ドキュランドへようこそ「“執事”の学校 〜超一流のサービスを〜」2023-04-11

2023年4月11日 當山日出夫

ドキュランドへようこそ “執事”の学校 〜超一流のサービスを〜

NHKのEテレの放送。録画しておいて朝にゆっくりと見た。

これは面白かった。二〇二一年のフランスの製作。

何よりも、二一世紀の今日になって、「執事」という職業があることに驚いた。「執事」などというと、昔の推理小説のなかでしか出てきていないと思う。せいぜい、近年話題になったところでは、カズオ・イシグロの『日の名残り』の主人公として出てきたのを記憶しているぐらいである。これは、イギリスが舞台の小説。

その訓練のための専門学校があるというのも驚き。

また、「執事」を雇うような、富裕層がいるという。これはまあ、昨今の世界情勢からして、そういう生活をおくりたいと思っている人びとがいても不思議ではない。富裕層向けの高級ホテルのサービスにも、執事の職能が生かされることになる。なるほど、世界にはこんな世界があるのかと、とても興味深かった。(私には縁の無い世界のことと感じるが。)

こういうのを見ると、日本の「おもてなし」とはいったいなんであるのか、ちょっと考えてしまう。少なくとも、日本の専売特許ということではない。(このようなプロの接客について見たのは、テレビでは、以前に放送していた、京都迎賓館のことを思い出すぐらいである。)

ヨーロッパでは「城」というものが、まだ現役で使われていること、そして、そこに生活し、仕事をしている人がいるというのも、興味深かった。

ただ、私個人としては、執事になりたいとは思わないし、それよりも、執事を使うような生活を送りたいとは思わない。今のままの気楽な生活で十分に満足である。

二一世紀の新たな階級社会を象徴するものが「執事」のあり方かもしれない。あるいは、この番組で描いたような「執事」の需要と供給のあるのが、現代の世界であると言ってもいいだろう。

2023年4月8日記

2023-04-12

2023年4月12日 當山日出夫

水曜日は写真の日。今日は桜である。

これは先月のうちに写しておいたものである。今年は桜の咲くのが早かった。我が家の桜はもう散ってしまっている。

毎年、桜の花を写している。桜の花の咲きはじめるころになると、朝起きて、夜があけはじめるころにカメラと三脚を持って出る。桜の木を写す。これを、咲き始めから散り始めのころまで、一週間ほど毎朝続ける。

桜の花の写真というのは、どれもにたりよったりである。特に際立った写真を撮ろうとは思っていない。桜の花は月並みに写しておくのがいい。その平凡さが、桜の花にはふさわしいと思う。来年も同じように桜の花の写真を撮れたらと思っている。

桜

桜

桜

桜

Nikon D500
AF-P DX NIKKOR 70-300mm f/4.5-6.3G ED VR

2023年4月11日記

映像の世紀バタフライエフェクト「満州帝国 実験国家の夢と幻」2023-04-13

2023年4月13日 當山日出夫

映像の世紀バタフライエフェクト 満州帝国 実験国家の夢と幻

満州については、これまで「映像の世紀」シリーズで幾度か扱われてきていると思うが、これは見応えがあった。(やはり年度が替わって番組をリニューアルしたと感じるところがある。「映像の世紀」の原点に返ったと思う。)

満州、満洲国については、小説などで取り上げられることもある。近いところでは、この前の直木賞『地図と拳』がある。また、浅田次郎があつかってもいる。だが、満州ということになると、小説よりも、「映像の世紀」の方が面白い。面白いというのはちょっと違うかなとも思う。事実は小説よりも奇なりというが、小説に描かれる幾多の物語よりも、映像資料の方が圧倒的に迫力があるのである。

満州国皇帝溥儀の映像のいくつかは、何よりも満洲国の本質を示すように思える。

ただ、溥儀はその晩年は中国にあった。思想教育をうけて改心したということにはなっているのだが、はたして本当のところはどうだったのだろうか。このようなこともふと思ってみたくなる。

