『おむすび』「離れとってもつながっとうけん」2025-03-16

2025年3月16日 當山日出夫

『おむすび』「離れとってもつながっとうけん」

このドラマについては、賛否が分かれている。同じものを見ても感じ方が異なるのは確かなことだろう。だが、それ以前のこととして、このドラマは、何をどう伝えようとしているのか、どう表現しようとしているのか、というあたりがはっきりしない、ということがそもそもの問題かもしれない。

部分的なエピソードで、共感して、絶賛する人もいる一方で、何が言いたいのか分からないと、批判的に見る人もいる。

私の立場としては、このドラマを最初から見てきて、何をどう表現しようとして作っているのか、その意図がまったく混乱している、と感じることになる。そして、作り方が粗雑である。

金曜日まで見て、驚いたのが、新型コロナパンデミックが、この週で終わりになってしまったことである。2020年になって、クルーズ船での集団感染からはじまって、その後、緊急事態制限が解除になった時点で、終わった、ということになっていた。

だが、多くの人が体験したこととしては、本格的にコロナ禍といわれる状態になったのは、これからであったはずである。いったんは落ち着いたものの、その後急激に増え、翌年になってようやくワクチンの接種が始まり、なんとか感染者数が一定程度に収まってきたのが、2023年になってからであった。3~4年の間のことが、半年に満たない期間のことに短縮されてしまっている。(これは今でも完全に終わったわけではない。感染者は毎日出ている。NHKのHPを見れば分かることである。)

ドラマの進行の都合でそうなったということはありうるとしても、ここで問題になるのは、このコロナ禍の間に起こった、社会や人びとの気持ちの変化ということを、まったく無視することになってしまう。このときのことは、さまざまな形で、現在にまで、また、これからも影響を与えていくことになるはずだが、それを非常に矮小化していることになる。(強いていえば、同じことは、神戸の震災の描写にも、また、東日本大震災の描写も、言えることである。総合的にすべてを描くことは無理なのだが、エピソードのつまみ食いになってしまっていて、これらの出来事を描くことで、トータルとして何が言いたいのかが、まったく伝わってこない。)

ドラマで、コロナ禍を描くことは、今までほとんどなかった。この意味で、『おむすび』がこれを描いたことを、高く評価する人もいる。そういう人もいていいだろう。見ていて、たしかにあのころはそうだったなあ、と感じるところがあることは確かである。

しかし、エピソードのつまみ食いで、この週のなかに詰めこんだという印象がどうしてもある。

たとえば、聖人と、市役所の若林が、離れて指切りをするシーン。このころ、確かにソーシャルディスタンスということが、強く言われたときだったから、こういうことはあっただろう。だが、ドラマとして描くなら、それまでに、この二人が実際にリアルに指切りをするシーンが、話しの進行のなかで印象に残る場面としてあってこそ、価値があることになる。これが、なかったはずである。(あったのかもしれないが、思い出せない。)

結がおにぎりを作るシーンも同様である。これまでに、結が、家族のためにおにぎりを作る場面があり、それを、家族みんなで食べる場面がいくつかあって、その積み重ねがあってこそ、おにぎりを作るときにラップでくるむことになることが、生きてくる。そして、そうであれば、何の説明的なナレーションも必要がないし、見ている人に印象深いものになったはずである。

結が、突然、大阪で一人で暮らすと言い出すのも不自然である。これは、事前に家族に相談すべきことにちがいない(常識的な判断としては)。

花は、サッカーの練習もできなくなっているはずだが、このことをどう思っているか、出てこなかった。

聖人が仕事がひまになって、料理の腕があがって、作ったチャーハンを結のすむマンションまで翔也がとどける、というのも、無理なストーリーのように思える。愛子が糸島に行ってしまっているので、聖人の仕事は増えているはずである。店の仕事は、聖人と愛子の二人でなりたっているというのは、以前に、ドラマで描いていたことである。このことが無意味になってしまっている。人間の髪の毛は、コロナ禍など関係なく、一定に伸びるものだから、理髪店の仕事が、(ある程度は減っただろうが)激減するはずはなかったと思うのだが、どうだろうか。

