「ヒューマンエイジ 人間の時代 第4集 性の欲望 デジタル技術“解放”か“堕落”か」 ― 2024-07-08
2024年7月8日 當山日出夫
NHKスペシャル ヒューマンエイジ 人間の時代 第4集 性の欲望 デジタル技術“解放”か“堕落”か
性について番組を作るとき、それを肯定的にとらえるか、あるいは、さける方向であるべきか。今の時代に即して言えば、フェミニズムに配慮すべきか、あるいは、それに反対するいわゆる保守的な立場を考慮すべきか、難しい。(ただし、私は、本来の意味での「保守」ということばはこのようには思っていないのだが。)
番組で使っていなかったことばが、「ジェンダー」であり「エロス」であった。性については、主に人間の生理的な面からアプローチしていて、文化的歴史的な側面にふみこむことをほとんどしていない。これは、これで考えた作り方だったと思う。
人間の性について思うことを書いてみるならば……それを生得的なものとしてとらえるのか、文化的なものとしてとらえるかで、考え方は変わってくる。
もともと性は、生得的なものとして考えられていた。現代の人間観でいえば、遺伝子によって決まるということになる。そして、性的指向も同様である。大多数の人間にとっては、異性愛が普通であるが、ごく少数の人は同性愛であったりする。これが基本的な考え方であったろう。
遺伝子は自分では選べない。どのような性、あるいは、性的指向に生まれるかは、自分の責任ではない。これは、肌の色を自分で選ぶことができないのと同じである。だからこそ、自分で選ぶことのできない要因によって、差別されてはならない。これまでの人権についての基本的考え方や、特に、女性の権利についての考え方の基本には、このことがある。だから、性的少数者(LGBTQ)の人権は守られねばならない。自分の意志で、そのような性的指向を有することになったのではないのであるから。
だが、これが、最近になってちょっと変わってきていると感じる。自分が生物学的に男性か女性であるかは選択できなかったとしても、どのような性的指向を持つかは、自分で選ぶことができる。このような考え方を、このごろ目にするようになってきた。個人の自由意志は最も尊重されるべきである。自分で自由に選ぶことのできることについて、ひとからとやかく言われることはない、という価値観からの性の多様性、自由ということになってきている。
ジェンダー、あるいは、性の歴史をふり返ってみるならば、私の知る範囲内でも、時代や地域によってバリエーションがあることは確かである。日本でもかつては、同性愛は、必ずしも禁忌ではなかった。また、男女の関係についても、現在のような潔癖な一夫一婦制というわけではなかった。人間の性のあり方は、文化にかかわる領域がかなりあることも確かである。
つまり、人間の性というものは、生物学的な視点だけでは語り得ないものである、というのが私の認識である。人間の性は歴史と文化とともにある、このような認識が必要ではないか。歴史と文化をはなれて、まったく個人の自由になるものとしての性……性別も性的指向も自分で選択できるし、そうしなければならない……という無自覚ないわば個人主義的な流れでは、これからどうなっていくのだろうという気になる。
この観点では、現代になってAIに性的欲望を感じるようになっているとしても、それはそのような時代になっているのだ、と思うことになる。AIもまた人間の文化所産産である。
また、性とメディアの問題もある。インターネット上にある膨大なポルノコンテンツが問題かもしれないが、しかし、歴史をふり返ってみれば、新しいメディアに対応してきたのが、性の歴史であるともいえる。インターネットの黎明期に、まず登場したのがポルノであったことは、記憶にあることである。(ちなみに、このことにつては、立花隆が書いたものがある。)小説、マンガ、映画、さかのぼれば浮世絵、これらの歴史はポルノを抜きにしては語れない。
ところで、ドール……古くからのことばでいえば、ダッチワイフであるが……の生産が、中国の独占ともいうべき状況にあるということは、知らなかった。検索してみると、普通にネット通販で売っている。
それから、セルフプレジャーという言い方は、これから日本語のなかで定着していくだろうか。これもネット通販では各種の用品を売っている。
ちょっともの足りないと感じたところがあるとすると、人間の性愛には、自分自身の欲望の満足ということもあるが、相手(それは多くの場合、異性であるが、同性であってもかまわない)に、快楽を感じさせたい、それを共有したい、二人で楽しみたい、という面もある。このようなことについて触れることがなかった。このような面から考えると、AIやドールが性愛の相手として完全にとってかわるということはないのかもしれない。
2024年6月25日記
NHKスペシャル ヒューマンエイジ 人間の時代 第4集 性の欲望 デジタル技術“解放”か“堕落”か
性について番組を作るとき、それを肯定的にとらえるか、あるいは、さける方向であるべきか。今の時代に即して言えば、フェミニズムに配慮すべきか、あるいは、それに反対するいわゆる保守的な立場を考慮すべきか、難しい。(ただし、私は、本来の意味での「保守」ということばはこのようには思っていないのだが。)
番組で使っていなかったことばが、「ジェンダー」であり「エロス」であった。性については、主に人間の生理的な面からアプローチしていて、文化的歴史的な側面にふみこむことをほとんどしていない。これは、これで考えた作り方だったと思う。
人間の性について思うことを書いてみるならば……それを生得的なものとしてとらえるのか、文化的なものとしてとらえるかで、考え方は変わってくる。
もともと性は、生得的なものとして考えられていた。現代の人間観でいえば、遺伝子によって決まるということになる。そして、性的指向も同様である。大多数の人間にとっては、異性愛が普通であるが、ごく少数の人は同性愛であったりする。これが基本的な考え方であったろう。
遺伝子は自分では選べない。どのような性、あるいは、性的指向に生まれるかは、自分の責任ではない。これは、肌の色を自分で選ぶことができないのと同じである。だからこそ、自分で選ぶことのできない要因によって、差別されてはならない。これまでの人権についての基本的考え方や、特に、女性の権利についての考え方の基本には、このことがある。だから、性的少数者(LGBTQ)の人権は守られねばならない。自分の意志で、そのような性的指向を有することになったのではないのであるから。
だが、これが、最近になってちょっと変わってきていると感じる。自分が生物学的に男性か女性であるかは選択できなかったとしても、どのような性的指向を持つかは、自分で選ぶことができる。このような考え方を、このごろ目にするようになってきた。個人の自由意志は最も尊重されるべきである。自分で自由に選ぶことのできることについて、ひとからとやかく言われることはない、という価値観からの性の多様性、自由ということになってきている。
ジェンダー、あるいは、性の歴史をふり返ってみるならば、私の知る範囲内でも、時代や地域によってバリエーションがあることは確かである。日本でもかつては、同性愛は、必ずしも禁忌ではなかった。また、男女の関係についても、現在のような潔癖な一夫一婦制というわけではなかった。人間の性のあり方は、文化にかかわる領域がかなりあることも確かである。
つまり、人間の性というものは、生物学的な視点だけでは語り得ないものである、というのが私の認識である。人間の性は歴史と文化とともにある、このような認識が必要ではないか。歴史と文化をはなれて、まったく個人の自由になるものとしての性……性別も性的指向も自分で選択できるし、そうしなければならない……という無自覚ないわば個人主義的な流れでは、これからどうなっていくのだろうという気になる。
この観点では、現代になってAIに性的欲望を感じるようになっているとしても、それはそのような時代になっているのだ、と思うことになる。AIもまた人間の文化所産産である。
また、性とメディアの問題もある。インターネット上にある膨大なポルノコンテンツが問題かもしれないが、しかし、歴史をふり返ってみれば、新しいメディアに対応してきたのが、性の歴史であるともいえる。インターネットの黎明期に、まず登場したのがポルノであったことは、記憶にあることである。(ちなみに、このことにつては、立花隆が書いたものがある。)小説、マンガ、映画、さかのぼれば浮世絵、これらの歴史はポルノを抜きにしては語れない。
ところで、ドール……古くからのことばでいえば、ダッチワイフであるが……の生産が、中国の独占ともいうべき状況にあるということは、知らなかった。検索してみると、普通にネット通販で売っている。
それから、セルフプレジャーという言い方は、これから日本語のなかで定着していくだろうか。これもネット通販では各種の用品を売っている。
ちょっともの足りないと感じたところがあるとすると、人間の性愛には、自分自身の欲望の満足ということもあるが、相手(それは多くの場合、異性であるが、同性であってもかまわない)に、快楽を感じさせたい、それを共有したい、二人で楽しみたい、という面もある。このようなことについて触れることがなかった。このような面から考えると、AIやドールが性愛の相手として完全にとってかわるということはないのかもしれない。
2024年6月25日記
「フジロックフェスティバル 日本最大級の野外フェス、舞台裏に密着!」 ― 2024-07-09
2024年7月9日 當山日出夫
100カメ フジロックフェスティバル 日本最大級の野外フェス、舞台裏に密着!
