『八重の桜』「会津の決意」 ― 2025-05-12
2025年5月12日 當山日出夫
『八重の桜』「会津の決意」
歴史のもしも、ということになるが、ここで京都守護職を会津藩が引き受けていなければ、明治維新の歴史は変わっていたかもしれない。幕府の瓦解ということはあっただろうが、その後の戊辰戦争の行方がどうなっただろうか。もっとちがう結末を見ることになったかもしれない。
たまたま、山崎正和の『やわらかい個人主義の誕生』(中公文庫、Kindle版)を読んでいたのだが、なかで、「文明としてのイエ社会」について論じたところがある。いまでは、『文明としてのイエ社会』という本も、新しい版では手にはいらなくなっている。もう、忘れられてしまった著作といってもいいかもしれない。
しかし、江戸時代から戦後のしばらくのころまでの、日本のことを説明する考え方として、十分に魅力的な考え方であるように思える。まあ、もはや衰退期というべき日本の状況では、かつてのように、なぜ高度経済成長できたのか、という議論自体が、古めかしいものになってしまていることはたしかであるが。
会津藩というイエのこととして見ると、たまたまこの時代の藩主であった松平容保が、京都守護職になり、その判断に、藩が全体として巻きこまれていく……なかには反対論もあったけれど、最終的には、藩をあげてその仕事に傾倒していき、最後には幕府と運命をともにする、いや、幕府以上に悲惨な目にあう。江戸城は無血開城だったが、会津は籠城戦を戦い敗れることになった。
幕末に、藩という組織が、どのように情勢判断をして、行動することになったのか、そして藩士たちは、どう思って行動したのか……このドラマの作られた時代の雰囲気ということを感じる。
2025年5月11日記
『八重の桜』「会津の決意」
歴史のもしも、ということになるが、ここで京都守護職を会津藩が引き受けていなければ、明治維新の歴史は変わっていたかもしれない。幕府の瓦解ということはあっただろうが、その後の戊辰戦争の行方がどうなっただろうか。もっとちがう結末を見ることになったかもしれない。
たまたま、山崎正和の『やわらかい個人主義の誕生』(中公文庫、Kindle版)を読んでいたのだが、なかで、「文明としてのイエ社会」について論じたところがある。いまでは、『文明としてのイエ社会』という本も、新しい版では手にはいらなくなっている。もう、忘れられてしまった著作といってもいいかもしれない。
しかし、江戸時代から戦後のしばらくのころまでの、日本のことを説明する考え方として、十分に魅力的な考え方であるように思える。まあ、もはや衰退期というべき日本の状況では、かつてのように、なぜ高度経済成長できたのか、という議論自体が、古めかしいものになってしまていることはたしかであるが。
会津藩というイエのこととして見ると、たまたまこの時代の藩主であった松平容保が、京都守護職になり、その判断に、藩が全体として巻きこまれていく……なかには反対論もあったけれど、最終的には、藩をあげてその仕事に傾倒していき、最後には幕府と運命をともにする、いや、幕府以上に悲惨な目にあう。江戸城は無血開城だったが、会津は籠城戦を戦い敗れることになった。
幕末に、藩という組織が、どのように情勢判断をして、行動することになったのか、そして藩士たちは、どう思って行動したのか……このドラマの作られた時代の雰囲気ということを感じる。
2025年5月11日記
ドキュメント20min.「「絶望名言」を探して」 ― 2025-05-12
2025年5月12日 當山日出夫
ドキュメント20min. 「絶望名言」を探して
私は、今の生活では、ラジオをほとんど聞くことがない。「ラジオ深夜便」をやっている時間は、寝ている。
絶望名言という発想、それから、これを本にしようと思ったことは、貴重なことだと感じる。「明けない夜もある」ということばの方が、はるかに人間のこころにしみいることもある。たおれたら、たおれたままでいていい、そう言ってもらえる方が、よほど楽である。
絶望している人に対しては、それを遠くからでも見ている人がいる……このことが感じられるだけでいい。
中島みゆきが歌ったように、肩に降る雨の冷たさに気づければ、それでいいのである。
