梅の花2020-03-11

2020-03-11 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日なので写真の日。今日は梅の花である。

前回は、
やまもも書斎記 2020年3月4日
ヤツデ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/03/04/9220464

我が家にある梅の花がようやく咲いた。毎年、花を咲かせる。世間の梅の花のニュースを見ていると、そう早くもなく遅くもなく、といったところだろうか。今年の冬は暖かい。そのせいか、我が家の梅の花の開花も、例年よりは早い。去年撮った写真と比べてみると、十日ほどは早いだろうか。

八重咲きの紅梅である。きれいに花の咲いたときを写真に撮ろうと思ってはいるのだが、どうもうまくいかない。ここしばらく雨の日が多いような気がする。そのせいか、花びらの形がきれいに整ったものを見つけるのが難しい。

これも、枝の高いところの花はきれいに咲いているようなのだが、しかし、写真に撮るとなると、目の高さぐらいに咲いているものになる。また、ちょうど建物の日陰になる位置にあるせいか、写真に撮っても、なかなか思ったとおりの色にならない。

写真に撮るとき、特にレタッチなどしないことにしている。そうはいっても、現像処理のときにホワイトバランスを調整したり、露出の調整、色味を変更したりのことはしてみる。

同じ日に写した写真でも、主にホワイトバランスの調整で、それぞれに花の色合いが異なっている。日陰にあるものと、日のあたっているところのものでは、色が違っている。適当に調整はしてみるものの、写した写真全体で、同じ色になるようにはしていない。

庭を見ると、そろそろ木瓜の花も咲き始めている。

梅

梅

梅

梅

梅

梅

梅

Nikon D500
TAMRON SP 90mm F/2.8 Di MACRO 1:1 VC USD

2020年3月10日記

追記 2020-03-18
この続きは、
やまもも書斎記 2020年3月18日
ジンチョウゲ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/03/18/9225375

『放浪記』林芙美子2020-03-12

2020-03-12 當山日出夫(とうやまひでお)

放浪記

林芙美子.『放浪記』(新潮文庫).新潮社.1979(2002.改版)
https://www.shinchosha.co.jp/book/106101/

トルストイの『復活』を読んだら、カチューシャの唄のことを思い出した。私が、カチューシャの唄を憶えたのは、『放浪記』であったと記憶する。『放浪記』は、これまでに二~三回は読んでいるかと思うが、新しくなった本で再度読んでみることにした。

やまもも書斎記 2020年3月5日
『復活』(上)トルストイ/岩波文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/03/05/9220796

やまもも書斎記 2020年3月6日
『復活』(下)トルストイ/岩波文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/03/06/9221152

『放浪記』は、たしか高校のときの国語の教科書にあったように憶えている。その冒頭の部分……私には故郷がないということ……このことは、憶えている。それから、幼いときのこととして、家計を助けるために行商に出たことなど。その当時の直方の炭坑町の描写なども記憶にある。

それから、川本三郎の『林芙美子の昭和』が出たときには、買って読んでいる。探せばこの本はまだどこかにあるはずである。

さて、『放浪記』であるが……特にストーリーらしいストーリーもないような、かなり大部になる作品であるが、全部ページを繰ってしまった。そして、最終的には、この作品を読みふけっている自分に気付くことになる。

読んで思うことを書いて見るならば、次の二点であろうか。

第一に、社会の底辺とでもいうべき生活を見つめるリアリズムである。

「放浪者」である林芙美子は、定住して職につくということをしていない。安下宿か木賃宿を渡り歩く生活である。その生活はといえば、カフェーの女給までしている。読んでいると、これ以上落ちるところといったら玉の井で体を売るしかない、そんな生活をしている。

大正から昭和にかけての、主に東京の貧民(このようなことばは今は使わないだろうが)の生活として読んで、これはこれとして、非常に興味深いものがある。

第二に、リアルに貧乏生活を描いていながら、同時にただよっている詩情である。

作品中に、いくつかの詩も掲載になっている。だが、それよりも、ただあてどない毎日のことを綴っている文章の行間から感じるのは、詩情である。読みながらふと文学的な感銘を感じるのは、この詩情に共感するからである。