満州国は実験国家だった。それを象徴するのが、今も残る街路であり、また、あじあ号であったということになるのだろう。満州は未完であるというのが、正直な感想である。実験国家がその後つくりだしたものが、日本の高度経済成長であり、新幹線なのかもしれない。あるいは、今の、中国という国家資本主義の国のあり方も、ある意味では満州の影響下にあると言ってもいいのではないだろうか。(今の中国のことと、満洲国とを関連付ける議論はあまり無いようにも思うが、これは、私の読むものの範囲に入ってこないだけのことだろうか。)

鮎川義介が登場していた。「映像の世紀」シリーズはほとんど見ているはずだが、出てくるのは初めてかもしれない。日産もまた、満州国の残滓であるといえようか。

ところで、出てこなかったのが建国大学。これもまた実験国家ならではのものだと思う。映像資料が残っていないのだろうか。

2023年4月11日記

ザ・バックヤード「黎明館」2023-04-14

2023年4月14日 當山日出夫

ザ・バックヤード 黎明館

鹿児島には、昔行ったことがある。たしか、国語学会のときだったかと思う。その時、黎明館にも行った。その時に感じたこととしては、新しいコンセプトの博物館だなと思ったのを覚えている。今から、何十年も前の話になるが。

歴史のみならず、民族、美術、自然史と総合的な博物館である。(近年ではこのような博物館も増えてきたかと思う。例えば、琵琶湖博物館などそうかもしれない。)

鹿児島で記憶に残っているのは、やはり城山。朝早い時間に歩いて行ってみたのだが、西郷隆盛にかかわる遺跡はきれいに掃除して花がたむけてあった。たぶん、有志のひとがやっているのだろうが、これは心にのこる。

ところで、番組であるが、印象的なのは、資料の収集を今でも続けていること。史料を刊行して、それを関係先に、無償で配布しているという。なかなかこれは出来ることではない。自分たちの土地の歴史をどう語り継ぐか、人びとの協力があってできることである。これは、是非とも続けてもらいたい。

それから、貴重だと思ったのが、民俗資料の調査カード。この実物がきちんと保存されていること。これは、非常に重要なことだと感じる。(たぶん、将来的には、調査カードのデジタル化保存ということも課題になってくるだろうとは思うが。)

これから先、もし鹿児島に行くことがあったら、再び訪れてみたいところである。

2023年4月13日記

『ネット右翼になった父』鈴木大介/講談社現代新書2023-04-15

2023年4月15日 當山日出夫

ネット右翼になった父

鈴木大介.『ネット右翼になった父』(講談社現代新書).講談社.2023
https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000374265

面白かった。一気に読んだ。

さて、もし私が死んだ後にネット関係の履歴が残ったとして、残った人たちはどう思うだろうか、とふとそんなことを考えてしまった。今の私のTwitterのタイムラインでは、右翼的発言もあるが、左翼的な発言も同じようにある。私としてはバランスをとっているつもりではいるのだが、傍目に見れば、支離滅裂と言うことになるかもしれない。(そして、私としては、どちらもそんなに信用して見ているわけではない。)

ところで、この本は、家族の物語である。死んだ父親の残したものをどう考えるか、家族の関係を、様々な資料、証言を探しながら再構築していく筋書きになっている。まさに、これは現代の家族の物語であると感じるところがある。

私の読んで感じたこととしては、ネットの閲覧履歴、ブックマークなどから、どれほどその人間の考えていたことが分かるものだろうか、ということがある。それから、いわゆる「ネット右翼」なるものが果たしてどれほど実在するものなのか、考えるところがある。(これは、逆に左翼的な立場についても言えることだろうと思うが。)