2025年5月6日記
ドキュメント20min. 「絶望名言」を探して
私は、今の生活では、ラジオをほとんど聞くことがない。「ラジオ深夜便」をやっている時間は、寝ている。
絶望名言という発想、それから、これを本にしようと思ったことは、貴重なことだと感じる。「明けない夜もある」ということばの方が、はるかに人間のこころにしみいることもある。たおれたら、たおれたままでいていい、そう言ってもらえる方が、よほど楽である。
絶望している人に対しては、それを遠くからでも見ている人がいる……このことが感じられるだけでいい。
中島みゆきが歌ったように、肩に降る雨の冷たさに気づければ、それでいいのである。
2025年5月6日記
『べらぼう』「歌麿よ、見徳は一炊夢」 ― 2025-05-12
2025年5月12日 當山日出夫
『べらぼう』「歌麿よ、見徳は一炊夢」
腎虚ということばを憶えたのは学生のときだった。たしか仮名草子のなにかの作品を読んでいるなかに出てきたはずである。このことばが、NHKの大河ドラマのなかで堂々と使われることばになるとは、あまり考えたこともなかった。
江戸時代には、かなり広く知られていて、一般につかわれていたことばだったはずである。
朋誠堂喜三二については、プラセボであっても効果はある……ということになるだろうか。
吉原のことを描くとなると、どうしても性のことを避けてとおるわけにはいかないのだが、このドラマでは、吉原それ自体については、あまり性のイメージを強く出すことをしていない。それ以外の芸能とか文芸とかにかかわる部分を、より強調する作り方になっている。これはこれとして、一つの方針ではある。
江戸時代、あるいは、近代になってからでも、さまざまな性のかたちがあり、強いていえば、その需給関係のなかで、いろんなことがあったことはたしかである。これは、現代でも、いろいろと形を変えて、続いていることであり、私としては、それをことさらに問題視してとがめるばかりが、正しいことではないと思っている。
何度も書いていることであるが、人間の性的指向というのは、自分自身で責任を負えない部分がある。生得的なものもあるだろうし、また、生まれ育った文化的環境のなかで、そうなってしまった部分もあるだろう。これらが、現在の、ある種の潔癖主義からすれば嫌悪すべきことではあるかもしれないが、自分の自由意志によるものではないことについて、犯罪と見なすのは、はたして妥当だろうかと思うところがある。
肌の色を選んで生まれてくることはできないので、それを理由に、不当な差別があってはならない。これと同じで、特定の性的指向があるからといって、それが、自由意志で選ぶことのできないものであるならば、そのこと自体をとがめられるべきではない。
性的指向として同性愛が認められるならば、小児性愛も認められるべきである。少なくとも、そのような指向性については、そう感じること、思うことだけであれば、批難されるべきではない。ただ、その対象となる人が、自由意志で、それを受け入れることになるかどうか、という点において、未成年には、まだ十分にその判断力がないので、例外的にあつかう……大きな論理の流れとしては、こうだろうと思っている。
だいたいこのようなことであれば、多くの人が納得するところかと思う。
しかし、近年の流れとしては、性的指向は自分の自由意志で選択できるものである、自由意志こそ何よりも尊重されなければならない……という考え方があるかと思っている。(無論、人間にとっての自由意志とは何であるかということは、哲学的に古くから重要な問題である論点ではあるのだが。)
性にまつわる価値観は、歴史的に文化的に大きく変わっていくという面がある。江戸時代の人びとの、性についての価値観を、現代の価値観で、一方的に語ることはかなりむずかしいだろうとは思うところである。
蔦重が、朋誠堂喜三二におこなっていたことは、現代の価値観でいえば、性接待になるのだけれども、この時代の吉原を舞台にしたドラマで、これをとがめることはないだろう。
歌麿が、この回で描かれたような過去を持っているということで、その浮世絵における人物の表現につながることになる、物語の筋としては、こういう方向になるのだろう。