この番組、だんだんと「ザ・バックヤード」に近くなってきたような気がする。普段は表に出ることのない、裏側の仕事を取材するのに、「100カメ」の手法は一つの方法だとは思う。
フジロックは、去年、「ドキュメント72時間」でもあつかっていた。同じものを、NHKの別の番組で取材したということなのだろう。去年の「72時間」では、舞台の映像は基本的に無かった。許可が無かったからということである。しかし、「100カメ」の方では、実際の舞台の映像がたくさん出ていた。このあたりの権利関係というのは、どうなっているのだろう。番組の内容とは別に、このことについて気になった。
フジロックを支えるスタッフの舞台裏の仕事ぶりが紹介されていて、なるほど、これほどの催しを行うには、こんな準備とかスタッフの仕事とかがあるのかと、これはこれでとても興味深いものだった。
出演者の頼みに応じて、スタッフが食事をとどけるところが面白かった。こんなことまでしているのかと思う。興味深かったのは、注文した食事のなかに、ビーガンのラーメンがあったこと。乗っける具材はともかく、ダシはどうやって作るのだろうかと思ったのだが、どうなのだろうか。番組には出てきていなかったが、ハラルの食事などもあるのかとも思う。
ロックにもあまり関心もないし、また、スキーもしない私としては、苗場に行くことはたぶんないと思っている。だが、このような行事の開催を継続できているということは、まだ日本にそれなりの豊かさがあるということなのだろうと思う。これも、これからは、外国人観光客のお目当てになっていく可能性はあるかもしれないが。
2024年6月27日記
100カメ フジロックフェスティバル 日本最大級の野外フェス、舞台裏に密着!
この番組、だんだんと「ザ・バックヤード」に近くなってきたような気がする。普段は表に出ることのない、裏側の仕事を取材するのに、「100カメ」の手法は一つの方法だとは思う。
フジロックは、去年、「ドキュメント72時間」でもあつかっていた。同じものを、NHKの別の番組で取材したということなのだろう。去年の「72時間」では、舞台の映像は基本的に無かった。許可が無かったからということである。しかし、「100カメ」の方では、実際の舞台の映像がたくさん出ていた。このあたりの権利関係というのは、どうなっているのだろう。番組の内容とは別に、このことについて気になった。
フジロックを支えるスタッフの舞台裏の仕事ぶりが紹介されていて、なるほど、これほどの催しを行うには、こんな準備とかスタッフの仕事とかがあるのかと、これはこれでとても興味深いものだった。
出演者の頼みに応じて、スタッフが食事をとどけるところが面白かった。こんなことまでしているのかと思う。興味深かったのは、注文した食事のなかに、ビーガンのラーメンがあったこと。乗っける具材はともかく、ダシはどうやって作るのだろうかと思ったのだが、どうなのだろうか。番組には出てきていなかったが、ハラルの食事などもあるのかとも思う。
ロックにもあまり関心もないし、また、スキーもしない私としては、苗場に行くことはたぶんないと思っている。だが、このような行事の開催を継続できているということは、まだ日本にそれなりの豊かさがあるということなのだろうと思う。これも、これからは、外国人観光客のお目当てになっていく可能性はあるかもしれないが。
2024年6月27日記
「トットちゃんの学校 〜戦時下に貫いた教育の夢〜」 ― 2024-07-10
2024年7月10日 當山日出夫
新プロジェクトX 「トットちゃんの学校 〜戦時下に貫いた教育の夢〜」
この番組の制作スタッフは憶えていないことになるだろうが、NHKが昔放送したドラマに『あいうえお』というのがあった。私が小学校のころのことだったろうか。半世紀以上も昔のことになる。北海道の開拓民の村の小学校が舞台のドラマだった。昔のことだし、そんなに熱心に見たということではないので、内容についてはほとんど憶えていない。だが、明治の昔、北海道の開拓民の姿を描くとき、小学校という設定であったことは、確かなこととして記憶している。印象として残っているのは、その当時の人びとにとって、教育というのが、まさにエネルギーを費やすに価することだったことになる。
本当かどうかは知らないが……近代になって海外に移住した日本人が、現地でまず作ったのが小学校であった、という話しをどこかで読んだ記憶がある。別の国から来た人たちは、まず教会を作ったらしい。これも本当かどうかということもあるが、日本人ならではのこととして印象に残っている。
教育とはコストをかけなければならないものである。その価値がある。おそらく過去の日本人たちは、そのように暮らしてきたのであり、近代国家を作ってきた。
もう今年度で辞めてしまったが、大学生に講義をするとき、折りをみて次のことを語るようにしていた。義務教育というが、その義務とはだれのどんな義務か。子どもが学校に行く義務ではない。そうではなくて、親が子どもを学校に通わせる義務ということ、言いかえれば、子どもを労働力として使ってはいけない、教育を受けさせなければいけない、という意味での義務である。
この番組を見てまず思ったことは、二〇年とはずいぶん短いなあ、ということである。
私が高校生のとき、担任だった先生が次のような話しをしていた。教育の結果というのは、生徒が卒業してから死ぬときにならないとわからない。いや、死んでもわからないかもしれない。
これに比べると、二〇年後の結果とは、とても気の短い話しだと感じたのが個人的には正直な感想である。
教育の目的、価値は、どこにあるのだろうか。たぶん、次の二つになると思う。
一つには、その生徒、学生が将来の仕事として、社会や国家、さらには、人類のために役立つ人材となること。
もう一つは、その生徒、学生が、幸福な生活を送ることができるようになること。
この二つは別に矛盾することではないと思っている。
いうまでもないが、教育は「歴史」と「伝統」をふまえたものでなければならない。(狭隘な国粋主義のことではない。)
幸福な生活と書いてみた。今の日本の社会で教育を語るとき、あまりにもコスト計算に傾きがちである。具体的には中学受験にどれだけお金がかかるか、それでどんな大学に行くことになるのか。その結果、年収としていくら稼げる仕事につくことができるか。ありていにいえば、すべて金銭で評価することが普通におこなわれるようになってきている。これには、私は、どうしても違和感を感じざるをえない。(無論、同じような生活を送るとしても、非正規雇用よりも正規雇用で年収も多い方がいいにとは思うのだが。)
かつてのトモヱ学園のことを語るのに、著名なタレントであったり、物理学者であったりが、登場する必要はない。そこの卒業生たちが、どのような人生をその後おくることになったのか、幸福な生活をいとなむことができたのか、それだけで十分なのである。
2024年7月8日記
新プロジェクトX 「トットちゃんの学校 〜戦時下に貫いた教育の夢〜」
この番組の制作スタッフは憶えていないことになるだろうが、NHKが昔放送したドラマに『あいうえお』というのがあった。私が小学校のころのことだったろうか。半世紀以上も昔のことになる。北海道の開拓民の村の小学校が舞台のドラマだった。昔のことだし、そんなに熱心に見たということではないので、内容についてはほとんど憶えていない。だが、明治の昔、北海道の開拓民の姿を描くとき、小学校という設定であったことは、確かなこととして記憶している。印象として残っているのは、その当時の人びとにとって、教育というのが、まさにエネルギーを費やすに価することだったことになる。
本当かどうかは知らないが……近代になって海外に移住した日本人が、現地でまず作ったのが小学校であった、という話しをどこかで読んだ記憶がある。別の国から来た人たちは、まず教会を作ったらしい。これも本当かどうかということもあるが、日本人ならではのこととして印象に残っている。
