『細雪』谷崎潤一郎(その三)2017-02-03

2017-02-03 當山日出夫

つづきである。
やまもも書斎記 2017年2月2日
『細雪』谷崎潤一郎(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/02/02/8347924

角川文庫版の解説を、内田樹が書いていることは、昨日しるしたとおりである。その解説に次のようにある。

「『細雪』は喪失と哀惜の物語である。指の間から美しいものすべてがこぼれてゆくときの、指の感覚を精緻に記述した物語である。だからこそ『細雪』には世界性を獲得するチャンスがあった。」(pp.298-299)

「「存在するもの」は、それを所有している人と所有していない人をはっきりと差別化する。だが、「所有しないもの」は「かつてそれを所有していたが、失った」という人と、「ついに所有することができなかった」人を〈喪失感においては差別しない〉。谷崎潤一郎の世界性はそこにあるのだと私は思う。」(p.300) 〈 〉内、原文傍点

そして、次のようにも記している。

「この耽美的な書物のうちに黒々とした「日本の未来に対する絶望」を感知した検閲官の「文学的感受性」に対して私は一抹の敬意を示してもよい。」(p.296)

この見解に私は、賛同するものである。もはや失ってしまったもののいとおしさに、この『細雪』という作品はつらぬかれているといってもよい。

この喪失感とでもいうべきものは、かなり屈折している。『細雪』は、上中下の三巻からなる。その成立を簡単に整理するならば、次のようになる。

上巻 昭和18年 『中央公論』に連載。途中まで。陸軍省報道部の干渉で中止。昭和19年まで執筆。自費出版。

中巻 戦時中に執筆。昭和20年まで。自費出版をくわだてるが、実現せず。

下巻 昭和22年 『婦人公論』に連載。

最終的には、戦後、昭和21年に上巻、22年に中巻、23年に下巻が刊行。

そして、物語自体の時間の流れは、昭和11年から16年までである。

以上、角川文庫版の作品解説(成瀬正勝)による。

以上のことから、複数の時間の流れが錯綜していることを見てとれる。上巻は、戦争中(太平洋戦争、昭和16年以降)に書かれた。部分的には公刊された。だが、軍部の弾圧で中止。中巻も、戦時中に書かれた。そして、下巻は、戦後になってからの執筆である。上中下の三巻としてまとめられたのは、戦後しばらくして、下巻が書き終わってから。

だが、物語の時間は、太平洋戦争の前、昭和11年から16年まで。作品執筆時(上巻、中巻)より、一段階前の時代である。下巻執筆時からすれば、さらにさかのぼって戦前(太平洋戦争)・戦中(日中戦争)の物語、ということになる。

そして、さらに、この物語のなかに流れる時間は、その物語の時間よりさかのぼって、大正~昭和初期までの、大阪の船場で、蒔岡の家がその栄華をほこっていた時代の感覚が、色濃くながれている。これこそ、もはやすでに決定的に失ってしまったものに他ならない。物語の現在の時間(昭和11~16年)は、蒔岡の家は、没落したかつての上流階級(といってよいであろう、そして、それが今では中流階級)という設定になっている。

つまり、『細雪』にみられる、喪失感の美学とでもいうべきものは、二重三重に屈折したものとして描かれているのである。

上記のようなこと、この『細雪』は何時書かれたか、そして、それは何時のことを描いているか……このところは、この物語を理解する上で、きわめて重要な視点になる。

花見の場面(上巻)を書いた時は、太平洋戦争中であり、その時代より一つまえの時代を描き、そこで、さらにもう一つ前の、大正~昭和初期の時代を見ている。また、蛍狩の場面(下巻)は、さらに戦後になってから書いたものである。

このように見てみるとき、『細雪』の哀惜の対象となっているものは、戦争(日中戦争、太平洋戦争)で、失われてしまった、それより一つ前のことに思いをはせていることが理解される。そして、このようなことを理解したうえで、この『細雪』を読むならば、まさしく、内田樹の解説に書かれているように「失ってしまったもの」の物語として、読むことができる。

内田樹の「新版解説」を読むために、角川文庫版で読むだけの価値はあると思う次第でもある。

追記 2017-02-04
このつづきは、
やまもも書斎記 2017年2月4日
『細雪』谷崎潤一郎(その四)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/02/04/8349848

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