BS世界のドキュメンタリー「ねらわれた図書館 アメリカ“分断の最前線”」 ― 2025-03-24
2025年3月24日 當山日出夫
BS世界のドキュメンタリー 「ねらわれた図書館 アメリカ“分断の最前線”」
図書館の問題というよりも、アメリカにおける、いわゆる右派と左派の対立の問題ということである。それが、表面化しているのが、図書館、特に学校の図書館の蔵書ということになる。
何度も書いているが、私の立場は次のとおりである。
人間は、自分で責任を負えないことで差別されてはならない。自由意志で選ぶことのできない要因によって、不当な扱いをうけてはならない。
性別や性自認、性的指向、というものは、人間が選ぶことのできないものの一つである。ほとんどの人間は、性別、性自認、性的指向などにおいて、ほとんど問題はない。だが、ごく一部の人については、少し違っていることがある。これは、本人が自分の意志で選んだ結果ではない。だから、このことによって、いわゆる性的マイノリティという人びとが、差別を受けることがあってはならない。
おそらく、上記の理屈なら、たいていの人は納得するだろう。
だが、さらに進んで、人間は、性自認や性的指向を、自分の自由意志で選ぶことが可能である。人間の自由意志による決定は何よりも尊重されなければならない。だから、その人間が自分の意志で選んだことによって、差別されてはならない。性的少数者といわれる場合でも、それは自分の意志によって決めることのできるものだから、差別があってはならない。
これは、どうだろうか。私は、この考え方には賛同しない。
そもそも人間の性については、生まれによって決まってしまっている部分もあるが、しかし、人間の性については、社会構築的要因による部分もある。性による役割分担とか、その性らしさ、という部分がそうである。また、文化的な環境によっては、いわゆる性的少数者に対する意識も、異なっていることがある。寛容な文化もあれば、厳しいところもある。また、これは歴史的にも変化するものである。
このようなことを前提に考えてみると、アメリカの社会のことは、どちらの側にたって考えて見るとしても、極端すぎるように思える。いわゆる右派の言い分は、あまりにも少数者のことを考慮しなさすぎである。その人たちは、望んでそうなっているわけではない。また、いわゆる左派の言い分は、逆に、あまりに単純にに人間の性について考えていると思える。
小学生ぐらいの子どもが、本当にトランスジェンダーとしての意識を確立しているのだろうか。いわゆる第二次性徴以前の段階である。無理矢理に強制することはないかもしれないが、十分に成人になるまで(精神的にも、肉体的にも)待って、本人をふくめて周囲の人びとで考える余裕があってもいいとは思う。
これに対して、いやそうではなく、自分の性自認や、性的指向に、違和感を感じたら、即座にそれに対応した医学的処置(性別変更の手術など)が必要である、というのなら、その科学的根拠をしめすべきだろう。少なくとも番組のなかでは、このような根拠について言及はなかった。また、日本で、いわゆる性的マイノリティについて語られる場合でも、観念先行であって、科学的根拠について説明されることは、一般にはないといってよい。
性にまつわることがらで、自分の自由意志で決められること、決めてよいこと、決められないこと、これらについての論点の整理が必要であり、その倫理的な規範は、社会や文化によっても異なること……この点についても多様性を認めるべきだと私は思うが、いわゆるリベラルの人たちは、この点についてだけは絶対に多様性があってはならない、ただ一つの価値観だけが正しいとする……このあたりの議論から考えなければならないことだと、私は思う。
また、子どもについて、男の子なら青い色が好きであるべきであり、赤を好む子どもは、性自認や性的指向において、考慮しなければならないというのは、どうだろうか。子どもの好き嫌いはいろいろであっていいと思う。性とは無関係の個性の問題だろう。この場合、性の多様性を言っていながら、実は、男性はこうあるべき、女性はこうあるべき、というステレオタイプの価値観にもとづいて判断しているとするならば、むしろ、多様性重視のリベラルといわれる人たちの考えていることの方が、より問題であると、私は思う。
性的多様性を認めないのは、進化論を認めないことと同列にあつかっていいことなのだろうか。ここは、生物における性の問題と、人間の文化における性の問題を、総合的にどう考えるかということであって、短絡的に二分法で判断していいこととは思えない。
番組の作り方としては、一見すると、両論併記の体裁をとりながら、実際は、いわゆるリベラル寄りの主張であり、その結果、むしろ、その言っていることの問題点が見えてくるということになっていたと、私には思える。
なお、アメリカの図書館で禁書があるのは、昔からである。サリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』も禁書扱いであった歴史がある。禁書の歴史は、これはこれで、改めて考えるべきことになる。