教育とはコストをかけなければならないものである。その価値がある。おそらく過去の日本人たちは、そのように暮らしてきたのであり、近代国家を作ってきた。
もう今年度で辞めてしまったが、大学生に講義をするとき、折りをみて次のことを語るようにしていた。義務教育というが、その義務とはだれのどんな義務か。子どもが学校に行く義務ではない。そうではなくて、親が子どもを学校に通わせる義務ということ、言いかえれば、子どもを労働力として使ってはいけない、教育を受けさせなければいけない、という意味での義務である。
この番組を見てまず思ったことは、二〇年とはずいぶん短いなあ、ということである。
私が高校生のとき、担任だった先生が次のような話しをしていた。教育の結果というのは、生徒が卒業してから死ぬときにならないとわからない。いや、死んでもわからないかもしれない。
これに比べると、二〇年後の結果とは、とても気の短い話しだと感じたのが個人的には正直な感想である。
教育の目的、価値は、どこにあるのだろうか。たぶん、次の二つになると思う。
一つには、その生徒、学生が将来の仕事として、社会や国家、さらには、人類のために役立つ人材となること。
もう一つは、その生徒、学生が、幸福な生活を送ることができるようになること。
この二つは別に矛盾することではないと思っている。
いうまでもないが、教育は「歴史」と「伝統」をふまえたものでなければならない。(狭隘な国粋主義のことではない。)
幸福な生活と書いてみた。今の日本の社会で教育を語るとき、あまりにもコスト計算に傾きがちである。具体的には中学受験にどれだけお金がかかるか、それでどんな大学に行くことになるのか。その結果、年収としていくら稼げる仕事につくことができるか。ありていにいえば、すべて金銭で評価することが普通におこなわれるようになってきている。これには、私は、どうしても違和感を感じざるをえない。(無論、同じような生活を送るとしても、非正規雇用よりも正規雇用で年収も多い方がいいにとは思うのだが。)
かつてのトモヱ学園のことを語るのに、著名なタレントであったり、物理学者であったりが、登場する必要はない。そこの卒業生たちが、どのような人生をその後おくることになったのか、幸福な生活をいとなむことができたのか、それだけで十分なのである。
2024年7月8日記
「天下の無責任男!〜植木等とその時代〜」 ― 2024-07-11
2024年7月11日 當山日出夫
アナザーストーリーズ 天下の無責任男!〜植木等とその時代〜
私は昭和三〇年(一九五五)の生まれなので、クレージーキャッツのことは、かろうじて記憶の範囲内である。「スーダラ節」は憶えている。しかし、植木等の無責任男の映画を見に行ったという記憶はない。その時代において、これは大人向けの映画ということだったかと思う。
植木等が寺の生まれで、本人自身はきわめて真面目な性格の人間であったことは、知られていることかと思っている。ただ、その父親のことについては、この番組で知った。(できれば、一部紹介されていた「こころの時代」を再放送してもらいたい。)
昭和四〇年代、日本の社会はサラリーマンが多くなってきた時代だった。私が小学生のころのことになる。しかし、この時代は、まだ農業など第一次産業に従事する国民も多かった。それが、都市部で働き、郊外から通勤するという、サラリーマンのイメージが、基本的な日本人の働き方になっていく、そのような時代だったと回顧することになる。
無責任男シリーズは大ヒットしたのだが、なぜヒットしたのか、番組を見ていても私にはよくわからなかった。たしかに、映画としての面白さはある。この時代、人びとは映画に何を求めていたのだろうか。そろそろ映画産業が斜陽化し始め、テレビの時代になろうかというころである。ちなみに、今、朝の時間に再放送している『オードリー』は、ほぼこの時代のころ、あるいは、やや後の時代ということになる。私と、ヒロインのオードリーは、ほぼ同じ世代ということになる。
強いて言えば、高度経済成長期にあったある種の閉塞感からの解放かもしれない。あるいは、所詮、人間なんてこんなものか、という感覚かもしれない。真面目だけで生きているのではないのが、人間の社会でもある。
番組の終わりで扱われていた、一九九〇年代の植木等のリバイバルについては、記憶がない。だが、このリバイバルをささえていたのは、どんな人たちだったのだろうか。かつての無責任男のファンだった人たちなのだろうか。あるいは、もっと若い世代だったのか。このあたりの分析があると面白かったと思う。
2024年7月9日記
アナザーストーリーズ 天下の無責任男!〜植木等とその時代〜
私は昭和三〇年(一九五五)の生まれなので、クレージーキャッツのことは、かろうじて記憶の範囲内である。「スーダラ節」は憶えている。しかし、植木等の無責任男の映画を見に行ったという記憶はない。その時代において、これは大人向けの映画ということだったかと思う。
植木等が寺の生まれで、本人自身はきわめて真面目な性格の人間であったことは、知られていることかと思っている。ただ、その父親のことについては、この番組で知った。(できれば、一部紹介されていた「こころの時代」を再放送してもらいたい。)
昭和四〇年代、日本の社会はサラリーマンが多くなってきた時代だった。私が小学生のころのことになる。しかし、この時代は、まだ農業など第一次産業に従事する国民も多かった。それが、都市部で働き、郊外から通勤するという、サラリーマンのイメージが、基本的な日本人の働き方になっていく、そのような時代だったと回顧することになる。
無責任男シリーズは大ヒットしたのだが、なぜヒットしたのか、番組を見ていても私にはよくわからなかった。たしかに、映画としての面白さはある。この時代、人びとは映画に何を求めていたのだろうか。そろそろ映画産業が斜陽化し始め、テレビの時代になろうかというころである。ちなみに、今、朝の時間に再放送している『オードリー』は、ほぼこの時代のころ、あるいは、やや後の時代ということになる。私と、ヒロインのオードリーは、ほぼ同じ世代ということになる。
強いて言えば、高度経済成長期にあったある種の閉塞感からの解放かもしれない。あるいは、所詮、人間なんてこんなものか、という感覚かもしれない。真面目だけで生きているのではないのが、人間の社会でもある。
番組の終わりで扱われていた、一九九〇年代の植木等のリバイバルについては、記憶がない。だが、このリバイバルをささえていたのは、どんな人たちだったのだろうか。かつての無責任男のファンだった人たちなのだろうか。あるいは、もっと若い世代だったのか。このあたりの分析があると面白かったと思う。
2024年7月9日記
「キャンベル“千の顔をもつ英雄” (2)出立」 ― 2024-07-12
2024年7月12日 當山日出夫
100分de名著 キャンベル“千の顔をもつ英雄” (2)出立
第二回を見ていて感じたことは、神話に普遍的に見られる構造を語ることと、実際の世の中における人間の人生を混同してはいなか、ということであった。神話はあくまでも神話であり、人間の世界のこととは別であるというのが、基本にあると思う。
だが、それも見ながら考え方が変わった。人間は、自分の人生を生きていくときに、あるいは、生きてきた過去をふり返ったときに、神話や物語になぞらえて、自分にとってあのときの決断はこういうことだったのだ、あの人物との出会いはこういう意味があったのだ、と納得できる、その枠組みというか、発想の材料を提供してくれるものが必要なのである。それを普遍的にそなえているのが、神話ということになる。
こう考えると、なぜ神話が世界中である種の共通性を持つのかが理解できる。そもそも人間が人間の社会のなかで生きていくというのは、そういうものなのだから、ということである。人間のいとなみは、たとえ地域や文化、歴史がことなっていても似たようなものかもしれない。その似たようなものから、生み出されたのが神話であるならば、似通っているのは当然である。