鳥山石燕は、これからも出てくることがあるだろうか。
自分の存在を否定的に考えて、死んでしまっていいのだ、生まれてきたことが間違いだった、ということは哲学的な思弁としてはありうる考え方ではあるが、一方、実際の世の中で、このように思う人がいることは、否定できないことではあるだろう。
2025年5月11日記
『べらぼう』「歌麿よ、見徳は一炊夢」
腎虚ということばを憶えたのは学生のときだった。たしか仮名草子のなにかの作品を読んでいるなかに出てきたはずである。このことばが、NHKの大河ドラマのなかで堂々と使われることばになるとは、あまり考えたこともなかった。
江戸時代には、かなり広く知られていて、一般につかわれていたことばだったはずである。
朋誠堂喜三二については、プラセボであっても効果はある……ということになるだろうか。
吉原のことを描くとなると、どうしても性のことを避けてとおるわけにはいかないのだが、このドラマでは、吉原それ自体については、あまり性のイメージを強く出すことをしていない。それ以外の芸能とか文芸とかにかかわる部分を、より強調する作り方になっている。これはこれとして、一つの方針ではある。
江戸時代、あるいは、近代になってからでも、さまざまな性のかたちがあり、強いていえば、その需給関係のなかで、いろんなことがあったことはたしかである。これは、現代でも、いろいろと形を変えて、続いていることであり、私としては、それをことさらに問題視してとがめるばかりが、正しいことではないと思っている。
何度も書いていることであるが、人間の性的指向というのは、自分自身で責任を負えない部分がある。生得的なものもあるだろうし、また、生まれ育った文化的環境のなかで、そうなってしまった部分もあるだろう。これらが、現在の、ある種の潔癖主義からすれば嫌悪すべきことではあるかもしれないが、自分の自由意志によるものではないことについて、犯罪と見なすのは、はたして妥当だろうかと思うところがある。
肌の色を選んで生まれてくることはできないので、それを理由に、不当な差別があってはならない。これと同じで、特定の性的指向があるからといって、それが、自由意志で選ぶことのできないものであるならば、そのこと自体をとがめられるべきではない。
性的指向として同性愛が認められるならば、小児性愛も認められるべきである。少なくとも、そのような指向性については、そう感じること、思うことだけであれば、批難されるべきではない。ただ、その対象となる人が、自由意志で、それを受け入れることになるかどうか、という点において、未成年には、まだ十分にその判断力がないので、例外的にあつかう……大きな論理の流れとしては、こうだろうと思っている。
だいたいこのようなことであれば、多くの人が納得するところかと思う。
しかし、近年の流れとしては、性的指向は自分の自由意志で選択できるものである、自由意志こそ何よりも尊重されなければならない……という考え方があるかと思っている。(無論、人間にとっての自由意志とは何であるかということは、哲学的に古くから重要な問題である論点ではあるのだが。)
性にまつわる価値観は、歴史的に文化的に大きく変わっていくという面がある。江戸時代の人びとの、性についての価値観を、現代の価値観で、一方的に語ることはかなりむずかしいだろうとは思うところである。
蔦重が、朋誠堂喜三二におこなっていたことは、現代の価値観でいえば、性接待になるのだけれども、この時代の吉原を舞台にしたドラマで、これをとがめることはないだろう。
歌麿が、この回で描かれたような過去を持っているということで、その浮世絵における人物の表現につながることになる、物語の筋としては、こういう方向になるのだろう。
鳥山石燕は、これからも出てくることがあるだろうか。
自分の存在を否定的に考えて、死んでしまっていいのだ、生まれてきたことが間違いだった、ということは哲学的な思弁としてはありうる考え方ではあるが、一方、実際の世の中で、このように思う人がいることは、否定できないことではあるだろう。
2025年5月11日記
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