結の仕事として増えたのは、食事のトレーを運ぶ仕事と、紙にメッセージを書く仕事ぐらいである。メニューの検討は、通常の管理栄養士の仕事のうちである。これが、そんなに過重な労働になり、家に帰って何もできないぐらい、というのは、どう考えても大げさである。(強いていえば、管理栄養士としてプロなら、自分の食事のことを考えられないといけない。たとえ、コンビニで買って帰るだけであっても、そこでの商品の選び方に、専門家としての知見があるべきである。もし結が疲れ果てていたとしても、ここの部分は妥協してはいけないところである。おそらく、もし結が四年生の大学で学んで管理栄養士を目指したということなら、学生のときに先生にたたきこまれたはずのことであろうと思う。)

もし、このドラマが、コロナ禍の人びとの生活の感覚を描こうとし意図していたなら、それに向けて、これまでに伏線となるべきこととして、描いておくべきことが多くあったはずだが、準備としてあるべきなのだが、それがまったくない。この週になって、クルーズ船のことから、いきなりコロナ禍のことを描こうとしても、それまでのことと連続して、ドラマとして何がいいたいのか、説得力に欠けることになってしまっている。

相変わらず、結は、病院の管理栄養士としての仕事が見えていない。まず、食品成分表が、これまでに出てきていない。神戸の栄養士の専門学校のときも、出てきていなかったはずである。病院で管理栄養士の仕事をするときには、オンラインのデータベースになっているころになるだろうが、PCでそれを見ている場面もない。

管理栄養士のプロなんだから、そんなものは頭のなかに全部入っている……ということなのかもしれない。しかし、もし、そうであっても、基本的なことは、その都度、間違いがないように確認するのが、本当のプロだろう。

食品成分表が画面のなかに出てこない、栄養士や、管理栄養士を主人公にしたドラマというのが、そもそもおかしいと思わないのだろうか。(まあ、六法がほとんど出てこない、リーガルエンターテイメントと称するドラマもあったのだから、それでもいいのかもしれないが。)

ところで、コロナ禍をドラマに描くことの難しさは、もっと本質的なところにある。

それは、社会の共同体と個人、それから、国家との関係にどうしても、ふみこまざるをえないからである。

以下、私の思っていることになるが……コロナ禍において、顕在化した問題の一つは、政府がもとめたのは主に自粛であって、法的な強力な規制があったということではなかったことがある。自粛要請が効力を発揮したのは、社会の、非常に強固な同調圧力があってのことである。人びとがマスクをする生活をするようになったのは、街を歩いて、他の人みんながしているから、その目を意識してのことである。日本の社会の同調圧力を、どう考えればいいのか、大きな課題となったことだと認識している。

神戸の震災のとき、東日本大震災のとき、人びとの助け合い、共同体の価値、絆、ということが、強く言われた。だが、この人びとの共同体こそが、場面によっては、強い同調圧力となって、人びとの行動を抑制することになる。これはいいことなのだろうか。このことについて、まだ結論は出ていないし、明確な問題提起という段階にもない。だが、多くの人は、この矛盾を感じとっているはずである。

もし、社会の共同体の同調圧力によらないとするならば、中国がやったように強権的に封じ込めるか、あるいは、韓国とか台湾でおこなわれたように、スマホを介して個人の行動を把握し、誘導することになるのか。これは、一歩まちがえば、政府による高度な監視社会ということにもなる。(コロナ禍という緊急事態だから許容されたということかもしれないが。)

この先にあるのは、ディストピアかもしれない。

感染症のパンデミックなどのとき、人びとは、何を感じ、どう行動するものなのか。これは、将来の社会を考えるときに、重要な課題である。

だから、コロナ禍のとき、あのときは、あんなだった、こんなふうだった、みんなこまった、という共感を得やすいエピソードの羅列で終わらせてしまうことは、社会の重要な問題から目をそらしてしまうことになってしまう。