まあ、このように考えるというのも、『共同幻想論』(吉本隆明)のことを考えてのことであるのだが。(これは誤解かもしれないが。)
それから、私は、『スター・ウォーズ』を見ていない。この第一作が出来たのが、たしか学生のときのことだったと記憶するのだが、見に行くことはなかった。学生のとき映画は好きで、ちょうど『ぴあ』が登場したころであった。これを見て、東京各地の名画座をめぐったものである。しかし、どういう加減か、『スター・ウォーズ』は見ることなく、今にいたっている。
前回も思ったが、ブッダの物語を、このように解釈することも可能なのだろが、なんとなく違和感があるというのが正直なところである。『千の顔をもつ英雄』が書かれた時代背景がどんなものかということもあるのだろうけれど。
2024年7月11日記
100分de名著 キャンベル“千の顔をもつ英雄” (2)出立
第二回を見ていて感じたことは、神話に普遍的に見られる構造を語ることと、実際の世の中における人間の人生を混同してはいなか、ということであった。神話はあくまでも神話であり、人間の世界のこととは別であるというのが、基本にあると思う。
だが、それも見ながら考え方が変わった。人間は、自分の人生を生きていくときに、あるいは、生きてきた過去をふり返ったときに、神話や物語になぞらえて、自分にとってあのときの決断はこういうことだったのだ、あの人物との出会いはこういう意味があったのだ、と納得できる、その枠組みというか、発想の材料を提供してくれるものが必要なのである。それを普遍的にそなえているのが、神話ということになる。
こう考えると、なぜ神話が世界中である種の共通性を持つのかが理解できる。そもそも人間が人間の社会のなかで生きていくというのは、そういうものなのだから、ということである。人間のいとなみは、たとえ地域や文化、歴史がことなっていても似たようなものかもしれない。その似たようなものから、生み出されたのが神話であるならば、似通っているのは当然である。
まあ、このように考えるというのも、『共同幻想論』(吉本隆明)のことを考えてのことであるのだが。(これは誤解かもしれないが。)
それから、私は、『スター・ウォーズ』を見ていない。この第一作が出来たのが、たしか学生のときのことだったと記憶するのだが、見に行くことはなかった。学生のとき映画は好きで、ちょうど『ぴあ』が登場したころであった。これを見て、東京各地の名画座をめぐったものである。しかし、どういう加減か、『スター・ウォーズ』は見ることなく、今にいたっている。
前回も思ったが、ブッダの物語を、このように解釈することも可能なのだろが、なんとなく違和感があるというのが正直なところである。『千の顔をもつ英雄』が書かれた時代背景がどんなものかということもあるのだろうけれど。
2024年7月11日記
「深圳のハゲタカ」 ― 2024-07-12
2024年7月12日 當山日出夫
BSスペシャル 深圳のハゲタカ
今の中国の一面を描いていたと感じる。
場所は深圳。中国におけるハイテク産業の街である。そこでも中国経済の不況の影響がある。飲食店の閉店があいついでいる。全国展開のスーパーマーケットが閉店する。(これは、ネット通販の普及、配送サービスということもあり、これはこれで興味深いことであるが。)
この街の中古の厨房機器とりあつかい業者のことだった。
中国経済が不況になったらなったでしたたかに生きていく中国人のたくましさ、というものを感じる。たぶん、これから中国経済が破綻することがあったとしても、このようなビジネスに生きる人びとは、しぶとく生きのびていくにちがない。
また、中国ならではというべき、商売の交渉のあり方をかいまみるところもあった。本心かどうかはわからないが、ビジネスではない、友情なのだ……ということを言っていた。さて、どこまで信用していいのか。
それにしても、深圳の街でも廃墟となった建築がたくさんある。ということは、この建設にたずさわった労働者たち……その多くは農民工なのだろうが……の生活はどうなっていくのだろう。この番組ではここのところに触れることはなかったが、失業者問題が、国家のゆくすえにかかわることは、歴史から学ぶことである。
四〇円のビールというのは、どうなのだろうか。すさまじいデフレというべきだろうか。
どうでもいいことだが、番組に映っていたもののなかで、日本のものというとカシオの電卓だけだった。載っている自動車は、アウディとポルシェだった。
2024年7月8日記
BSスペシャル 深圳のハゲタカ
今の中国の一面を描いていたと感じる。
場所は深圳。中国におけるハイテク産業の街である。そこでも中国経済の不況の影響がある。飲食店の閉店があいついでいる。全国展開のスーパーマーケットが閉店する。(これは、ネット通販の普及、配送サービスということもあり、これはこれで興味深いことであるが。)
この街の中古の厨房機器とりあつかい業者のことだった。
中国経済が不況になったらなったでしたたかに生きていく中国人のたくましさ、というものを感じる。たぶん、これから中国経済が破綻することがあったとしても、このようなビジネスに生きる人びとは、しぶとく生きのびていくにちがない。
また、中国ならではというべき、商売の交渉のあり方をかいまみるところもあった。本心かどうかはわからないが、ビジネスではない、友情なのだ……ということを言っていた。さて、どこまで信用していいのか。
それにしても、深圳の街でも廃墟となった建築がたくさんある。ということは、この建設にたずさわった労働者たち……その多くは農民工なのだろうが……の生活はどうなっていくのだろう。この番組ではここのところに触れることはなかったが、失業者問題が、国家のゆくすえにかかわることは、歴史から学ぶことである。
四〇円のビールというのは、どうなのだろうか。すさまじいデフレというべきだろうか。
どうでもいいことだが、番組に映っていたもののなかで、日本のものというとカシオの電卓だけだった。載っている自動車は、アウディとポルシェだった。
2024年7月8日記
「東京 戦後ゼロ年」 ― 2024-07-13
2024年7月13日 當山日出夫
映像の世紀バタフライエフェクト 「東京 戦後ゼロ年」
昭和二〇年の終戦後、いわゆるパンパンといわれた女性たちがいたことは、広く知られていることである。これも、時代の流れとともに移り変わっている。かつては、そのような女性たちがいたことは周知の事実であったがゆえに、特にことさら表だって言うことは避けていた雰囲気があった。それが、忘れられようとする時代になると、逆に、そのような女性たちがいたことを、ことさら表面に出して語る傾向になる。(この意味では、従軍慰安婦をめぐる言説もこのような流れのなかでとらえることもできる。)
『星の流れに』(菊池章子)を知っている人は、いまどれぐらいいるだろうか。(わたしが持っているのは、ちあきなおみがカバーしたものであるが。)
アメリカの軍人相手の女性たちについて、カラーの映像で見るのは初めてかもしれない。番組で使っていたのは米軍側の映した映像資料であるが、このときに考えなければならないことは、なぜそのような女性たちが被写体として映っているのか、ということでもある。映像資料の社会的歴史的文化的な観点からの意味ということになる。
それから、このような女性たちが着物姿であったことも気になった。一般に、パンパンというと、派手な洋装をイメージすることが多いかと思うのだが、そのようなパンパンのイメージは、どのようにして形成されてきたものなのか、これはこれとして興味深いことである。
ラクチョウのお時の街頭でのインタビュー音声が残っている。パンパンは、当時の価値観において決して良い仕事ということではなかったけれども、違法であったわけではない。
闇市で売られていた品物はいったいどこからやってきたのだろうか。そのかなりは隠匿物資であったことになるが、戦時中のいろんな物資の管理や流通は、実際どうなっていたのだろうか。様々なとこころに隠されていたのだろう。
海から引き上げられた金塊は、その後いったいどうなったのだろうか。