2025年3月12日記
BS世界のドキュメンタリー 「ねらわれた図書館 アメリカ“分断の最前線”」
図書館の問題というよりも、アメリカにおける、いわゆる右派と左派の対立の問題ということである。それが、表面化しているのが、図書館、特に学校の図書館の蔵書ということになる。
何度も書いているが、私の立場は次のとおりである。
人間は、自分で責任を負えないことで差別されてはならない。自由意志で選ぶことのできない要因によって、不当な扱いをうけてはならない。
性別や性自認、性的指向、というものは、人間が選ぶことのできないものの一つである。ほとんどの人間は、性別、性自認、性的指向などにおいて、ほとんど問題はない。だが、ごく一部の人については、少し違っていることがある。これは、本人が自分の意志で選んだ結果ではない。だから、このことによって、いわゆる性的マイノリティという人びとが、差別を受けることがあってはならない。
おそらく、上記の理屈なら、たいていの人は納得するだろう。
だが、さらに進んで、人間は、性自認や性的指向を、自分の自由意志で選ぶことが可能である。人間の自由意志による決定は何よりも尊重されなければならない。だから、その人間が自分の意志で選んだことによって、差別されてはならない。性的少数者といわれる場合でも、それは自分の意志によって決めることのできるものだから、差別があってはならない。
これは、どうだろうか。私は、この考え方には賛同しない。
そもそも人間の性については、生まれによって決まってしまっている部分もあるが、しかし、人間の性については、社会構築的要因による部分もある。性による役割分担とか、その性らしさ、という部分がそうである。また、文化的な環境によっては、いわゆる性的少数者に対する意識も、異なっていることがある。寛容な文化もあれば、厳しいところもある。また、これは歴史的にも変化するものである。
このようなことを前提に考えてみると、アメリカの社会のことは、どちらの側にたって考えて見るとしても、極端すぎるように思える。いわゆる右派の言い分は、あまりにも少数者のことを考慮しなさすぎである。その人たちは、望んでそうなっているわけではない。また、いわゆる左派の言い分は、逆に、あまりに単純にに人間の性について考えていると思える。
小学生ぐらいの子どもが、本当にトランスジェンダーとしての意識を確立しているのだろうか。いわゆる第二次性徴以前の段階である。無理矢理に強制することはないかもしれないが、十分に成人になるまで(精神的にも、肉体的にも)待って、本人をふくめて周囲の人びとで考える余裕があってもいいとは思う。
これに対して、いやそうではなく、自分の性自認や、性的指向に、違和感を感じたら、即座にそれに対応した医学的処置(性別変更の手術など)が必要である、というのなら、その科学的根拠をしめすべきだろう。少なくとも番組のなかでは、このような根拠について言及はなかった。また、日本で、いわゆる性的マイノリティについて語られる場合でも、観念先行であって、科学的根拠について説明されることは、一般にはないといってよい。
性にまつわることがらで、自分の自由意志で決められること、決めてよいこと、決められないこと、これらについての論点の整理が必要であり、その倫理的な規範は、社会や文化によっても異なること……この点についても多様性を認めるべきだと私は思うが、いわゆるリベラルの人たちは、この点についてだけは絶対に多様性があってはならない、ただ一つの価値観だけが正しいとする……このあたりの議論から考えなければならないことだと、私は思う。
また、子どもについて、男の子なら青い色が好きであるべきであり、赤を好む子どもは、性自認や性的指向において、考慮しなければならないというのは、どうだろうか。子どもの好き嫌いはいろいろであっていいと思う。性とは無関係の個性の問題だろう。この場合、性の多様性を言っていながら、実は、男性はこうあるべき、女性はこうあるべき、というステレオタイプの価値観にもとづいて判断しているとするならば、むしろ、多様性重視のリベラルといわれる人たちの考えていることの方が、より問題であると、私は思う。
性的多様性を認めないのは、進化論を認めないことと同列にあつかっていいことなのだろうか。ここは、生物における性の問題と、人間の文化における性の問題を、総合的にどう考えるかということであって、短絡的に二分法で判断していいこととは思えない。
番組の作り方としては、一見すると、両論併記の体裁をとりながら、実際は、いわゆるリベラル寄りの主張であり、その結果、むしろ、その言っていることの問題点が見えてくるということになっていたと、私には思える。
なお、アメリカの図書館で禁書があるのは、昔からである。サリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』も禁書扱いであった歴史がある。禁書の歴史は、これはこれで、改めて考えるべきことになる。
2025年3月12日記
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