亡くなった人間のネット利用履歴から、その人間の人となりを考えてみる、これは、まさに現代的な課題としてあることだと思う。

2023年4月3日記

『らんまん』あれこれ「キンセイラン」2023-04-16

2023年4月16日 當山日出夫

『らんまん』第2週「キンセイラン」

この週まで描いていたのは、万太郎の子供のときのこと。思うことを書いてみるならば、次のことがある。

万太郎のまわりにはいろんな壁がある。武士と町人。本家と分家。峯屋の人びとのなかにある様々な格差、使用人と当主ということなど。それから、男性と女性。これらの壁を万太郎は、素直に受け入れているところもあるが、また、反発するところもある。特に、時代が明治になって新しい時代になってからは、それまでの封建的な身分関係が崩壊することになる。だが、依然として、旧来の格差は残る。(そのなかにあって、裕福な町人の出身ということは、プラスに働いたことだろう。)

これから万太郎が、東京に出て植物学の道を歩むとして、そこでも様々な壁があることだろう。帝国大学のアカデミズムの壁は、そう容易に乗り越えられるものではない。が、最終的に万太郎はそこを乗り越えて大きな業績を残すことになるのだが。

強いてやや古風なことばを使ってみるならば、プチブルの万太郎は自らが階級的矛盾のなかにある、それをどう自覚するか克服するかという課題になる。

また、万太郎は語学の才がある。明治初期の学問である。江戸時代からの本草学の流れと、西洋からの近代科学を融合させたところに、おそらくは万太郎の学問はある。古文、漢文が読めるの当然として、西洋の言語についても知らないといけない。ラテン語も必須になるだろう。

それから、万太郎の植物を見る感覚。それは、単なる図鑑的な知識だけではない。目で見て、手でさわって、場合によっては味を確かめてみる。このことを、蘭光先生から学ぶことになった。

後年の植物学者としての万太郎にとって、必要となる資質は、子供ときから備わっており、また、身につけてきたということになるだろう。

次週以降、成長した万太郎になる。楽しみに見ることにしよう。

2023年4月15日記

ドキュメント72時間「岡山 24時間営業のドライブイン」2023-04-17

2023年4月17日 當山日出夫

ドキュメント72時間 岡山 24時間営業のドライブイン

ドライブインには、ほとんど立ち寄ったことがない。たまに遠くに自動車で出かけることがあっても、ほとんど高速道路である。SA、PAには休憩で行くことはあるが、その程度である。

なるほど、ドライブイン、あるいは、運送業の世界も、時代の流れとともにあるということを感じる。今言われているのは、運送業の改革。近い将来、規制が厳しくなるらしい。(まあ、世の中全体として見れば、働く人の労働環境を良くしていくという意味では、いいことにはちがいないのだろう。)

それにしても、いろんな人が集まるものである。興味がつきない。長距離のトラック運転手はもちろんのこと、マイクロバスでやってくる家族、バイクでツーリングの高齢者たち、パティシエを辞めてトラック運転手になった女性、家族が老人介護施設に入ってしまった老人……まさにいろんな人がやってくる。この時代の日本のある一面を切り取って見せてくれているという印象があった。

また、SNSの発達で、トラック運転手の世界にも新しいコミュニケーションの世界が出来上がっていることも、興味深い。

それにしても、出てくる料理の量が多い。とても今の私では食べきれないなと思って見ていた。

2023年4月15日記

『どうする家康』あれこれ「金ヶ崎でどうする!」2023-04-18

2023年4月18日 當山日出夫

『どうする家康』第14回「金ヶ崎でどうする!」

この回で描いていたことで印象に残るのは、義と諫言ということかもしれない。

信長は、家康の言うことを受け入れようとしない。ある意味では自信過剰、そして、周囲にはイエスマンしかいない状況である。天下を統一するという理想はいいかもしれないが、しかし、それは自分が支配者になることでもある。そのような信長にとって、自分の配下、あるいは下の地位にあるもの……信長から見れば家康は臣下も同然であるように見える……の諫言をどう受け入れるか、あるいは、そのような臣下がいるかどうか、このあたりが、最終的に天下をとるのが誰であるのか、ということのポイントになるように思われる。

