうか。
考えるべきは、研究者の側が、ここに投稿された論文を、業績として評価するかどうか、かもしれない。かりに、査読つき論文であった場合っでも、その著作権は、基本的に著者にある。最近は、機関リポジトリとして、電子化される場合もある。しかし、電子化権を完全に譲渡したとは、いいきれないかもしれない。(このあたり、今後の議論であると思う。)
玉石混交の論文のかたまりになる可能性はあるが、論文というものを、「紙」や「図書館」から、解き放つこころみとして、今後の行く末に注目したい。
また、このようなサイトを紹介している笠間書院メールマガジンの見識も、評価されるべきであると考える。
さらに、これは、デジタル・ヒューマニティーズにとっても、考えねばならない課題である。
當山日出夫(とうやまひでお)
追記
min2-fly
という著者名からすると、おそらく、
『かたつむりは電子図書館の夢をみるか』だろうとおもうが、
「観光する写真家」を読む ― 2008-03-18
「観光する写真家」を読む 2008/03/18 當山日出夫
蒼猴軒日録で紹介されていた『写真空間』(1)特集:「写真家」とは誰か、を手にする。まず、その中で、「観光する写真家」(佐藤守弘)について、いささか。
http://d.hatena.ne.jp/morohiro_s/20080311
始めに断っておくと、私は、写真については、いわゆる「ハイ・アマチュア」と言っていいかなと思う。マニュアル機(フィルムカメラ)としては、ニコンF2・F3と持っているし、デジタルで使用しているのは、オリンパスE-3。
また、昔、高校生のころであるが、角川文庫で出ていた『都名所図絵』をガイドブックにして、京都の街を写してあるいた。(そのころ、使っていたのは、ミノルタSR-T101。)
従って、京都の街の江戸時代からの連続性、また、それを、視覚的にどうとらえるかということについて……今になってみれば、このような問題設定になるが、その当時はそんなこと考えずに写真を、撮っていた。(まだ、写真雑誌として、『カメラ毎日』があった時代のころである。)
そして、今、京都の文化にかかわることがらを、デジタルでどうとりあつかうか……GIS、デジタルアーカイブ、モーションキャプチャ……など、かかわりを持つようになっている。
このような経験・視点から読むと、「観光する写真家」は、非常に面白い。私のこの視点からは、次の指摘が最も重要であると感じる。近代社会が「観光」というものを視覚的に生み出したということを指摘したうえで、佐藤さんは、以下のように記している。
>>>>>
では、なぜ京都という都市がノスタルジックな場所として表象されたのだろうか。(p.49)
京都という都市は、近代国家成立時に、日本の独自性という神話を支えるトポグラフィカルな装置として構想されたものといえよう。ただ、構築されたものは構築されたとたん、その起源は忘却されるのがつねである。京都と過去を結びつけた近代国民国家のイデオロギーもまた目に見えないものになってしまう。(p.50)
<<<<<
京都の文化を、デジタル・ヒューマニティーズ研究の対象として選んだとき、そこに何を表象として見ているのか……いったいどれほどの人が、この点について自覚的であろうだろうか。都市としての連続性があり、また、資料が豊富に存在する、ただ、これだけで「京都」である、ということではないはずである。
京町家の移り変わりをGISやCD・VRで、示すことはできる。時代的には、江戸時代のおわりごろぐらいまでは、さかのぼれるだろう(建築史には詳しくないので、細かいことは分からないのだが)。では、京町家に何を表象として見てとるのか。
おそらくリアルなものとしては、江戸時代(近世・封建社会)における、庶民の暮らし、ということになるのかもしれない。この意味では、『逝きし世の面影』(渡辺京二)に、どこかでつながるかもしれない。いや、これらを、総合的に見る視座の確保こそが課題であろう。
佐藤さんが指摘している、京都を研究対象とすること自体がはらんでいる暗黙の(あるいは、封印された)イデオロギー……これについて、考えていかなければならないと思う次第である。