以上の二つの側面……リアリズムの精神と、詩情と、この一見するとあまり両立しないように思える要素が、見事に融合して『放浪記』という文学を形作っている。

ところで、『放浪記』といえば、舞台のことを思う。森光子が演じていた。が、私は、この舞台を見たことがない。(基本的に演劇とは無縁の生活を送ってきたといっていいだろう。)今にして思えば、何かきっかけをつくって、舞台を見ておくべきだったかという気もしている。

2020年3月9日記

『教科書名短篇-人間の情景-』中公文庫2020-03-13

2020-03-13 當山日出夫(とうやまひでお)

教科書名短篇-人間の情景-

中央公論新社(編).『教科書名短篇-人間の情景-』(中公文庫).中央公論新社.2016
http://www.chuko.co.jp/bunko/2016/04/206246.html

ふと目についたので読んでみることにした。これは、中学校の国語教科書に採録された短編小説のアンソロジーである。収録してあるのは次の作品。

無名の人 司馬遼太郎
ある情熱 司馬遼太郎
最後の一句 森鷗外
高瀬舟 森鷗外
鼓くらべ 山本周五郎
内蔵充留守 山本周五郎
形 菊池寛
信念 武田泰淳
ヴェロニカ 遠藤周作
前野良沢 吉村昭
赤帯の話 梅崎春生
風になったお母さん 野坂昭如

このなかで、文学史的に一番有名なのは、「高瀬舟」(森鷗外)であろう。この本で私も久しぶりに読んだことになる。読んでみて、ああなるほどこういう小説であったのかと、改めて得心のいったところがある。そして、この「高瀬舟」は、中学生に読ませていい小説であると強く感じた。

自分とは価値観のことなる人に接したときどうあるべきなのか……一般化すれば、このような問いかけをこの小説は描いている。具体的に、この小説の内容に則していうならば、金銭感覚であり、安楽死の問題ということになる。だが、このようなテーマだけに限ってこの小説を読むことはないかと思う。もっと広く、人間として生きていくための価値観、その多様性という方向から読まれるべきではないだろうか。

これからの社会、多様性の尊重ということがもとめられる。そのときに必要になるのは、想像力である。自分とは異なる価値観をもつ人に対して、どのような想像力でもって接することがもとめられるのか。ここのところを涵養するものとして、「文学」というものがあってよい。

今、日本の国語教育は大きな岐路にたっている。中等教育において、これから、「文学」がどのように教えられることになるのか、一部には危機感を持っている人もいる。

私としては、多様性の尊重という観点からこそ、これからの「文学」の教育はなされる必要があると思っている。この意味において、「高瀬舟」は、これからも、中学生や高校生には読まれ続けて欲しい。

それから、読んで印象に残ったのは、「内蔵充留守」(山本周五郎)である。最後のオチの部分は読みながらなんとなく推測できてしまうのであるが、しかし、これも人が人として世の中で生きていくためには、何が必要なのか、きわめて分かりやすく、そして、面白く描いている。

最後に収録になっている、「風になったお母さん」(野坂昭如)。これは、短い作品だが、思わず読みふけってしまった。『火垂るの墓』につらなる戦争のこと、そのなかでも特に子どもに題材をとった作品である。独特の文体と相まって、確固たる文学の世界を構築している。

見てみると、この本の姉妹編の文庫、『教科書名短篇-少年時代-』も刊行になっている。これも読んでみたいと思う。

2020年3月9日記

追記 2020-03-14
この続きは、
やまもも書斎記 2020年3月14日
『教科書名短篇-少年時代-』中公文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/03/14/9223989

『教科書名短篇-少年時代-』中公文庫2020-03-14

2020-03-14 當山日出夫(とうやまひでお)

教科書名短篇-少年時代-

中央公論新社(編).『教科書名短篇-少年時代-』(中公文庫).中央公論新社.2016
http://www.chuko.co.jp/bunko/2016/04/206247.html