人びとの助け合いの気持ちは、もちろん大事であるが、社会の共同体の持っている、強いていえば負の側面、同調圧力による抑圧ということが、あきらかになったのが、コロナ禍であったのであり、だからこそ、その描き方には、十分な配慮が必用であったと思うのである。怖いのは、コロナよりもむしろ世間の人の目である、という感覚が支配したのが、ちょっと前の日本であったともいえる。

コロナ禍をドラマで描こうとするならば、共同体と個人の問題、社会の監視の問題、同調圧力の問題、それから、具体的な政策(安倍晋三、菅義偉、岸田文雄の各政権)の検証、ということなどが必須になる。それを避けて、ただ、あのときは、こんなことがあったという、見る人が思い出して共感しやすいエピソードを並べただけの、非常に安直な作り方をしたとしか思えないのである。(朝ドラだからこの程度の描きかたでいいと思ったのなら、それはおかしいとしかいいようがない。)

ここでも、栄養士の専門学校の友達のことが出てきていない。東京の病院で働いているかもしれないし、飲食店をやっているかもしれないのだが、連絡し合って、お互いに情報交換するようなことがあればいいと思うのだが、それができない。やはり、栄養士から、無理に管理栄養士になる設定変更のためとしか思えない。

最後に思うこととしては、結や医療関係者が、コロナ禍をのりきるのに、ギャル精神で頑張ればなんとかなる、ということではなかった。これは、あたりまえである。であるならば、ドラマの最初の設定のギャルとしての結は、どこに行ってしまったことになるのだろうか。かろうじて、姉の歩にギャルをやりつづけさせて、話しのつじつまを合わせているだけである。

2025年3月15日記

『カーネーション』「奇跡」2025-03-16

2025年3月16日 當山日出夫

『カーネーション』「奇跡」

この週は、最晩年の糸子のことと、病院でのファッションショーのこと。

病院でのファッションショーというのは、奇抜なアイデアのようだが、実際にあったことらしい。先日、放送の、「偉人の年収」で小篠綾子をとりあげたとき、病院でファッションショーをやったとあった。これも、実際にあった出来事だからこそ、ドラマのなかで描けるということになるのかもしれない。

このドラマのいいところは、人間が年を取ることについて、肯定的に描いていることである。朝ドラのなかに高齢の登場人物が出てくることは多い。多くの場合、主人公の祖父母だったりする。たいていは、年をとっても元気である、ということが多い。特に、今、放送の『おむすび』は典型的に元気な老人である。

『カーネーション』では、糸子も八〇をゆうにこえて、元気といえば元気であるが、それでも、この年になると、杖をついて歩いている。なんとか、病院までは一人で行き来できるらしい。(これも、今の標準的な姿からすれば、かなり元気な方にはいるだろう。)そして、年はとっても、頭の方はしっかりしている。

印象に残るのは、病院での、総婦長さんとの会話。

最初にファッションショーの企画で、入院中の患者さんも出演してほしいと言った糸子に対して、総婦長さんは、ここは病院で病人が治療に専念すべき場所です、と言ってことわっていた。

次のときになると、糸子とだけの会話として、病院の医療といっても、しれていると述懐していた。現代の医療技術であっても、どうにもならないことがある。これを、日々の仕事のなかで体験しているからこそ言える台詞である。

それに対して、糸子も、服が人間に品格と自信と誇りを与えるといっても、それも、しれている、と語った。これは、昔、若い糸子が、洋服の作り方をミシンの先生にならったときに教わったことばである。これまで、このドラマは、このことばを軸に展開してきたといってもいい。しかし、それを、最後になって、糸子は否定しないまでも、その限界を感じていることになる。これは、やはり、これまで糸子の仕事をとおして、それぞれの時代ごとに、服が人間にどう影響するかということを、実践してきた、実際に服をデザインして作ってきたという、経験の積み重ねの描写があってこその、台詞である。

