『光る君へ』「母として」2024-07-29

2024年7月29日 當山日出夫

『光る君へ』「母として」

文学史として気になるのは、『枕草子』の成立についての事情である。このドラマで描かれたことと、そう大きく異なることはないのだろうと思う。テレビの画面に映っていたのは、雪の降った朝の章段だったと見たのだが(つまり「春はあけぼの」から始まっていたのではないということである)、『枕草子』がどのような順番で書かれて、どう編纂されて、現在の(通行の)テキストとして成立したのか、興味のあるところではある。一条天皇の見た本には題簽が無かった。書名が決まっていなかったことになる。『枕草子』という書名はいつごろどうやって成立したのだろうか。ドラマでは三冊に作ってあったと見えたのだが、たぶんこんな感じだったのかなと思うが、平安文学、書誌学の専門家から見ればいろいろと意見のあるところかもしれない。

平安時代の親子関係がどのようなものであったか、『源氏物語』でもいくぶんはうかがい知れる。私が読んで印象的に憶えているのは、明石君が姫君(明石上)を光源氏にわたす場面。母親である明石君自身で赤ちゃんを抱いて出てくる。このシーンが意味することは、通常は、乳母が面倒をみるのであって、母親自身が赤ちゃんを抱くことはあまりなかっただろうということである。だからこそ、母親の子どもへの特別の愛情を示す行為として、自分自身で抱きかかえるということになる。

まひろのような受領層の場合でも、育児にかかわるのは乳母であったろうと考えていいのかもしれない。(平安貴族の育児の実態について、研究はあるのだろうが、もう探して読んでみようと気にならないでいる。)

この回の見どころの一つは、詮子の四十の賀のとき、宮中での雅楽と舞のシーン。これは、現在まで宮内庁などいくつかのところで伝承され残っているものなので、かなりの信憑性があるものとして見ていいのだろうと思う。昔、東京に住んでいたときは、国立劇場(小劇場)の雅楽の公演などは、何回か見に行ったものである。(国立劇場も新しく建て直す目処もたたないようだし、もう東京に行って雅楽公演など見ることも無いだろうと思う。)

道長たちは呪詛されたということなのであるが、本当に効果があったのだろうか。このあたりは、平安貴族の気持ちになって見れば、呪詛は本当にきくものであり、怨霊も本当にいたのだろう。そういえば、このドラマでは、式神とか物の怪とかがこれまでに登場していなかったと思うけれど、出ないままで終わるのだろうか。

まひろは、子ども(後の大弐三位)に『竹取物語』を読んで聞かせていた。『竹取物語』のことは、『源氏物語』にも出てくるし、この時代の貴族の間で普通に読まれていたと考えて問題ないだろう。

宣孝が死んでしまって、まひろの家はまた貧乏になりかねない。さて、ここから、物語の作者である紫式部の誕生につながるのかもしれないが、どのようにして『源氏物語』を構想することになるのか、これからが楽しみである。(文学史的には、それまでに人びとの間に語りつたえられてきたいくつかの物語の断片を集めて再構築して、大胆に創ったということになるのかと思っているが。)

2024年7月28日記