『失われた時を求めて』(2)第一篇「スワン家のほうへⅡ」プルースト/高遠弘美訳2020-08-21

2020-08-21 當山日出夫(とうやまひでお)

失われた時を求めて(2)

プルースト.高遠弘美(訳).『失われた時を求めて』第一部「スワン家のほうへⅡ」(光文社古典新訳文庫).光文社.2011
https://www.kotensinyaku.jp/books/book140/

続きである。
やまもも書斎記 2020年8月15日
『失われた時を求めて』第一篇「スワン家のほうへⅠ」プルースト/高遠弘美訳
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/08/15/9278710

光文社古典新訳文庫版で二冊目である。

収録してあるのは、「スワン家のほうへⅡ」の「第一部 スワンの恋」「第二部 土地の名・名」である。

個人的な好みをいえば、『失われた時を求めて』の訳としては、岩波文庫版(吉川一義訳)、集英社文庫版(鈴木道彦訳)、などよりも、この訳の方が私の好みにはあっている。今、六冊目まで刊行だが、無事に一四冊出るだろうか、ちょっと心配ではあるのだが……

余計なことを考えずにプルーストの世界にひたって読むこと、これにつきるのだろうが、しかし、なかなかそうもいかないところがある。特に、「スワンの恋」で出てくる、サロンとか「高級娼婦(ココット)」とか、これらは、今の二一世紀の日本で読んでいて、今一つ、よくわからないところである。

だが、そのよくわからないところがあるものの、思わずに作品の世界の中に入り込んで読んでしまっているということがある。こういうのを、文学の普遍性というのだろう。一九世紀末を舞台にして、「恋」というものを描いた、すぐれた文学として読むことになる。

それから、ちょっと気になることとしては、「スワンの恋」は、第三人称記述になっている。だが、時々であるが「私」が顔を出すところがある。このあたり、『失われた時を求めて』における「私」の存在とは何なのか、気になってしまう。おそらく、フランス文学研究、プルースト研究の分野では、とっくに議論されつくしているところなのだろうとは思うが。

楽しみとしての読書ということで、「古典」それも「芸術」としての文学の世界で時間をつかいたいと思っている。

2020年7月17日記

追記 2020-08-29
この続きは、
やまもも書斎記 2020年8月29日
『失われた時を求めて』(3)第二篇「花咲く少女たちのかげにⅠ」プルースト/高遠弘美訳
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/08/29/9289860

『この世界の片隅に』(上)こうの史代2020-08-22

2020-08-22 當山日出夫(とうやまひでお)

この世界の片隅に(上)

こうの史代.『この世界の片隅に』(上).双葉社.2008
https://www.futabasha.co.jp/booksdb/book/bookview/978-4-575-94146-3.html

NHKで映画の放送があったので見た。

やまもも書斎記 2020年8月13日
映画『この世界の片隅に』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/08/13/9278085

この本については、以前にも読んでいる。

やまもも書斎記 2016年12月11日
こうの史代『この世界の片隅に』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/12/11/8273353

テレビドラマも見ている。

やまもも書斎記 2018年7月18日
日曜劇場『この世界の片隅に』第一話
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/07/18/8920419

本棚にしまってあった本を取り出してきて、順番に読んでいっている。

原作の漫画を読むのは久しぶりである。読んでみると、主人公のすずの科白が、頭のなかで、のんの声になったり、松本穂香の声になったりする。

久々に再読して思ったことなど書いて見ると、次の二点ぐらいになる。

第一に、すずは小学校しか出ていないということ。

これが、その当時として普通だったのだろう。小学校で、ともだちの中には女学校に行く生徒もいたことが描かれる。しかし、海苔の仕事をしているすずの家では、子どもを女学校にやるということはなかった。小学校を卒業してからは、家の手伝いをしているようだ。そして、突然に縁談がきて、呉にとつぐことになる。

第二に、戦時下での呉のくらし。

上巻は、昭和一九年までである。まだ、空襲がひどくなるまえである。だが、生活は困窮している。食糧も、自由にならない。そんななかで、広島から、いきなり呉の街にやってきたすずの日常が、細やかに描かれる。

なるほど、戦時下の人びとの暮らしはこんなだったのか……これまで、さんざんドラマや映画、また、小説などで描かれてきたところではあるが、こうの史代の漫画で描くそれは、また違った情感がある。日々の日常生活の細やかな描写が、漫画ならではの表現でうまく描写されていると感じる。