最後、実際のファッションショーのとき、末期がんの女性が登場することになるのだが、その姿を見て、糸子はマイクの前でしゃべることができなくなってしまう。そこで、状況を見てとった総婦長さんが、とっさに糸子に変わって原稿を読むことになる。最初は、ファッションショーに反対していた総婦長さんであったが、このショーの意義を理解して、そして、病院の看護のプロとしての判断であることになる。

このドラマのいいところは、プロの仕事を描いていることである。それは、一つ一つの場面の積み重ねがあってこそである。特に糸子については、実際にミシンで服を縫っているシーンが、何度となく出てきている。毎回、同じような場面であったかもしれないが、その積み重ねがあって、このドラマの重厚な人間観を生み出すことにつながっている。

2025年3月15日記

『カムカムエヴリバディ』「1983」「1983ー1984」2025-03-16

2025年3月16日 當山日出夫

『カムカムエヴリバディ』「1983」「1983ー1984」

高校生の夏休み、ひなたは虚無蔵のさそいをうけて、映画村でアルバイトをすることになる。そこで、映画村で働くひとたち、また、映画の撮影現場を目にすることになる。結局、高校を卒業して、映画村に就職して働くことになる。

『カムカムエヴリバディ』のひなた編、特に、映画村の部分をみると、先に再放送のあった『オードリー』へのリスペクトを、いたるところに感じる。1980年代、映画産業、なかでも、時代劇が衰退の方向にむかいつつあったころ、映画にたずさわる人びと……俳優、それもスターばかりではなく、大部屋の役者たちをふくめてであり、撮影の裏方のさまざまな仕事であり、また、事務的な仕事をするスタッフなど……いろんな人たちの協力があって、映画が出来ているのだが、その人たちの、それぞれの思いが、重層的に、そして、細やかに描かれていたと感じる。衰退していく業界であることを身をもって感じているからこそ、仕事への思いはひとしおである。

やはり興味深かったのは、映画の撮影シーン。映画を撮っているところを、映像として撮るということは、これまでも多くの作品でこころみられてきているところである。映画にたずさわる人びとをテーマにした映画もある。このドラマの場合、時代劇の撮影中に、ひなたと文四郎が飛び入りで加わって、撮影現場のなかで、時代劇とはなんであるか、見る人は何を楽しみみているのか……丁々発止でやりあうのは、斬新であると同時に、まさにこの時代のテレビ時代劇の本質にかかわる議論でもあった。斬新と言われた「木枯し紋次郎」であっても、「必殺」シリーズであっても、大局的には、一種の紋切り型の作りであったことは、たしかである。「水戸黄門」や「遠山の金さん」などは、徹底的にパターン化してあった。無論、これは、意図的にそうつくってあった。

美咲すみれ(安達祐実)がいい。下手な女優の役を、見事に演じている。それから、再放送で気づいたが、一恵の役が、三浦透子である。私は、いい女優さんだと思って見ている。

『オードリー』で晋八のうどん屋が出てきていたが、『カムカムエヴリバディ』では蕎麦屋になっている。そこで、気炎をあげる美咲すみれが語る、モモケンと虚無蔵の過去のこと。そして、それに重なるように、隣のテーブルにいた吉右衛門一家が話す、岡山での思い出。それは、実は、ひなたの母のるいと、祖母の安子の、過去にかかわる話しになる。ドラマを見ている人間には、あのシーンとして思い出すことになるが、しかし、このドラマのなかのひなたにとっては、知らない昔話である。ひなたは、自分の家族の過去のことについて、まだ知らないでいる。

虚無蔵がいい。大部屋俳優であるが、木刀をもっての立ち居振る舞いは、さすがである。そう演出してあるのだが、文四郎と比べると、歩き方、木刀の持ち方からして、レベルが違うことが分かる。

この週は、虚無蔵が映画のオーディションを受けると言ったところで終わっていた。結果は、先に見て知っているのだが、しかし、そう決意する虚無蔵の表情には迫力があった。

2025年3月14日記