闇市のカラー写真が残っていることは興味深い。何がどんな値段で売られていたのか、もっと分かると面白い。
戦後の人びとの生活というと、私は、『名もなく貧しく美しく』(松山善三)を思い出す。若いとき映画館で見た。
ただ、このような番組を作るとき、どうしても残っている映像資料に依拠することになる。そのため、都市部の人びとの生活を映すことになる。タイトルがまさに「東京 戦後ゼロ年」である。これはこれでいたしかたのないことではあるが、では、都市部以外、地方の農村などではどうだったのだろうか、ということも気になることである。
坂口安吾の『堕落論』を読んだのは、高校生のころだったろうか。
八月一五日の玉音放送のシーン。野外で人びとは起立して聞いていた。しかし、玉音放送の昭和天皇のことば(音声)だけで、日本がポツダム宣言を受諾し無条件降伏することになった、ということを理解できたのだろうか。この意味では、終戦のことを伝えるニュース映画があったことは、なるほどそうなのだろうと思う。八月一五日の玉音放送以外、NHKではどのような放送をしたのか。また、新聞はどうだったのか。おそらく、研究されていることかもしれないが、一般的な書物では分かりにくいことである。
2024年7月11日記
映像の世紀バタフライエフェクト 「東京 戦後ゼロ年」
昭和二〇年の終戦後、いわゆるパンパンといわれた女性たちがいたことは、広く知られていることである。これも、時代の流れとともに移り変わっている。かつては、そのような女性たちがいたことは周知の事実であったがゆえに、特にことさら表だって言うことは避けていた雰囲気があった。それが、忘れられようとする時代になると、逆に、そのような女性たちがいたことを、ことさら表面に出して語る傾向になる。(この意味では、従軍慰安婦をめぐる言説もこのような流れのなかでとらえることもできる。)
『星の流れに』(菊池章子)を知っている人は、いまどれぐらいいるだろうか。(わたしが持っているのは、ちあきなおみがカバーしたものであるが。)
アメリカの軍人相手の女性たちについて、カラーの映像で見るのは初めてかもしれない。番組で使っていたのは米軍側の映した映像資料であるが、このときに考えなければならないことは、なぜそのような女性たちが被写体として映っているのか、ということでもある。映像資料の社会的歴史的文化的な観点からの意味ということになる。
それから、このような女性たちが着物姿であったことも気になった。一般に、パンパンというと、派手な洋装をイメージすることが多いかと思うのだが、そのようなパンパンのイメージは、どのようにして形成されてきたものなのか、これはこれとして興味深いことである。
ラクチョウのお時の街頭でのインタビュー音声が残っている。パンパンは、当時の価値観において決して良い仕事ということではなかったけれども、違法であったわけではない。
闇市で売られていた品物はいったいどこからやってきたのだろうか。そのかなりは隠匿物資であったことになるが、戦時中のいろんな物資の管理や流通は、実際どうなっていたのだろうか。様々なとこころに隠されていたのだろう。
海から引き上げられた金塊は、その後いったいどうなったのだろうか。
闇市のカラー写真が残っていることは興味深い。何がどんな値段で売られていたのか、もっと分かると面白い。
戦後の人びとの生活というと、私は、『名もなく貧しく美しく』(松山善三)を思い出す。若いとき映画館で見た。
ただ、このような番組を作るとき、どうしても残っている映像資料に依拠することになる。そのため、都市部の人びとの生活を映すことになる。タイトルがまさに「東京 戦後ゼロ年」である。これはこれでいたしかたのないことではあるが、では、都市部以外、地方の農村などではどうだったのだろうか、ということも気になることである。
坂口安吾の『堕落論』を読んだのは、高校生のころだったろうか。
八月一五日の玉音放送のシーン。野外で人びとは起立して聞いていた。しかし、玉音放送の昭和天皇のことば(音声)だけで、日本がポツダム宣言を受諾し無条件降伏することになった、ということを理解できたのだろうか。この意味では、終戦のことを伝えるニュース映画があったことは、なるほどそうなのだろうと思う。八月一五日の玉音放送以外、NHKではどのような放送をしたのか。また、新聞はどうだったのか。おそらく、研究されていることかもしれないが、一般的な書物では分かりにくいことである。
2024年7月11日記
「課外授業ようこそ先輩 みんな生きていればいい」 ― 2024-07-13
2024年7月13日 當山日出夫
時をかけるテレビ 課外授業ようこそ先輩 みんな生きていればいい
思うことはいくつもある。だが、ここでは次のことだけを書いておきたい。
この番組を見て、私がテレビの画面で見ていたのは、福島智の横に座っている指点字通訳の人だった。
他者とのコミュニケーションの重要性はそのとおりである。この場合、ひょっとすると誤解や思い違いであるのかもしれないが、自分が他者とコミュニケーションできている、少なくとも、その可能性のある状態にあることを自覚できること、ということになるだろうか。さらにいえば、その場合の他者とは、現に生きている人間だけに限らず、過去の死者たちであるかもしれない。
このように一般化はしてみるものの、さしあたって自分のとなりに人がいて、その声が聞こえ、姿が目に見え、あるいは、その存在の気配を感じることができる……この原初的な感覚が基本となることはたしかだろう。
最初に書いたように、番組を見ながら気になったのは、番組の内容からはすこしはずれたところになるかもしれないが、福島智の横にいて指点字で通訳している人の、所作とか表情や視線の動きである。人がコミュニケーションを求めてきたときに即座に対応できるというのは、こういうふるまいのことなのかと、思うところがあった。(この意味では、最近のSNSでの、自分とは異なる立場の人への非難合戦は、本来の意味での人間のコミュニケーションとは対極的なあり方だと思わざるをえない。)
2024年7月12日記
時をかけるテレビ 課外授業ようこそ先輩 みんな生きていればいい
思うことはいくつもある。だが、ここでは次のことだけを書いておきたい。
この番組を見て、私がテレビの画面で見ていたのは、福島智の横に座っている指点字通訳の人だった。
他者とのコミュニケーションの重要性はそのとおりである。この場合、ひょっとすると誤解や思い違いであるのかもしれないが、自分が他者とコミュニケーションできている、少なくとも、その可能性のある状態にあることを自覚できること、ということになるだろうか。さらにいえば、その場合の他者とは、現に生きている人間だけに限らず、過去の死者たちであるかもしれない。
このように一般化はしてみるものの、さしあたって自分のとなりに人がいて、その声が聞こえ、姿が目に見え、あるいは、その存在の気配を感じることができる……この原初的な感覚が基本となることはたしかだろう。
最初に書いたように、番組を見ながら気になったのは、番組の内容からはすこしはずれたところになるかもしれないが、福島智の横にいて指点字で通訳している人の、所作とか表情や視線の動きである。人がコミュニケーションを求めてきたときに即座に対応できるというのは、こういうふるまいのことなのかと、思うところがあった。(この意味では、最近のSNSでの、自分とは異なる立場の人への非難合戦は、本来の意味での人間のコミュニケーションとは対極的なあり方だと思わざるをえない。)
2024年7月12日記
『虎に翼』「女房は山の神百石の位?」 ― 2024-07-14
2024年7月14日 當山日出夫
『虎に翼』「女房は山の神百石の位?」
あいかわらずこのドラマは視聴率はいいようであるし、SNSでは絶賛されている。それを見ていると、これまで朝ドラは見ていなかったが、このドラマは見ているというものがある。このような人たちをふくめての視聴者、視聴率ということになる。