続きである。
やまもも書斎記 2020年3月13日
『教科書名短篇-人間の情景-』中公文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/03/13/9223694

先に読んだ本と姉妹編ということになる。収めてあるのは次の作品。

少年の日の思い出 ヘルマン・ヘッセ/高橋健二訳
胡桃割り 永井龍男
晩夏 井上靖
子どもたち 長谷川四郎
サアカスの馬 安岡章太郎
童謡 吉行淳之介
神馬 竹西寛子
夏の葬列 山川方夫
盆土産 三浦哲郎
幼年時代 柏原兵三
あこがれ 阿部昭
故郷 魯迅/竹内好訳

読んでみて思うことは、次の二点になるだろうか。

第一には、中学の教科書にこれほど文学的な作品が収録されているのかという驚きのようなものである。どの作品も、申し分ない。文学的にすぐれている。おそらく、アンソロジー全体としての文学的な良さとしては、先に読んだ『教科書名短篇-人間の情景-』よりも、すぐれている。そして、これを読むと、少年のとき、子どものときのことを描くというのが、日本の近代文学のなかで、一つの流れとしてあったことが実感される。

第二には、日本文学、特に近代小説における子どもの描き方である。子どもの世界のことを描く、その感性のみずみずしさというところに、主眼がある。これはこれとして、一つの文学のあり方なのであろう。さて、このような傾向の文学……少年文学とでもいおうか……が、世界の他の国の文学においてどうであるのか、私は知り得ない。しかし、このようなアンソロジーとして示されると、確かにこれは、一つの日本文学のあり方であると感じる。

以上の二点が、読んで思ったことなどである。

おそらく、このようなアンソロジーがなければ、知らずにすんでしまった作品がほとんどである。

ただ、ここに収録の作品のうち、「故郷」(魯迅)は、憶えている。これは確か教科書で読んだだろうか。この作品だけは、ちょっと他の作品……主に日本の近代小説……とは、趣が違う。魯迅についても、読みなおしてみたいと思う。

2020年3月12日記

『スカーレット』あれこれ「揺るぎない強さ」2020-03-15

2020-03-15 當山日出夫(とうやまひでお)

『スカーレット』第23週「揺るぎない強さ」
https://www.nhk.or.jp/scarlet/story/index23_200309.html

前回は、
やまもも書斎記 2020年3月8日
『スカーレット』あれこれ「いとおしい時間」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/03/08/9221842

ここしばらくは、朝の八時からの放送を見ている。『スカーレット』につづいて、『あさイチ』を見る。どうもこの週では、近江アナが神妙な顔つきであった。少なくとも笑いでドラマのつづきを受けるということはなかった。

朝ドラに病人が出てこないということはないのだが、しかし、『スカーレット』のように難病……決して不治の病ということではないのだが……との闘病を描いたものは、近年ではなかったように思う。この週においては、どの回も、緊張の一五分であった。

この週では、喜美子の母親としての面を強く描いていた。子どもが病気になったとき、どう感じるのか、何を思うのか、ここのところをじっくりと、ゆっくりと描いていたと感じる。また、周囲の人びと、父親の八郎、それから、百合子、直子、さらには、真奈……これらの人びとの心情が、丁寧に描かれていたと感じる。

そして、安心して見ていられたのは、医師の大崎茂義(稲垣吾郎)の存在がある。医師は、くじけそうになる患者のこころをささえる、揺るぎない強さが必要であると語っていたのが印象に残っている。かなりシリアスな展開のこのドラマを見ていて、気持ちが安らぐのは、この大崎医師があってのことと強く感じている。

さて、このドラマも、あと二週である。武志はどうなるのか。次週は、いろいろと懐かしいメンバーも登場するようである。楽しみに見ることにしよう。

2020年3月14日記

追記 2020-03-22
この続きは、
やまもも書斎記 2020年3月22日
『スカーレット』あれこれ「小さな希望を集めて」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/03/22/9226839

『源氏物語』岩波文庫(一)2020-03-16

2020-03-16 當山日出夫(とうやまひでお)