そして、信長には義が無い。天下を統一するということだが、そこに義があるかどうか。通俗的な理解では、このあたりのことをめぐって明智光秀と対立するということなのかなとは思うが、さて、このドラマではどう描くであろうか。

このドラマにおいて家康はヒーローでも、傑出したリーダーということでもない。ただ、家臣団にはめぐまれている。そして、家康は家臣団の気持ちにはこたえる資質を持っている。このドラマは、家康の徳川家臣団の物語として見るべきなのかもしれない。

2023年4月17日記

木瓜2023-04-19

2023年4月19日 當山日出夫

水曜日なので写真の日。今日は木瓜である。

もうこの花の時期は終わってしまっている。先月に写しておいたものである。

例年、梅の花が咲いて、桜が咲くその前あたりの時期に花を咲かせる。そう大きくはないが、かなりの老木である。しかし、毎年、春のはじめごろになると赤い花を咲かせる。この花は、冬の寒いうちに、冬芽のときから時々見ることにしている。まるい木瓜の冬芽を見ていると、まだ寒いが春が近づいていることを感じさせる。

今は、山桜が咲いている。山吹も花をつけている。今年は、カリンの花の咲くのを撮りそこねてしまった。ちょっと腰がいたくて出るのを三日ほどひかえていたのだが、その間に雨が強く降って散ってしまった。我が家から少し歩いたところにある。今朝、見に行ったら花が終わってしまっていた。残念である。今年は、どの花も例年よりも咲くのが早いような気がする。藤の花の咲くのも、いつもの年よりも早いように思う。

木瓜

木瓜

木瓜

木瓜

Nikon D500
TAMRON SP 90mm F/2.8 Di MACRO 1:1 VC USD

2023年4月18日記

映像の世紀バタフライエフェクト「ベルリン 戦後ゼロ年」2023-04-20

2023年4月20日 當山日出夫

映像の世紀バタフライエフェクト「ベルリン 戦後ゼロ年」

これは面白かった。これまで、第二次世界大戦のころの映像資料というと、番組の編成で使い回していることが多かったが、この回は、ほとんどが新資料によるものだと思われる。これまでの「映像の世紀」シリーズはほとんど見ているのだが、これは新たな視点から、新たな資料を見せていたと思う。(このシリーズ、四月になってからのものは、リニューアルしたのだろう、すぐれた力作ぞろいである。)

敗戦後まもなくのドイツでいったい何があったのか。ソ連軍をはじめとする占領軍は何をしたのか。混乱の中での略奪や強姦。これは、今まであまり描かれてこなかったことである。

また、敗戦後、ヨーロッパの各地でドイツ人はどのような状況にあったのか。敗戦国民としてどうあつかわれたのか。そこであった大量虐殺は、この放送で始めて知ったことになる。

なるほど、戦争に負けるとはこのようなことなのか、とつくづく感じながら見ていた。

第二次世界大戦のとき、ヨーロッパの戦場でいったい何があったのか。独ソ戦をふくめて、これからさらに資料を発掘していくことになるのかと思う。ただ、ヒトラーを悪とし、連合国側(ソ連をふくめて)を、正義とする歴史観では、これからの、新たな時代の歴史を語ることはできないだろう。

歴史とは、人びとの記憶であり物語である。このような側面がある。この意味で、第二次世界大戦の歴史と記憶、それをどのような物語として語っていくか、あらたな段階になっていると思う。二一世紀は、これまでの二〇世紀の物語は通用しない、新しい時代になってきていることを強く感じる。

これは、日本についてもいえることだろう。日本の場合、敗戦後、アメリカに占領されたのだが、ドイツのような悲惨な状況ではなかったように思える。これは、はたして実際はどうだったろうか。新たな視点からの考察が求められる時代になってきているといっていいだろう。

戦後のドイツを描いてはいたが、その底流には、現代の日本の姿、それがよってたつ歴史がなんであるかについての批判的な視点があったと思う。

2023年4月18日記