『おむすび』「おむすび、みんなを結ぶ」 ― 2025-03-30
2025年3月30日 當山日出夫
『おむすび』「おむすび、みんなを結ぶ」
最後まで見たのだが、結局、このドラマは心にひびくものが何もなかった。人間というのはこういうもんだよなあ……と感じるところがあってこそ、ドラマとしての表現であると思うのだが、そういうところがほとんどないままに終わった。
最後の週の展開についていえば、いろいろとあるが、一つだけ書くとすると、栄養学というのは、科学(サイエンス)なのである、という視点がまったく欠如していたということがある。病院で働く管理栄養士は、科学(サイエンス)のものの考え方を理解していないといけない。そのうえで、病院の現場、臨床医学についての知識と理解が必要ということになる。
もし、大腸がんの手術を延期した方がよいと進言するのであるならば、過去の手術の結果にもとづく正確で信頼できる症例のデータを示して、そのリスクを指摘する、このことのはずである。そのうえで、手術するかどうかは、主治医を含めて、病院のチームで協議し、判断して、本人や家族にも説明がある、すくなくともこれだけのことは描いておかないといけない場面であった。
これ以上、あれこれと批判を書きたいとは思わないが、なぜ、これほどまでに駄作というべきドラマになったのか、思うところを少し書いてみる。
大胆に言ってみれば、ということになるが……かつて、朝ドラは、主に女性を主人公とした教養小説(そのテレビドラマ版)という性格をもってきた。教養小説は、主人公が成長していく物語である。
『おむすび』では、登場人物が成長していくという過程を描くということがなかった。生きていくなかでの、いろんなできごと、人との出会い、対話、思考、挫折、さまざまなことがあって、成長していく……そういう部分が、希薄なドラマだったといってよい。
現代では、教養小説というような人間の成長の物語が、一般に好まれない時代になってきているのかもしれないとも思う。そのかわりに、あなたはあなたらしく、そのままの自分でいればいいのだよ、それがベストの人間の生き方だよ……という方向に、変わってきている。この意味では、『おむすび』の登場人物の人物造形は、基本的に一貫していて、あまり揺れうごくということがない。なかで一番、気持ちの変化があったのが、聖人ぐらいだろうか。聖人は、神戸と糸島との間で、揺れうごく気持ちがあった。しかし、その他の登場人物は、基本的な人物造形がおなじままである。まあ、歩もいろいろとあったが、結局は、ギャルということでとおしてきている。
結について見れば、十代の高校生が、三十代の母親になるまでを描いているのだが、その間の、人間的な成長ということが、描かれていない。いや、描こうとしなかったというべきかもしれない。子ども(花)が生まれるのだが、母親としてどう思うかということは、ほとんど出てきていない。これは意図的にそう作っているからなのだろうと思う。
人間は成長しなくていいということがあるから、震災(神戸や東北)があっても、コロナ禍があっても、その描写が、こんなことがあったというエピソードの羅列で終わってしまって、そのときに、人が何を考え、何を思い、どう考え方が変わっていったのか、そして、社会がどう変化していったのか、描くことができないで終わってしまったことになる。
成長しないヒロイン、これに共感できる人(人間はありのままでよい)にとっては、非常によくできた明快な心地よいドラマということで受けとめられることになるが、しかし、教養小説的な従来の朝ドラ(人間は成長し変わっていくものである)を期待する人にとっては、何をいいたいドラマなのか、さっぱり理解できないもどかしい作品であった、ということになる。
『おむすび』では、はじめから主人公は変わらない設定になっていた。『虎に翼』では、途中で方針が変わった。途中までは、主人公の学んで成長してゆく自己を描いていたが、それが、戦後になってから、ひたすら主張する自己になっていた。その前の『らんまん』では、主人公は変わらない性格だったが、まわりの人びとはそれぞれ成長し変化していったし、日本植物学の成立の歴史という大きな物語がバックにあった。成長が迷走していたのが、『ちむどんどん』であった。
最後にやはり指摘しておかないといけないことは、管理栄養士の試験の合格率である。ドラマのなかでは、全体の平均の数字を示していた。ほぼ半数の合格である。しかし、実際には、四年生大学の専門の課程を終了した現役の学生の場合は、8~9割以上である。しかし、専門学校で栄養士である場合には、1割ほどの難関である。脚本としては、ウソをついたわけではないが、フェアな態度ではない。ここは、きちんと数字を示したうえで、育児も家事も翔也にまるなげして、社員食堂の仕事のかたわら、必死に受験勉強するという姿を描いておくべきところだったと思う。
こういうことは、ドラマの作り方としては、一種のごまかしであると感じる。こういうところのごまかしの結果、管理栄養士としてのプロの仕事がどんなものか描くことができなかったことにつながっていることになると、私は思う。
管理栄養士の仕事としては、病院以外にも、食品会社とか老人ホーム、教育など、多様である。そして、最後のところで出てきた、子ども食堂ということも、これからの管理栄養士の仕事として意味のある現場であるにちがいない。せっかく管理栄養士を主人公にしながら、下手な医療ドラマにしてしまったことになる。これからの社会でどのような役割がもとめられるのか、これこそ描くべきことだったと思う。
佐藤卓己は『テレビ的教養』において、テレビを公共圏として認識することを提示している。これは、2007年の本である。今では、WEBやSNSが、それに代わるものなるかもしれない。しかし、NHKの朝ドラという枠で何を放送するかというのは、今の時代において、小さいながらも一つの公共圏を作っている。だから、その内容についての賛否の議論がSNSでかまびすしい。SNSなどでの賛否の議論をふくめて、朝ドラは考えられなければならない。
2025年3月28日記