私の感じるところとしては、特にきわだって面白いとは思わない。そんなにつまらないとも思わない。朝ドラとしては、普通の出来だと思っている。ただ、このドラマは、これまでの朝ドラとは違う作り方を考えて作ってあると感じるところはある。
SNSなどでは、あまり話題になっていないようなことについて、私の思うところを書いてみたいと思う。
大きなドラマの流れとしては、前の週で、ボスを倒して、新たなステージにはいったことになる。ボスは、この場合、穂高先生に設定されていた。ステージを新たにして、新たなパワーを得るために、アメリカに行ってくることになる。そして、イニシエーション(通過儀礼)を経て、生まれかわってさらにパワーアップして、次の段階をめざして旅に出る。イニシエーションは、この場合は家族会議による自己否定(これは擬制的な死でもある)である。擬死から再生して、次の目的地(新潟)へと旅立つ。
非常に分かりやすい物語の作り方である。あまりにも分かりやすいので、なんとなく馬鹿にされているような気がしないでもない。ほら、みんなが昔遊んだゲームとおんなじでしょ……と。
かつての自分の恩師が、成長したのちには、倒すべき宿敵として現れることになる、どこかで見たと思ったら、『オードリー』のなかの映画で、この設定が使ってあった。はっきりいって、『寅に翼』は昔のチャンバラ時代劇映画をなぞっているである。だから、分かりやすい。いろいろ新機軸で作ってあるドラマでありながら、意外とオーソドックスというかステレオタイプの作り方になっている。
ところで、ラジオ番組で寅子が言っていたことは、かなり重要である。最高裁長官が、家庭裁判所の仕事は女性にふさわしいと言ったのに対して、寅子は、全面的に否定する。ここで、ラジオの放送で家裁の判事補が最高裁長官にまっこうから反論するということの是非はおいておく。それよりも重要なことは、寅子は、家裁の仕事に男性女性の区別は関係ないと言っていた。その人間の適性で判断されるべきであると。
これは、裁判官として適切な仕事ができるなら、別に全員が男性であってもかまわない、あるいは、逆に女性ばかりであってもかまわない、ということになる。これは、一般に同意できることだろうか。
機会の平等が保証されているのならば、結果の平等は特に重要ではない、ということになる。機会の平等と結果の平等、これは重要な論点である。機会の平等は社会のなかで制度的にはっきりしていることであるが、結果の平等とはどのような状態であるのか、難しい問題をふくむかもしれない。単純に考えれば、結果的にも男女同数という形になるが、実際にはなかなかそうはならない。だからこそ、「ガラスの天井」として問題になる。そして、場合によっては強引なアファーマティブアクションの導入ということもある。
このような重要な問題をふくむ発言であったのだが、この論点をめぐって、このドラマをめぐる話題として大きく取りあげられることはなかったようである。これは何故なのだろう。女性の社会進出をめぐっては、今でも大きな論点となるところなのだが、ドラマのなかでは、寅子が最高裁長官にたてついたというエピソードで終わってしまっていた。
また、寅子が担当した離婚裁判。寅子は、男女平等にあつかって判断しますということを言っていた。裁判官が女性であるからといって、妻に有利になるようなことはない、と。
これはたしかにそのとおりのまさに正論である。しかし、男性と女性とで、微妙な心情の理解ということになると、違いがまったくないといっていいだろうか。このあたりは、男女の平等ということと関係して、かなりややこしい議論があることかもしれないと思うのだが、ドラマのなかでは、特にさらにつっこんで考えるという方向にはむかっていなかった。ここでは、最高裁長官が言った、女性の考え方や発想という観点が意味をもつかもしれないという部分である。
現代、首相が女性閣僚の任命のとき、女性ならではの感性、と言っただけで批判される時代である。見方によっては、一種のタブーになっている論点かもしれない。
その一方で、女性の医師であることを求める女性がいることも事実である。女医と書いてある看板は目にする。あるいは、女性であることを明示してあるような弁護士事務所の広告なども目にする。これは、社会の人びとの意識が遅れていると言っていいことになるのだろうか。
それから、戦後まもなくの離婚裁判である。決して男女は平等ではない。その数年前まで、姦通罪などがあったことになる。また、売春も違法ではなかった。このような時代背景を考えるならば、妻の不貞を、夫の場合とまったく同等に考えることは妥当なことなのだろうか。どちらに厳しくあるべきかということではなく、法的な平等と、人びとの意識においてどうであったかはまた考えるべきことかもしれない。その後、不貞が原因で離婚した男性が再婚するのと、女性の場合とでは、同じであるということでいいだろうか。
このときの寅子の語った、法の下の平等ということは、社会的な不平等を前提にした、あるいは、無視したことではなかったろうか。寅子は、このことについて考えた形跡はなかった。
ドラマは、不満を持った妻が剃刀をふりまわす、裁判所内での傷害未遂事件として終わってしまうことになっていた。そして、その結果、寅子は裁判官として法律的に判断を下すことなく終わった。このドラマでは、極力、寅子に法律的な判断をさせないように作っているようである。これで、リーガルエンターテイメントと言っていいのだろうか。
さらに、このような観点(この時代の男女の非対称性)から考えてみるならば、このドラマで、パンパン(占領下で主に米兵相手の街娼である)が出てきていないということは、考えてみるべきことだと思う。これまでの朝ドラで、パンパンが出ることは珍しいことではない。『虎に翼』の前作『ブギウギ』では、ラクチョウのおミネ、として登場して重要な役割であった。ちょっとさかのぼれば、『カーネーション』でも登場してきていた。特にドラマのなかで役が割り当てられているということではなくても、戦後の闇市の風景のなかに、見るからにそれとわかる派手な洋装の女性が映っていることはかなりあった。逆に、このような女性をまったく映さない戦後の街を映した作品もあった。これは、脚本、演出の方針なのであろう。
だが、今回の『虎に翼』では、パンパンは登場させるべき、すくなくとも、画面に映すべきだったと、私は思っている。なぜなら、このような女性たちこそ、いわゆる透明な存在として、寅子には見えなかった可能性があるからである。この時代、パンパンなどは違法ではなかった。だから、犯罪者として、少女であっても家庭裁判所の保護の対象となる少年としてはあつかわれることはなかった。寅子の家に道男がころがりこんできたのは、窃盗などの法律に規定された犯罪をおかしたからである。もし、少女が売春をしていたとしても、寅子にとっては、犯罪をおかしたという目で見ることはなかったはずである。逆に、自分で自立して仕事をして稼いでいたということになる。
無論、売春はほめられたことではないし、また、戦前からあった廃娼運動ということも考えなければならない。だが犯罪ではない以上、法律ではどうすることもできない。
はたして、街をあるく寅子には、パンパンの女性たちはどのようなものとして見えていたことになるのだろうか。ここは、是非ともドラマのなかに描いておいてほしかった部分である。街角にたたずむ少女のそばを、まったく無視して通り過ぎるのでもいい、あるいは、ちょっといやな顔をしてみせるのもいい、この少女たちをどうすることもできないのが法律であると、その限界を心のどこかで感じる寅子の姿を、伊藤沙莉なら演じてみせることができたはずである。
女性の権利、社会進出、ということをメッセージとして打ち出そうとしている、このドラマであるこそ、画面に一瞬でもいいから映しておくべきだったと私は思うのである。傷痍軍人に小銭をめぐむが、パンパンには気づかない(透明な存在)。そんな寅子であってもいいではないだろうか。寅子の人権意識は万能ではなかったかもしれない。そのような時代であったのである。傷痍軍人は映すが、パンパンは映さないという考え方には、私は同意できない。