以上の二点が、『この世界の片隅に』の上巻を、再読してみて思ったことなどである。

順次、中・下と読んでいきたいと思う。

2020年8月16日記

追記 2020-08-24
この続きは、
やまもも書斎記 2020年8月24日
『この世界の片隅に』(中)こうの史代
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/08/24/9281607

オンライン授業あれこれ(その一七)2020-08-23

2020-08-23 當山日出夫(とうやまひでお)

続きである。
やまもも書斎記 2020年8月22日
オンライン授業あれこれ(その一六)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/08/16/9279025

後期からの授業については、とりあえず教室でという希望を出しておいた。だが、これも、今の情勢では、どうなるかわからない。少なくとも、京都や大阪あたりの状況は、終息に向かっているとは思えない。となれば、あるいは、後期もオンラインか、という気もしなくはない。ここは、学校からの連絡を待っていることにする。

ところで、前期の評価である。レポートの提出を再度チェックしてみたのだが、いろいろ考えて、オンライン授業になってしまったということを配慮することにした。とはいえ、すくなくとも、次の点については、原則的にゆずらない。

レポートの提出は、大学のメールシステムから送信すること。

メールのタイトルは、こちらの指定した形式にしたがうこと。

これらは、きわめて形式的なことである。だが、世の中、形式を守ることをふまえて、その先に内容の評価がある。それに、上記のような、形式を守ることは、そんなにハードルの高いことだろうか。少なくとも、スマホがあればできることである。技術的には、さほど問題ないと思う。要は、学生が、決められた形式を守る意識があるかどうか、ということになる。

そして、このことは、毎回、レポートの課題提示のときに、毎回くどく念をおして確認してきたことである。また、守っていないものについては、再提出を求めてきた。その確認のメールを見ていない、あるいは、それを見て再提出しない学生についてまでは、どうしようもないとしかいいようがない。

少なくとも、オンライン授業ということになっている以上、大学のLMSや電子メールは、毎日確認するのが、基本的な態度というものだろう。これができないということなら、こちらとしても、対応のしようがない。

そして、これらのことは、学生が卒業して就職するとして、その後にも基本的に重要な意味をもつことになるはずである。ある意味では、その最低限のルールを身につけて機会になっている。この最低限のルールを守ることを、なんとかして伝えるようにしたいとは思う。

2020年8月22日記

追記 2020-08-30
この続きは、
やまもも書斎記 2020年8月30日
オンライン授業あれこれ(その一八)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/08/30/9290266

『この世界の片隅に』(中)こうの史代2020-08-24

2020-08-24 當山日出夫(とうやまひでお)

この世界の片隅に(中)

こうの史代.『この世界の片隅に』(中).双葉社.2008
https://www.futabasha.co.jp/booksdb/book/bookview/978-4-575-94179-1.html?c=20108&o=&

続きである。
やまもも書斎記 2020年8月
『この世界の片隅に』(上)こうの史代
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/08/22/9280939

中巻である。昭和一九年から翌二〇年の春までが描かれる。

読んで印象に残るのは次の二点であろうか。

第一に、リンのこと。

街に出たすずは道に迷ってしまう。遊郭のなかに入り込むことになる。そこでリンと出会う。このリンとのことは、すずにとって忘れられない思い出になる。その後、妓楼をおとずれもし、また、春の花見のときにも出会っている。

このあたりのことは、映画では、かなり省略されてしまったところである。が、このリンとのエピソードが、すずの日常の生活に影をおとすことになる。日常生活の毎日のいとなみの愛おしさを描く、この作品において、やや異質なものがはいりこんでくる印象がある。しかし、それだけに、リンとのエピソードは、読んでいて印象に残る。

第二に、哲のこと。

青葉に乗艦していた幼なじみの哲が、すずの家にやってくる。一晩、泊まることになる。そこで、哲とすずは、親しく話しをすることになる。哲は語る……すずが普通に生活していることの大切さを、しみじみと語ることになる。

まさに、この作品は、戦時下という特殊な状況とはいえ、そこでの毎日の「普通」の生活がつづくことの意味を、細やかに描いているといっていいだろう。

以上の二点が、中巻を読んで思ったことなどである。

次は下巻になる。すずの負傷、広島の原爆投下、そして終戦を描くことになる。つづけて読むことにしようと思う。

2020年8月21日記

追記 2020-08-28
この続きは、
やまもも書斎記 2020年8月28日
『この世界の片隅に』(下)こうの史代
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/08/28/9289106

『麒麟がくる』総集編(3)誇り高く2020-08-25

2020-08-25 當山日出夫(とうやまひでお)

