『光る君へ』「思いの果て」2024-03-25

2024年3月25日 當山日出夫

『光る君へ』第12回「思いの果て」

平安時代の貴族の婚姻制度がどのようなものであったか、どうにも分かりにくい。男性が女性のもとに通う、通い婚という形態でありつつ、家は男系によって受け継がれていく。男性にしてみれば、嫡妻の他に妾を多く持つことができた。このあたりが、現在の婚姻制度とかなり違うところがあるので、今ひとつ理解できないところがある。

このような時代的背景をもとに、『源氏物語』では光源氏が多くの女生と関係をもちながらも、それぞれを大事にあつかうという「いろごのみ」を実践した理想的な男性ということになるのだろう。

ドラマの始まりは、まひろの父の為時の妾(といっていいのだろうが)なつめの死からであった。臨終にのぞんで出家するのはいいとしても、死ぬところまでその場にいるというのは、どうなのだろうかと思う。平安朝貴族にとって死は忌むべきものであったと思うのだが、このあたりの描き方は、現代の人間の感覚に近いものとし作ってあるようである。

『源氏物語』などを読んだ知識では、平安貴族は、女性はそう簡単に男性に顔を見せることはなかった、と理解しているのだが、このドラマでは、かなり簡単に顔を見せている。ドラマの演出上、顔を隠してばかりではうまくいかないということもあるのだろうと思う。

この回でも、猫の小麻呂が出てきていた。倫子は、猫が大好きであるが、その猫よりも道長の方が好きであったらしい。

まひろと道長はこれからどういう関係になるのだろうか。まひろは道長の妾になることを拒否する。ただ、この先のこととしては、まひろは道長の娘の彰子の女房となるはずだが、この立場であると道長と関係があってもおかしくはないということだろうと理解しているのだが、はたしてどうなることかと思っている。

2024年3月24日記

浦沢直樹の漫勉neo「水木しげる」2024-03-25

2024年3月25日 當山日出夫

浦沢直樹の漫勉neo 水木しげる

たまたま番組表を見ていて気がついたので録画しておいて見た。

「鬼太郎」は、子どものころ「少年マガジン」で連載が始まったのを読んだと記憶している。そのときのタイトルは「墓場の鬼太郎」であった。それが後に「ゲゲゲの鬼太郎」に変更になった。

初期の漫画雑誌版の「鬼太郎」はリアルタイムの読者だったことになる。しかし、貸本マンガの「墓場鬼太郎」は読んでいない。私の世代だろ、かろうじて貸本屋という存在が記憶のなかにあるのだが、自分で漫画を読むようになったころは、漫画雑誌の時代になっていた。(ちなみに、「サイボーグ009」なども雑誌連載で読んだ世代ということになる。)

テレビアニメも見た。しかし、徐々につまらなくなって見るのを止めた。それは、いつのまにか、鬼太郎が正義のために戦うヒーローになってしまっていったからである。そこに「鬼太郎」の持っていた、どこか人間の世界を斜めに見ているような視点が欠落していくのを感じたのである。言いかえるならば、「鬼太郎」の面白さは、単なる勧善懲悪の物語ではない、ということになる。

番組では、「鬼太郎」の作画の謎のいくつかについて説明があった。なるほどと思うところが多くある。鬼太郎の髪の毛の描き方とか、草むらの描写、ベタの使い方、たしかに「鬼太郎」の絵の魅力は、こういうところにある。

ベタの使い方が、アメコミの影響であるという指摘は面白かった。

写真を撮って、それをもとに背景だけを描いてストックしてあった。使われないままになってしまったものもある。

水木しげるは、Gペンを使って描いたという。Gペンは、私も使った経験がある。漫画を描いたりはしなかった。普通に文字を書くためである。近所の小学校の近くの文房具屋さんで、普通に売っていた時代である。

そのGペンでなければ欠けない、点描であったことになる。

「鬼太郎」の魅力は、その絵やキャラクター、妖怪たちにあるのは無論であるが、どこか世をすねたような視点で見ている、ニヒルな雰囲気にあったかと、今になって思うところがある。その意味では、少年漫画で、よくこのような作品を描いたものだと思う。「鬼太郎」においては、ねずみ男の存在が意味のあるものであることが分かる。

今、「鬼太郎」を読もうと思うと、中公文庫版ということになる。買ってはみたのだが、文庫版に作ってあるので、字が小さすぎて老眼の身にはつらい。読むのをあきらめた。どこか、昔の「少年マガジン」の大きさで刊行してくれないものかと思う。漫画にとって、どの大きさの本で読むかというのは、とても重要なことだと感じる。

2024年3月21日記