『写真空間 1』.青弓社編集部(編).青弓社.2008
『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー).渡辺京二.平凡社.2005.(この本のオリジナルは、1998年.葦書房)
當山日出夫(とうやまひでお)
「都市とその表象」(佐藤守弘)を読む ― 2008-02-12
2008/02/12 當山日出夫
佐藤守弘さんから、御紹介いただいた論文をさっそく読んでみる。
佐藤守弘.「都市とその表象-視覚文化としての江戸泥絵-」.『美学』第51巻2号(202号).2000年
http://ci.nii.ac.jp/naid/110003714385/
よみはじめて、最初のページに、
〈日本美術史〉という言説が創造され始めたその時期に、藤岡作太郎が(以下、略)p.37
とある。私は、美術史の方面はまったく素人であるが、「〈日本美術史〉という言説の創造」は、確かに理解できる。だが、その時点から論文を書き始めるということは……「〈国語史〉という言説の創造」について、考えないではないが、(いや、自分なりに考えてきたつもりではいるが)、このような書き方はできない。人文学研究といっても、分野が異なると、かなり流儀も異なるらしい(と、思う。)
なお、藤岡作太郎は、私ぐらいの年代の人間にとっては、かなりなじみがある。『国文学全史 平安朝篇』(平凡社、東洋文庫)は、国文科の学生として、必読書であった。その本文よりも、秋山虔の手になる注釈の方を読むため、である。(いまでも、さがせば、書庫のどこかにあるはずである)。藤岡作太郎は、国文学者であるが、日本美術史の方面の研究者でもあることは、なんとなく知ってはいたが、佐藤さんの論文を読んで、初めて確認したような次第。
日本文学研究・日本語研究と、日本美術史、近いようでいて、へだたりがあるのかと思う。(このあたり、立命館ARCの赤間亮さんなどは、文学・芸能・美術と、多方面にわたる見識の持ち主であるが。)
ところで、佐藤さんの論文にかえって……あるモノやコトについて、生産者がいれば、消費者がいる、これは、普通に考えれば当たり前のことである。しかし、この当たり前のことが、きちんと考えると難しい。
たとえば、ごく身近な例では、食べ物。日本の歴史を通じて、コメという作物(食物)は、どのように生産され、どのように消費されてきたのか、このようなごく日常のことであっても、考えてみるとよくわからない。(この点、先にとりあげた『列島創世記』について不満に思う点の一つでもある。縄文から弥生への転換が、コメの栽培であるとして、このことについて、認知考古学はどう考えるのか、いまひとつはっきりしていない……ように読めた。)
さて、美術や絵画というモノであっても、生産と消費という流れのなかにあることは確かである。佐藤さんの論文は、この視点を再確認させてくれる。
江戸泥絵が、江戸という都市の何を表象しているのか、という問いかけは、泥絵の消費者の側からみて明らかになる。このことを、鮮やかに論じてみせた論文であると、私は読んだ。また、この視点は、浮世絵が、泥絵とは異なる、生産と消費の流れのなかにあったことと対比することによって、より明らかになる。
美術作品にも、その生産と流通のシステムがあって、消費者がいる。しかし、一般に、美術・芸術については、このようなことは意識しない。文学や芸術について、それを「商品」として語ることは、まだ、なじみがないといってよいであろう。だが、文学であっても、それは、書物という商品として流通している。「商品」として見る視点からこそ、見えるものもある。
ちなみに、今、私が読んでいる「商品」は、『愚か者死すべし』(原リョウ、ハヤカワ文庫)。もちろん、単行本で出たとき、すぐに買って読んだ。文庫本になって出ると、また、読んでしまう。ハードボイルドも、また、その消費者あってのものである。
注:原リョウの「リョウ」の字。JISの0208(第1・2水準)にはない。第3水準まで見えるならば、「尞」1-47-60、として見えるはず。
當山日出夫(とうやまひでお)
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