このドラマは、戦後になってから世相を表現しなくなっている。戦前までは、ラジオのニュース、新聞などで、世相や歴史の流れを描いていた。戦後になって、東京裁判も、サンフランシスコ講和条約(日本の独立)も、朝鮮戦争も、まったく出てきていない。これはどうしたことなのだろうと思う。
世相を描くことがあってこそ、崔香淑/汐見香子のことも、よりいっそうきわだってくる。朝鮮戦争のことを報じる新聞記事が画面に映ることぐらいあってもよかったと思う。(だが、崔香淑の朝鮮での出自、社会的階層、出身地によっては、日本での暮らしも安心できるものではなかったかもしれない。だからこそ、日本で汐見香子として生きていくことになったのだろうが。)
私にとって、『虎に翼』は、朝鮮人女性が登場したドラマであるとともに、パンパンの登場しなかったドラマとして記憶することになると思う。
さて、次週以降、新潟に舞台を移して新たなステージなる。どんなドラマになるか期待して見ることにしよう。
2024年7月13日記
『虎に翼』「女房は山の神百石の位?」
あいかわらずこのドラマは視聴率はいいようであるし、SNSでは絶賛されている。それを見ていると、これまで朝ドラは見ていなかったが、このドラマは見ているというものがある。このような人たちをふくめての視聴者、視聴率ということになる。
私の感じるところとしては、特にきわだって面白いとは思わない。そんなにつまらないとも思わない。朝ドラとしては、普通の出来だと思っている。ただ、このドラマは、これまでの朝ドラとは違う作り方を考えて作ってあると感じるところはある。
SNSなどでは、あまり話題になっていないようなことについて、私の思うところを書いてみたいと思う。
大きなドラマの流れとしては、前の週で、ボスを倒して、新たなステージにはいったことになる。ボスは、この場合、穂高先生に設定されていた。ステージを新たにして、新たなパワーを得るために、アメリカに行ってくることになる。そして、イニシエーション(通過儀礼)を経て、生まれかわってさらにパワーアップして、次の段階をめざして旅に出る。イニシエーションは、この場合は家族会議による自己否定(これは擬制的な死でもある)である。擬死から再生して、次の目的地(新潟)へと旅立つ。
非常に分かりやすい物語の作り方である。あまりにも分かりやすいので、なんとなく馬鹿にされているような気がしないでもない。ほら、みんなが昔遊んだゲームとおんなじでしょ……と。
かつての自分の恩師が、成長したのちには、倒すべき宿敵として現れることになる、どこかで見たと思ったら、『オードリー』のなかの映画で、この設定が使ってあった。はっきりいって、『寅に翼』は昔のチャンバラ時代劇映画をなぞっているである。だから、分かりやすい。いろいろ新機軸で作ってあるドラマでありながら、意外とオーソドックスというかステレオタイプの作り方になっている。
ところで、ラジオ番組で寅子が言っていたことは、かなり重要である。最高裁長官が、家庭裁判所の仕事は女性にふさわしいと言ったのに対して、寅子は、全面的に否定する。ここで、ラジオの放送で家裁の判事補が最高裁長官にまっこうから反論するということの是非はおいておく。それよりも重要なことは、寅子は、家裁の仕事に男性女性の区別は関係ないと言っていた。その人間の適性で判断されるべきであると。
これは、裁判官として適切な仕事ができるなら、別に全員が男性であってもかまわない、あるいは、逆に女性ばかりであってもかまわない、ということになる。これは、一般に同意できることだろうか。
機会の平等が保証されているのならば、結果の平等は特に重要ではない、ということになる。機会の平等と結果の平等、これは重要な論点である。機会の平等は社会のなかで制度的にはっきりしていることであるが、結果の平等とはどのような状態であるのか、難しい問題をふくむかもしれない。単純に考えれば、結果的にも男女同数という形になるが、実際にはなかなかそうはならない。だからこそ、「ガラスの天井」として問題になる。そして、場合によっては強引なアファーマティブアクションの導入ということもある。
このような重要な問題をふくむ発言であったのだが、この論点をめぐって、このドラマをめぐる話題として大きく取りあげられることはなかったようである。これは何故なのだろう。女性の社会進出をめぐっては、今でも大きな論点となるところなのだが、ドラマのなかでは、寅子が最高裁長官にたてついたというエピソードで終わってしまっていた。
また、寅子が担当した離婚裁判。寅子は、男女平等にあつかって判断しますということを言っていた。裁判官が女性であるからといって、妻に有利になるようなことはない、と。
これはたしかにそのとおりのまさに正論である。しかし、男性と女性とで、微妙な心情の理解ということになると、違いがまったくないといっていいだろうか。このあたりは、男女の平等ということと関係して、かなりややこしい議論があることかもしれないと思うのだが、ドラマのなかでは、特にさらにつっこんで考えるという方向にはむかっていなかった。ここでは、最高裁長官が言った、女性の考え方や発想という観点が意味をもつかもしれないという部分である。
現代、首相が女性閣僚の任命のとき、女性ならではの感性、と言っただけで批判される時代である。見方によっては、一種のタブーになっている論点かもしれない。
その一方で、女性の医師であることを求める女性がいることも事実である。女医と書いてある看板は目にする。あるいは、女性であることを明示してあるような弁護士事務所の広告なども目にする。これは、社会の人びとの意識が遅れていると言っていいことになるのだろうか。
それから、戦後まもなくの離婚裁判である。決して男女は平等ではない。その数年前まで、姦通罪などがあったことになる。また、売春も違法ではなかった。このような時代背景を考えるならば、妻の不貞を、夫の場合とまったく同等に考えることは妥当なことなのだろうか。どちらに厳しくあるべきかということではなく、法的な平等と、人びとの意識においてどうであったかはまた考えるべきことかもしれない。その後、不貞が原因で離婚した男性が再婚するのと、女性の場合とでは、同じであるということでいいだろうか。
このときの寅子の語った、法の下の平等ということは、社会的な不平等を前提にした、あるいは、無視したことではなかったろうか。寅子は、このことについて考えた形跡はなかった。
ドラマは、不満を持った妻が剃刀をふりまわす、裁判所内での傷害未遂事件として終わってしまうことになっていた。そして、その結果、寅子は裁判官として法律的に判断を下すことなく終わった。このドラマでは、極力、寅子に法律的な判断をさせないように作っているようである。これで、リーガルエンターテイメントと言っていいのだろうか。
さらに、このような観点(この時代の男女の非対称性)から考えてみるならば、このドラマで、パンパン(占領下で主に米兵相手の街娼である)が出てきていないということは、考えてみるべきことだと思う。これまでの朝ドラで、パンパンが出ることは珍しいことではない。『虎に翼』の前作『ブギウギ』では、ラクチョウのおミネ、として登場して重要な役割であった。ちょっとさかのぼれば、『カーネーション』でも登場してきていた。特にドラマのなかで役が割り当てられているということではなくても、戦後の闇市の風景のなかに、見るからにそれとわかる派手な洋装の女性が映っていることはかなりあった。逆に、このような女性をまったく映さない戦後の街を映した作品もあった。これは、脚本、演出の方針なのであろう。
だが、今回の『虎に翼』では、パンパンは登場させるべき、すくなくとも、画面に映すべきだったと、私は思っている。なぜなら、このような女性たちこそ、いわゆる透明な存在として、寅子には見えなかった可能性があるからである。この時代、パンパンなどは違法ではなかった。だから、犯罪者として、少女であっても家庭裁判所の保護の対象となる少年としてはあつかわれることはなかった。寅子の家に道男がころがりこんできたのは、窃盗などの法律に規定された犯罪をおかしたからである。もし、少女が売春をしていたとしても、寅子にとっては、犯罪をおかしたという目で見ることはなかったはずである。逆に、自分で自立して仕事をして稼いでいたということになる。