『おむすび』「おむすび、みんなを結ぶ」
最後まで見たのだが、結局、このドラマは心にひびくものが何もなかった。人間というのはこういうもんだよなあ……と感じるところがあってこそ、ドラマとしての表現であると思うのだが、そういうところがほとんどないままに終わった。
最後の週の展開についていえば、いろいろとあるが、一つだけ書くとすると、栄養学というのは、科学(サイエンス)なのである、という視点がまったく欠如していたということがある。病院で働く管理栄養士は、科学(サイエンス)のものの考え方を理解していないといけない。そのうえで、病院の現場、臨床医学についての知識と理解が必要ということになる。
もし、大腸がんの手術を延期した方がよいと進言するのであるならば、過去の手術の結果にもとづく正確で信頼できる症例のデータを示して、そのリスクを指摘する、このことのはずである。そのうえで、手術するかどうかは、主治医を含めて、病院のチームで協議し、判断して、本人や家族にも説明がある、すくなくともこれだけのことは描いておかないといけない場面であった。
これ以上、あれこれと批判を書きたいとは思わないが、なぜ、これほどまでに駄作というべきドラマになったのか、思うところを少し書いてみる。
大胆に言ってみれば、ということになるが……かつて、朝ドラは、主に女性を主人公とした教養小説(そのテレビドラマ版)という性格をもってきた。教養小説は、主人公が成長していく物語である。
『おむすび』では、登場人物が成長していくという過程を描くということがなかった。生きていくなかでの、いろんなできごと、人との出会い、対話、思考、挫折、さまざまなことがあって、成長していく……そういう部分が、希薄なドラマだったといってよい。
現代では、教養小説というような人間の成長の物語が、一般に好まれない時代になってきているのかもしれないとも思う。そのかわりに、あなたはあなたらしく、そのままの自分でいればいいのだよ、それがベストの人間の生き方だよ……という方向に、変わってきている。この意味では、『おむすび』の登場人物の人物造形は、基本的に一貫していて、あまり揺れうごくということがない。なかで一番、気持ちの変化があったのが、聖人ぐらいだろうか。聖人は、神戸と糸島との間で、揺れうごく気持ちがあった。しかし、その他の登場人物は、基本的な人物造形がおなじままである。まあ、歩もいろいろとあったが、結局は、ギャルということでとおしてきている。
結について見れば、十代の高校生が、三十代の母親になるまでを描いているのだが、その間の、人間的な成長ということが、描かれていない。いや、描こうとしなかったというべきかもしれない。子ども(花)が生まれるのだが、母親としてどう思うかということは、ほとんど出てきていない。これは意図的にそう作っているからなのだろうと思う。
人間は成長しなくていいということがあるから、震災(神戸や東北)があっても、コロナ禍があっても、その描写が、こんなことがあったというエピソードの羅列で終わってしまって、そのときに、人が何を考え、何を思い、どう考え方が変わっていったのか、そして、社会がどう変化していったのか、描くことができないで終わってしまったことになる。
成長しないヒロイン、これに共感できる人(人間はありのままでよい)にとっては、非常によくできた明快な心地よいドラマということで受けとめられることになるが、しかし、教養小説的な従来の朝ドラ(人間は成長し変わっていくものである)を期待する人にとっては、何をいいたいドラマなのか、さっぱり理解できないもどかしい作品であった、ということになる。
『おむすび』では、はじめから主人公は変わらない設定になっていた。『虎に翼』では、途中で方針が変わった。途中までは、主人公の学んで成長してゆく自己を描いていたが、それが、戦後になってから、ひたすら主張する自己になっていた。その前の『らんまん』では、主人公は変わらない性格だったが、まわりの人びとはそれぞれ成長し変化していったし、日本植物学の成立の歴史という大きな物語がバックにあった。成長が迷走していたのが、『ちむどんどん』であった。
最後にやはり指摘しておかないといけないことは、管理栄養士の試験の合格率である。ドラマのなかでは、全体の平均の数字を示していた。ほぼ半数の合格である。しかし、実際には、四年生大学の専門の課程を終了した現役の学生の場合は、8~9割以上である。しかし、専門学校で栄養士である場合には、1割ほどの難関である。脚本としては、ウソをついたわけではないが、フェアな態度ではない。ここは、きちんと数字を示したうえで、育児も家事も翔也にまるなげして、社員食堂の仕事のかたわら、必死に受験勉強するという姿を描いておくべきところだったと思う。
こういうことは、ドラマの作り方としては、一種のごまかしであると感じる。こういうところのごまかしの結果、管理栄養士としてのプロの仕事がどんなものか描くことができなかったことにつながっていることになると、私は思う。
管理栄養士の仕事としては、病院以外にも、食品会社とか老人ホーム、教育など、多様である。そして、最後のところで出てきた、子ども食堂ということも、これからの管理栄養士の仕事として意味のある現場であるにちがいない。せっかく管理栄養士を主人公にしながら、下手な医療ドラマにしてしまったことになる。これからの社会でどのような役割がもとめられるのか、これこそ描くべきことだったと思う。
佐藤卓己は『テレビ的教養』において、テレビを公共圏として認識することを提示している。これは、2007年の本である。今では、WEBやSNSが、それに代わるものなるかもしれない。しかし、NHKの朝ドラという枠で何を放送するかというのは、今の時代において、小さいながらも一つの公共圏を作っている。だから、その内容についての賛否の議論がSNSでかまびすしい。SNSなどでの賛否の議論をふくめて、朝ドラは考えられなければならない。
2025年3月28日記
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