総集編の三回目である。長良川の合戦における道三の死から、桶狭間の合戦における信長の勝利までを描いていた。

はっきりいって、総集編という形で再編集して面白くなる場合もあれば、そうでない場合もある。前回、第二回目は、面白く編集してあったと感じた。しかし、三回目になると、ちょっと全体の流れが散漫な感じがしてしまった。

無論、見せ場はいくつもる。いや、いくつもの見せ場があるが故に、どこにポイントをおいているのかが、ぼやけてしまったというべきなのかもしれない。

また、総集編という形で見ると、フィクションとしての登場人物……駒とか菊丸とか……このあたりの登場人物のことが、いまひとつ印象に残らない。これまでの、普通の放送のときは、それなりに興味深い登場人物として出てきていたのだが、総集編になると、影がかすんでしまう。これは、やはり歴史ドラマという枠組みで描くことによるのだろう。そこにいかに現代の目から見た演出が加わっているとしても、史実としてあったことの前には、フィクションははなかく見えることになる。

それから、この総集編の第三回では、「麒麟」ということばが出てきていなかった。そのかわりに出てきていたのが、「おおきな国」という言い方。いずれ、信長から秀吉、さらには、家康によって、「おおきな国」が作られることになるのだろうが、はたして、その世の中は、「麒麟」のくる時代といっていいのだろうか。このあたりが、このドラマの問いかけといっていいのかもしれない。

ともあれ、次回から、本放送が再開である。楽しみに見ることにしよう。

2020年8月24日記

ニワゼキショウ2020-08-26

2020-08-26 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日は花の写真。今日はニワゼキショウである。

前回は、
やまもも書斎記 2020年8月19日
シラン
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/08/19/9280005

あいかわらず暑い日がつづいている。去年の夏も暑かったが、今年の八月なってからの暑さは異常である。八月になってから、雨の降った日が一日ぐらいあっただろうか。

午前中の涼しいうちにカメラを持って外にでようかと思っても、NHKの朝ドラを見終わったときには、すでに三〇℃ちかい気温になっている。ちょっと散歩に出ようという気にもならないでいる。

これも、撮りおきの写真である。ニワゼキショウの花は、かなり花の時期が長いが、この花を見ると、春になったと感じるところがある。家の周囲の空き地や、路傍に見ることができる。観察してみると、花の色や形が、それぞれに微妙に違っていたりする。たぶん、同じニワゼキショウであろうと思って見ている。

今年は咲かないのかと思っていた木槿の花が、見るとつぼみをつけている。この花も、もうじき咲くかもしれない。桔梗の花は終わってしまった。露草も、我が家の敷地のものは、もう終わりというところだろうか。九月になれば、ホトトギスの花が咲くだろうと思って見ているこのごろである。

ニワゼキショウ

ニワゼキショウ

ニワゼキショウ

ニワゼキショウ

ニワゼキショウ

ニワゼキショウ

ニワゼキショウ

Nikon D500
TAMRON SP 90mm F/2.8 Di MACRO 1:1 VC USD
TAMRON SP AF 180mm F/3.5 Di MACRO 1:1

2020年8月25日記

追記 2020-09-02
この続きは、
やまもも書斎記 2020年9月2日
スイカズラ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/09/02/9291360

『エール』あれこれ「響きあう夢」(再放送)2020-08-27

2020-08-27 當山日出夫(とうやまひでお)

『エール』第10週「響きあう夢」
https://www.nhk.or.jp/yell/story/week_10.html

本放送のときのことは、
やまもも書斎記 2020年6月7日
『エール』あれこれ「響きあう夢」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/06/07/9254958

前回は、
やまもも書斎記 2020年8月20日
『エール』あれこれ「東京恋物語」(再放送)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/08/20/9280309

最初の放送を見ていて思ったことでもあるが、「船頭可愛いや」はいい曲だと思う。その後、ドラマの中でもいろいろと歌われ、またNHKの歌番組でも聞いたかと思う。

ところで、ささいなことがちょっと気になったことがある。双浦環が、「船頭可愛いや」をレコーディングするとき、会社の廊下にポスターが張ってあった。そのポスターに、「歌姫」という文字が見えた。さて、戦前のこのころから、「歌姫」ということばが、歌手の意味で用いられていたのだろうか、このあたりのことが気になった。

ともあれ、「船頭可愛いや」が大ヒットになる。一方、音は子どもができて、結局、音楽の道をいったんは中断することになる。音楽学校も辞める。しかし、音は夢を棄てたわけではない。裕一と二人で、音楽の人生を歩もうと決意することになる。