源氏物語(1)

柳井滋(他)(校注).『源氏物語(一)』(岩波文庫).岩波書店.2017
https://www.iwanami.co.jp/book/b297933.html

昨年(二〇一九)は、『源氏物語』を二回くりかえして読んだ。ひたすら順番に最初から最後までページを繰ることをしてみた。読んだ本は、新潮日本古典集成である。

他のテクストでも『源氏物語』を読んでおきたいと思って、岩波文庫を手にした。全部で九冊になる予定で、今年(二〇二〇年)になってから、七冊目が刊行になった。「宇治十帖」を残して、本編は全部そろっている。これで、ともかくも読んでみることにした。

岩波文庫の第一冊は、「桐壺」から「末摘花」までをおさめる。

読んで、その注釈を見て気になったことを書いてみる。二点ほどあげてみる。

第一には、「夕顔」の巻で、「六条の女」という言い方がしてある。これは、従来の注釈書では、「六条の御息所」であったところである。

これは、『源氏物語』の成立論、あるいは、受容史とも関連するが……たしかに、「桐壺」から順番に読んでいくならば、まだ「夕顔」の巻では、「六条の御息所」は、この名前では登場していない。この意味では、新しい岩波文庫は、『源氏物語』を順番に読んで行くという主義で注釈をほどこしてあると考えられる。これはこれで一つの立場ではあろう。

だが、このような読み方をするのならば、この立場を取るということを、明記しておくべきかもしれない。

第二には、「草子地」ということばを使っていないことである。

物語の作者、あるいは、語り手が、ふと表面に顔を出して、読者に対してことばに出す部分である。これを、旧来の『源氏物語』の注釈では、「草子地」といっていた。新潮日本古典集成の注釈などでは、その頭注で、「草子地」ということばで説明してあった。しかし、岩波文庫は、この用語を用いていない。そのかわりに、「作者」「語り手」ということで処理してある。

たぶん、「草子地」ということばを使わないことで、旧来の『源氏物語』の注釈から距離を置こうとしているのだろうと思われる。

以上の二点が、岩波文庫の『源氏物語』……これが、現在では最新の『源氏物語』の注釈書ということになるであろう……を読んで気のついたところである。

「六条の女」という言い方にしても、また、「草子地」ということばを使わないということにしても、この新しい注釈は、これまでの『源氏物語』の読み方から離れて、新しい知見で臨もうという意図があるようだ。注釈のいくつかのことばについてみても、従来の注釈書ではない解釈を採用したところが、かなり目につく。

ところで、「桐壺」から「末摘花」までを読んで思うこととして、三つばかり書いてみると、

第一には、「帚木」の「雨夜の品定め」の難解さである。若いころから、『源氏物語』は、折りに触れて手にすることがあった。そのなかで、「雨夜の品定め」の部分がどうにも理解しづらい。その思いは、新しい注釈で読んでも変わらない。

ストーリーの展開のうえでは、光源氏が、夕顔などの受領階層の娘を相手にすることになる伏線ということになるのだろうし、さらに具体的には、常夏という娘の存在が暗示されることになっている。いわゆる玉鬘系の物語の部分の出発点になるところである。

しかし、常夏という娘のことをいうためだけだとしても、「雨夜の品定め」の部分は、あまりにも余計な話しが多いという気がする。いったいなぜ、このような難解で、あるいは、無駄とも思えるような部分が書かれたのだろうか。

第二には、「若紫」において、まだ幼い少女の紫上を、光源氏が抱いて、成長したらきっと美人になるにちがいない、自分のもとで思い通りに育ててみたい、自分のところに引き取りたいと思うところ。このような箇所、確かに、思わず作品の中で読みふけってしまうような部分なのだが、ひるがえって考えてみるならば、このようなことは、今日の価値観からすれば、これは犯罪である。未成年者の誘拐に他ならないし、あるいは、一種、猟奇的な印象さえある。極限すれば、小児性愛でもある。