無論、売春はほめられたことではないし、また、戦前からあった廃娼運動ということも考えなければならない。だが犯罪ではない以上、法律ではどうすることもできない。
はたして、街をあるく寅子には、パンパンの女性たちはどのようなものとして見えていたことになるのだろうか。ここは、是非ともドラマのなかに描いておいてほしかった部分である。街角にたたずむ少女のそばを、まったく無視して通り過ぎるのでもいい、あるいは、ちょっといやな顔をしてみせるのもいい、この少女たちをどうすることもできないのが法律であると、その限界を心のどこかで感じる寅子の姿を、伊藤沙莉なら演じてみせることができたはずである。
女性の権利、社会進出、ということをメッセージとして打ち出そうとしている、このドラマであるこそ、画面に一瞬でもいいから映しておくべきだったと私は思うのである。傷痍軍人に小銭をめぐむが、パンパンには気づかない(透明な存在)。そんな寅子であってもいいではないだろうか。寅子の人権意識は万能ではなかったかもしれない。そのような時代であったのである。傷痍軍人は映すが、パンパンは映さないという考え方には、私は同意できない。
このドラマは、戦後になってから世相を表現しなくなっている。戦前までは、ラジオのニュース、新聞などで、世相や歴史の流れを描いていた。戦後になって、東京裁判も、サンフランシスコ講和条約(日本の独立)も、朝鮮戦争も、まったく出てきていない。これはどうしたことなのだろうと思う。
世相を描くことがあってこそ、崔香淑/汐見香子のことも、よりいっそうきわだってくる。朝鮮戦争のことを報じる新聞記事が画面に映ることぐらいあってもよかったと思う。(だが、崔香淑の朝鮮での出自、社会的階層、出身地によっては、日本での暮らしも安心できるものではなかったかもしれない。だからこそ、日本で汐見香子として生きていくことになったのだろうが。)
私にとって、『虎に翼』は、朝鮮人女性が登場したドラマであるとともに、パンパンの登場しなかったドラマとして記憶することになると思う。
さて、次週以降、新潟に舞台を移して新たなステージなる。どんなドラマになるか期待して見ることにしよう。
2024年7月13日記
『光る君へ』「宿縁の命」 ― 2024-07-15
2024年7月15日 當山日出夫
『光る君へ』「宿縁の命」
う~ん、これまで大弐三位の父親は、藤原宣孝だと思ってきたのだが、はたして実際はどうだったのか。
まあ、平安時代の貴族のことである。現代の我々のような、厳格な一夫一婦制のもとでの、夫婦関係、親子関係を考えるべきではない、ということになるのだろう。そういえば、『源氏物語』でも、光源氏は結構いろんな女性に手を出している。いわゆる「いろごのみ」である。この場合、光源氏のいいところは、相手にしたどの女性についても、その後の面倒をきちんと見ていることである。この意味では、宣孝は光源氏に重なるところがある。
このドラマをこれまで見てきて、なるほどなあと思っているのが、詮子である。詮子と一条天皇のシーンは迫力があった。このような女性がいて、一条天皇がいて、ということになる。そして、これからの展開としては、彰子がその後の朝廷に君臨することになる、ということでいいのかなと思う。まだ、今の段階で彰子はその片鱗も見せていないが。
彰子の入内のシーンで牛車が映っていたが、これまでドラマのなかで牛車はほとんど登場してきていない。花山院が矢を射かけられる場面では出てきていた。牛車というのは、平安時代の貴族の生活を考えるとなくてはならないものだと思っているのだが、これはドラマ制作の予算の関係だろうか、ほとんど出てこない。賀茂の祭りのときの、牛車の争い……『源氏物語』に描かれる……など期待したところだが、難しいのかもしれない。
それにしても、まひろの家についてかねてから思っているのだが、あんなに水のすぐ上に建物を建てていて、大丈夫なのだろうか。前回の鴨川の洪水のときには、被害にあった。それもあるが、普段からあんなに湿気たところでは、建物がもたないと感じざるをえないのだけれど。
それから、彰子のところで、「閨房」と何度も言いすぎのように思うが、どうなのだろうか。
猫が久しぶりに登場してきていた。親(母親)の影響だろうか。入内するとき、猫は連れていけたのか。
出産のとき、定子の場合とまひろの場合とで、読経などの格差があるのは、そうかなと納得するところがあった。まあ、どちらも無事に産まれてよかったが。
出てくるだろうかと思って見ているのが、「六の宮の姫君」。芥川龍之介が小説に書いたので有名だが、もとの話しは、『今昔物語集』にある。頼った男に捨てられ哀れな最期をむかえることになる女性の話が、このドラマのなかに登場してきていてもいいように思う。
藤原実資は何事においても先例主義である。一方、安倍晴明は先例がなければ作ってしまえばいいという。このふたりが登場すると、このドラマは面白い。
2024年7月14日記
『光る君へ』「宿縁の命」
う~ん、これまで大弐三位の父親は、藤原宣孝だと思ってきたのだが、はたして実際はどうだったのか。
まあ、平安時代の貴族のことである。現代の我々のような、厳格な一夫一婦制のもとでの、夫婦関係、親子関係を考えるべきではない、ということになるのだろう。そういえば、『源氏物語』でも、光源氏は結構いろんな女性に手を出している。いわゆる「いろごのみ」である。この場合、光源氏のいいところは、相手にしたどの女性についても、その後の面倒をきちんと見ていることである。この意味では、宣孝は光源氏に重なるところがある。
このドラマをこれまで見てきて、なるほどなあと思っているのが、詮子である。詮子と一条天皇のシーンは迫力があった。このような女性がいて、一条天皇がいて、ということになる。そして、これからの展開としては、彰子がその後の朝廷に君臨することになる、ということでいいのかなと思う。まだ、今の段階で彰子はその片鱗も見せていないが。
彰子の入内のシーンで牛車が映っていたが、これまでドラマのなかで牛車はほとんど登場してきていない。花山院が矢を射かけられる場面では出てきていた。牛車というのは、平安時代の貴族の生活を考えるとなくてはならないものだと思っているのだが、これはドラマ制作の予算の関係だろうか、ほとんど出てこない。賀茂の祭りのときの、牛車の争い……『源氏物語』に描かれる……など期待したところだが、難しいのかもしれない。
それにしても、まひろの家についてかねてから思っているのだが、あんなに水のすぐ上に建物を建てていて、大丈夫なのだろうか。前回の鴨川の洪水のときには、被害にあった。それもあるが、普段からあんなに湿気たところでは、建物がもたないと感じざるをえないのだけれど。
それから、彰子のところで、「閨房」と何度も言いすぎのように思うが、どうなのだろうか。
猫が久しぶりに登場してきていた。親(母親)の影響だろうか。入内するとき、猫は連れていけたのか。
出産のとき、定子の場合とまひろの場合とで、読経などの格差があるのは、そうかなと納得するところがあった。まあ、どちらも無事に産まれてよかったが。
出てくるだろうかと思って見ているのが、「六の宮の姫君」。芥川龍之介が小説に書いたので有名だが、もとの話しは、『今昔物語集』にある。頼った男に捨てられ哀れな最期をむかえることになる女性の話が、このドラマのなかに登場してきていてもいいように思う。
藤原実資は何事においても先例主義である。一方、安倍晴明は先例がなければ作ってしまえばいいという。このふたりが登場すると、このドラマは面白い。
2024年7月14日記
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