今の時代でも、女性の妊娠、出産ということと、仕事の両立は、様々な問題がある。これは、戦前のころである。今よりも、もっと厳しい状況に置かれていたであろうことは、容易に想像できることである。

しかし、何よりも、音楽をつづける、「椿姫」の舞台に立つことは、音の体調では無理があった。身をひく決意をしたことは、やむを得ないというべきであろうか。が、音楽への夢を捨て去ったということはない。裕一と二人で、新しい音楽の夢へのスタートということになった。

この続きは、福島に舞台が移って、裕一の家族のことになる。再放送も、また楽しみに見ることにしよう。福島を舞台にしての、昌子の副音声解説も楽しみである。

2020年8月25日記

追記 2020-09-03
この続きは、
やまもも書斎記 2020年9月3日
『エール』あれこれ「家族のうた」(再放送)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/09/03/9291702

『この世界の片隅に』(下)こうの史代2020-08-28

2020-08-28 當山日出夫(とうやまひでお)

この世界の片隅に(下)

こうの史代.『この世界の片隅に』(下).双葉社.2008
https://www.futabasha.co.jp/booksdb/book/bookview/978-4-575-94223-1.html?c=20108&o=&

続きである。
やまもも書斎記 2020年8月24日
『この世界の片隅に』(中)こうの史代
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/08/24/9281607

下巻まで読んでくると、一挙にいろんなことが起こる。晴美の死、すずが負傷して右手を失う、広島への原爆投下、終戦、そして、戦後の世の中……いっきにものがたりが進む。

下巻を読んで思うことは次の二点だろうか。

第一には、特にすずの負傷、晴美の死、終戦という流れのなかで、渦巻くことになるどうしようもない複雑な感情。これを、原作の漫画では、実にたくみに表現してあると感じる。あるいは、このあたりは、アニメやTVドラマでは、どうしても表現が難しいところかもしれない。錯綜した感情の交錯を、漫画というメディアでうまく表現してある。

第二には、それでもつづく日常生活。終戦から、戦後の混乱の時期を経ても、毎日の生活があることにはかわらない。そこにすずが、どのような感情をいだくことがあっても、それとは別に日々の生活のいとなみがある。この毎日の生活のこと、普通の生活をつづけていくことを、この漫画は、細やかに描いている。

以上の二点が、原作の漫画の下巻を読んで思うことなどである。

やはり漫画には、漫画の表現がある。無論、アニメやドラマにも、それぞれの良さがある。しかし、原作の漫画に作者が込めた思いは、漫画の各コマを一つ一つ目で追って読んでいくことによってしか、味わうことのできないものだと思う。

例えば、終戦のシーンで、一コマだけで描かれているが、太極旗が登場する。このことの説明は、作者は、特にしていない。しかし、この一コマの意味には、大きなものがある。

この作品は、ごく「普通」の生活をおくった一人の人間が、時代の流れのなかで、自分の「居場所」を確認していくことの意味を問いかけているのだと思う。

また、折りをみて読みかえしてみたい作品の一つである。

2020年8月25日記

『失われた時を求めて』(3)第二篇「花咲く少女たちのかげにⅠ」プルースト/高遠弘美訳2020-08-29

2020-08-29 當山日出夫(とうやまひでお)

失われた時を求めて(3)

プルースト.高遠弘美(訳).『失われた時を求めて』第二篇「花咲く少女たちのかげにⅠ」(光文社古典新訳文庫).光文社.2013
https://www.kotensinyaku.jp/books/book165/

続きである。
やまもも書斎記 
『失われた時を求めて』(2)第一篇「スワン家のほうへⅡ」プルースト/高遠弘美訳
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/08/21/9280633

光文社古典新訳文庫版で三冊目である。

収録してあるのは、第二篇「花咲く少女たちのかげに」の「第一部 スワン夫人のまわりで」である。

高遠弘美訳で読んでいるのだが、相反する二つの気持ちがある。

第一には、この作品を読むと、ふとその作品世界の中にはいりこんでしまう、これこそ文学を読む時間の芳醇さといっていいだろう、そんなゆったりとした時間の流れを感じる。

第二には、そうはいっても、今一つ、その小説の世界のなかにはいっていけない、ある種のもどかしさのようなものも感じる。

二つの思いが交錯しながら読んだ。

これは、一九世紀末のパリの、社交界……というよりも、高級娼婦(ココット)であり、サロンの世界に、なじみがないせいだろう。これがどういうものなのか、はっきりしないもどかしさのようなものを感じてしまうことになる。