だが、そうは思ってみても、思わずに作品に読みふけってしまうというのは、まさに、これが文学であるということなのであろう。

第三には、「末摘花」において、その筆跡、あるいは、歌の書き方への言及である。古風な女ということになっている末摘花は、その書く歌もまた古風である。文字(仮名)の書き方などが、時代を感じさせるということになっている。

『源氏物語』自体が、その物語の設定は、一昔前の時代設定で書かれている。その物語中にあって、さらに古風なスタイルの文字の書き方というのは、やはり平安朝にあっても、その時代の流行とでもいうべき文字があったことを示すものなのであろう。

現代の国語学、日本語学において、単純に、万葉仮名(真仮名)から、草仮名、そして、平仮名へと変化して、文字(仮名)が成立したとは考えることはない。この経緯については、もっと複雑なところがあることが指摘されている。平仮名が成立して、それを使いこなして『源氏物語』が書かれたとしても、その時代にあっても、仮名とは、かなり多様な書きぶりをふくんでいたものと考えるべきだろう。

以上の、三点ぐらいが、「桐壺」から「末摘花」までを読んで思ったことなどである。つづけて、岩波文庫の本で読んでみたい。次の冊で「須磨」「明石」までたどりつくことになる。

2020年1月25日記

追記 2020-03-30
この続きは、
やまもも書斎記 2020年3月30日
『源氏物語』岩波文庫(二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/03/30/9229589

『麒麟がくる』あれこれ「信長の失敗」2020-03-17

2020-03-17 當山日出夫(とうやまひでお)

『麒麟がくる』第九回「信長の失敗」
https://www.nhk.or.jp/kirin/story/9.html

前回は、
やまもも書斎記 2020年3月10日
『麒麟がくる』あれこれ「同盟のゆくえ」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/03/10/9222597

この回は、主人公の光秀があまり登場していなかった。信長と帰蝶がメインだったというべきだろうか。そして、熙子の登場があった。それから、脚本がいつもと違っていた。

織田信長も、また、帰蝶も、これまで幾度となくドラマで描かれてきている。これまでのドラマなどでの信長のイメージとは違った新鮮なものを感じる。海から登場してきたシーンがそうでっあった。この『麒麟がくる』でも「うつけ」ということだが、しかし領民には慕われているようだ。が、父の信秀との関係が今一つうまくいっていない。

ところで、帰蝶であるが、違和感なくこのドラマの主要な登場人物の一人となっている。

また、もう一つの男女の関係……光秀と熙子……熙子の登場は、この回が最初ということになるが、これもまた、初々しさがうまく表現されていたように思う。熙子の初々しさが、これから、光秀の人生にどうかかわっていくことになるのか、興味のあるところである。が、熙子が登場してきたところで、帰蝶や、駒の、光秀に対する思いが、より一層複雑なものになってくるだろう。戦国乱世の武将のドラマであるが、その中における、男女の機微をどう描くか、これも見どころの一つかもしれない。

そして、菊丸は、やはりただの農民ではなかった。あるいは、このドラマの展開の上で、一番のキーとなる人物かもしれない。菊丸の視点で見たとき、尾張・美濃・三河・駿河といったあたりの戦国大名の動向がどのように見えてくるのだろうか。

歴史の結果が分かっているとはいっても、これはドラマとしてどのように面白く描いてみせるか、かなり期待できそうだと思う。また、いよいよ伊呂波太夫の登場になりそうである。次回以降を楽しみに見ることにしよう。

2020年3月16日記

追記 2020-03-24
この続きは、
やまもも書斎記 2020年3月24日
『麒麟がくる』あれこれ「ひとりぼっちの若君」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/03/24/9227620

ジンチョウゲ2020-03-18

2020-03-18 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日は写真の日。今日はジンチョウゲである。

前回は、
やまもも書斎記 2020年3月11日
梅の花
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/03/11/9222952

この花も今年は例年より早く花がさいたかと思う。梅の花も早く咲いている。木瓜も咲いた。桜ももうじき咲きそうになってきている。

冬のうち、まだつぼみというときから時々写真に撮ってきた。白い花が咲くのもいいが、それまでのつぼみのときの方が、写真に撮って絵になると感じることもある。ともあれ、この木は、我が家の玄関を出たところに植わっているので、ほぼ毎日目にする。今がちょうど満開のときであろうか。

