100分de名著forユース (1)学び続けることの意味 シュリーマン「古代への情熱」2024-03-07

2024年3月7日 當山日出夫

100分de名著forユース (1) 学び続けることの意味 シュリーマン「古代への情熱」

『古代への情熱』は昔読んだ。しかし、昔すぎていつのことだったかまったく憶えていない。

かろうじて憶えていることは、シュリーマンは語学の才があったということ。それから、結果的にはということになるが、自分で自分のパトロンをやった人物、このように感じたのは憶えている。とにかく商才があり金儲けをした。その財産を考古学のためにつかった。まあ、確かに自分の夢にむかってつきすすんだ人生であるとはいえる。

今の若い人たちはどう読むだろうか。ひたすら夢の実現に向かっていく姿として見るだろうか、あるいは、その夢を実現するための計画を着実に実行する(財産をきずく)という面から見ることになるだろうか。少なくとも、夢にあこがれるだけではなく、それを実現するにはどうすればいいかという判断と実行力もあることになる。

ただ、ホメロスの詩をギリシャ語で朗唱することの意味、その身体感覚から得るもの、というあたりは確かにそのとおりかなと思う。

2024年3月5日記

「舟を編む ~私、辞書つくります~」(3)2024-03-07

2024年3月7日 當山日出夫

舟を編む ~私、辞書つくります~ 第三回

水木しげるを読んだのは、「ゲゲゲの鬼太郎」からである。小学校のときに雑誌連載をリアルタイムで読んだのを憶えている。一番新しい本としては、中公文庫版である。しかし、読もうと思って買ってはみたが、文庫本に作ってあるので、文字が小さすぎて読むのがつらい。断念した。せめて、もう一回り大きなサイズの本で出してくれないものだろうか。ドラマで映っていたのは、古いちくま文庫版であった。

「手のひらを太陽に」は、やなせたかしの作詞である。次の次の次の朝ドラ『あんぱん』で、この曲が出てくるだろうかと、今から楽しみにしている。

今の時代の辞書として、水木しげるとかやなせたかしとか、このような項目を辞書(中型)に載せる必要があるのか、微妙な問題があるかもしれない。これから、もし、新規の辞書の企画をたてるとしたら、どうなるだろうか。

百科項目については、パソコンかスマホがあれば簡単に調べがつく。それが、どこまで正しいかどうかは疑問が残るにせよ。ただ、確定したことばの入り口としての辞書の語釈という観点からは、あってもいいようには思う。

これまでのドラマを見ていると、どうやらジャパンナレッジは出てきていない。今、紙の本の日本国語大辞典をひく人はどれほどいるだろうか。まあ、私も持ってはいるが、実際に見るのは圧倒的にジャパンナレッジになってしまっている。

それから、これは個人的な趣味の問題かもしれないのだが……私は、辞書を買ってそれを日常的に使うものとしたときには、まずケース(箱)とカバーを棄てる。辞書を引くのにいちいち箱から出しているのは、手間である。紙やビニール製のカバーがついているのも、扱いにくいのですぐに外して棄てることにしている。(ただ、保存のために買っておくという辞書の場合は残してあるが。)

馬締は学会に出張しても、すぐに帰ってきた。懇親会には出なかったようである。学会に出て、懇親会などで(さらにはそれが終わってから)、いろんな人とざっくばらんに話しをするのも、その楽しみであり、学会の意義の一つだと思う。まあ、これは、私などの世代の古風な考え方かと思う。(このドラマでの辞書の完成予定である二〇二〇年は、COVID-19のために、学会などほとんど中止かオンラインになった。懇親会もなくなった。これも時代の流れである。)

漱石の「こころ」のことが出てきていた。この作品は、何回か読んでいる。数年おきに漱石の主な作品は読み返すことにしている。「こころ」であるが、国語学、日本語学としてあつかうには注意が必要である。この作品は、大正三年の朝日新聞に連載の作品である。「三四郞」もそうであるのだが、明治の終わりから大正のはじめごろ、今から一〇〇年以上も前の作品のことばを、現代語の用例としてあつかっていいのだろうか、ということがある。無論、その作品のことばは平易であり現代の我々が読んですぐ理解できる。だからといって、一〇〇年以上も前の文献のことばを、今の日本語の用例としてあつかうには、細心の注意と手続きが必要である。長々しくなるのでこれ以上は書かない。学生に話しをするとなると一時間ぐらい話しをすることになる話題である。

2024年3月5日記

映像の世紀バタフライエフェクト「イスラエル」2024-03-07

2024年3月7日 當山日出夫

映像の世紀バタフライエフェクト イスラエル

イスラエルのことは、これまでの「映像の世紀」シリーズで何度となく出てきている。この回は、イスラエルの建国と今に焦点をあてたものであった。特に資料として目新しいものは無かった。強いていえばネタニヤフ首相と兄の若いときの姿だろうか。

もともとこの土地は自分たちのものだった……この論理を言い出すときりがない。パレスチナよりの立場からは、イスラエルが強奪者に見える。一方、イスラエルの側にもそれなりの理由がある。また、この土地が、古代からどのような国によって統治されてきたのかを連ねるならば、はてしない議論になる。

現実的な落とし所としては、イスラエルとパレスチナとの共存ということしかないと思うのだが、その実現は難しかもしれない。ただ、なぜイスラエルがかたくなに攻撃的なのかというあたりのことは、その建国の経緯をたどるとなんとなく理解できるようには思う。これをネタニヤフ個人の考え方でとらえることは無理があるよういも思える。

限られた時間の番組だからしかたないのかもしれないが、アラファトのその後、それから、ハマスがなぜ武装組織になっていったのか、このようなことについても触れてあるとよかったとは思う。

2024年3月5日記

2024-03-07

2024年3月7日 當山日出夫

以前は水曜日ごとに花の写真を掲載していた。それは、たまたま水曜日が学校に行って教える日でもあったからである。それもこの年度で終わることにした。もう受業のために出かけることはない。だから、特に水曜日と限ることなく、適宜、花の写真を掲載していこうかと思う。

梅である。我が家にいくつかの梅の木があるが、そのうち比較的早くに花を咲かせる。八重の紅梅である。かなりの老木なのだが、春になると律儀に花を咲かせる。今、五分咲きといったところだろうか。





Nikon D500
SIGMA APO MACRO 150mm F/2.8 EX DG OS HSM