それから、この小説は、一九世紀リアリズムの小説ではなく、そこから一歩進んだところで書かれている。主人公「私」の意識を見ている、メタレベルの「作者」の視点がある。このあたりのところが、この作品の魅力の本質でもあるし、同時に、とりつきにくさでもある。

このようなことは、訳者も思っているのだろう。この三冊目の読書ガイドは、ほとんど、高級娼婦(ココット)とサロンの説明についやしてある。

まあ、別にこのあたりのことは、分からなくてもいいことなのかもしれないとは思う。今の日本で、平安の昔の『源氏物語』を読むとしても、その宮廷の様子など、解説されても、はっきりいってあまりよくわからないというのが、本当のとこでもある。しかし、読んでいくと、文学としての芸術の普遍性を感じる。『失われた時を求めて』も、そのように読めればいいのかもしれない。この本の読書に求めるべきは、芸術としての普遍性である。

それは、まさに、意識についての意識のながれを延々と書き綴っていくなかに、その叙述の時間のなかにしか存在しないある種の文学的感銘としかいいようがない。

続けて四冊目を読むことにしたい。

2020年7月26日記

追記 2020-09-05
この続きは、
やまもも書斎記 2020年9月5日
『失われた時を求めて』(4)第二篇「花咲く少女たちのかげにⅡ」プルースト/高遠弘美訳
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/09/05/9292290

オンライン授業あれこれ(その一八)2020-08-30

2020-08-30 當山日出夫(とうやまひでお)

続きである。
やまもも書斎記 2020年8月23日
オンライン授業あれこれ(その一七)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/08/23/9281248

採点が終わった。その結果、得点分布としては、例年とさほど変わらない結果になった。

急にオンライン授業になってしまったということは、いくぶんは配慮することにした。電子メールの使い方にも、慣れていないだろうということも考えることにした。

ただ、そうはいっても、電子メールの提出が、大学のシステムのメールでなければならない、ということだけは、基本的にゆずらないことにした。宛先は、大学の私のメールアカウントを指定しておいた。そこで、各学生のアカウントから送信したものを受け付けるということにした。

これは、最初、四月の段階で方針を決めたときから、一貫している。理由は、二つある。

第一には、メールアカウントが身分証明であることである。大学の提供しているアカウントが使えることが、その大学の学生としての身分証明になる。このことを、基本のルールとして徹底させる必用があると思った。

第二は、整理の都合である。大学のアカウントを使うと、学生証番号が、そのままアカウントに表示される。これを、発信者名で整理すれば、レポートの提出の有無が一目瞭然である。バラバラのアカウントから送信されたものでは、とても整理しきれない。

以上の二つの理由を総合的に考えて、大学のアカウントからのレポート提出のみを受け付けることにした。

あるいは、これは、ひょっとするとちょっと厳しい対応であったかもしれない。しかし、大学のメールシステムであれば、PCはもちろんのこと、スマホからでも、十分にあつかうことができる。もし、PCを持っていないということであっても、特段に不利になることはなかったはずである。

こちらからの発信をLMSで受信して見ることができるなら、それほど高いハードルにはなっていないはずである。強いていうならば、そもそも、LMSを見ることができていない学生まで、相手にしてはいられないというのが、実情でもある。

ともあれ、結果的には、だいたい例年どおりの成績になった。普通に授業があったとしても、出席もしなければ、試験も受けないという学生が少なからず存在する。そのような学生までも、相手にはしていられないというのが、実際のところである。なんとか、試験をうける、あるいは、レポートを提出するということをはたしてくれるならば、どうにか対応を考えることもできる。

後期の授業がどうなるかわからない。もしオンライン授業が継続するとなった場合、前期と同様に四回程度のレポート(A4で一枚、1000字程度)の提出ということにするつもりである。それと、毎回のコメント(これは短いものにする)を、集めることにする。

しかし、前期がオンライン授業になって、その是非をめぐって、世間ではいろいろといわれているのだが、学生のPC利用の普及・向上、通信環境の整備、ということが各段に進んでいるという話しは、伝わってこない。いったいどうなているのだろうか。自分用のPCがあり、固定光回線などにつながっているという状況が、まだ実現していないようなら、やはりそれなりに配慮した対応を考えることにならざるをえないと思うのである。

2020年8月29日記

追記 2020-09-07
この続きは、
やまもも書斎記 2020年9月7日
オンライン授業あれこれ(その一九)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/09/07/9293018