使っているレンズは、タムロンの90ミリ。最近はもっぱらこのレンズを使うことが多い。カメラ(Nikon D500)につけっぱなしに近い。普通にとっているが、現像処理のときに、露出を「-1/3」に設定している。花が白いので、そうしている。これは、撮影のときにあらかじめ露出補正しておいた方がいいことなのかもしれないが、+-1/3程度の補正は、RAWデータに対しておこなうことにしている。

ジンチョウゲ

ジンチョウゲ

ジンチョウゲ

ジンチョウゲ

ジンチョウゲ

Nikon D500
TAMRON SP 90mm F/2.8 Di MACRO 1:1 VC USD

2020年3月17日記

追記 2020-03-25
この続きは、
やまもも書斎記 2020年3月25日
木瓜
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/03/25/9227926

『銀の匙』中勘助2020-03-19

2020-03-19 當山日出夫(とうやまひでお)

銀の匙

中勘助.『銀の匙』(岩波文庫).岩波書店.1935(1999.改版)
https://www.iwanami.co.jp/book/b249200.html

この作品、若い時に読んだような記憶があるのだが、どうもはっきりとは憶えていない。新しい岩波文庫版で読んでみることした。

岩波文庫版の解説は、和辻哲郎となっている。それによると、この作品を夏目漱石が激賞したとある。このあたりの事情については、「漱石全集」で改めて確認しておきたいと思う。

私が、今この作品を読んで感じるとことは、基本的に次の二つである。

第一に、ヒューマニズム。

子どものときのことの回想という形式をとっている。その子どもの目にうつるこの人間の世界が描かれる。ここにあるのは、人間についての温かなまなざしである。それを、現代の概念でいうならば、ヒューマニズムといっていいだろう。

第二、叙情性。

自然描写が美しい。子どもの目で見た、その生活の身近にある季節の風物の描写が、なんともいえずみずみずしく新鮮である。すぐれた叙情性の作品である。

以上の二つ……ヒューマニズムと叙情性を、私は、この作品に感じ取る。

そしてさらに書いてみるならば……この作品は、「子ども」の世界のことを描いている。「子ども」の世界のことを、「子ども」の視点、発想で描ききっている。ここのところに、この作品の価値があるのだろう。

だが、それだけではないと思う。読みながら、ふと感じるのは、その「子ども」の世界を描いている「子ども」の視点、それを見ている大人になった作者の視線というものが、時折ふと感じるところがある。この作品が、単なる「子ども」の物語に終わっていないのは、この大人の視線が、屈折した形で織り込まれているからだろうと思う。

2020年3月9日記

『雨天炎天』村上春樹2020-03-20

2020-03-20 當山日出夫(とうやまひでお)

雨天炎天

村上春樹.『雨天炎天-ギリシャ・トルコ辺境紀行-』(新潮文庫).新潮社.1991(新潮社.1990)
https://www.shinchosha.co.jp/book/100139/

続きである。
やまもも書斎記 2020年3月7日
『極北』マーセル・セロー/村上春樹(訳)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/03/07/9221457

ギリシャとトルコの旅行記である。

この本の刊行が、1991年。つまり、湾岸戦争の直後、ということになる。中近東あたりは、不穏な情勢にあったと思うのだが、しかし、この本は、そんなことはまったく感じさせない。このあたりに、村上春樹の作品の持つ、ある種の世界的な普遍性のカギがあるのかとも思う。

読んで思うことを書いてみるならば、次の二点。

第一に、非政治性である。湾岸戦争のころに書かれた本であるにもかかわらず、中近東あたりでの政治情勢について、言及するところがきわめて少ない。ところどころ、説明的な文章があったりはするが、そこに深入りすることはない。きわめて平静に、現地の状況を見ている。

第二に、これも上記のことと関連するが、宗教とか民族とかにかかわる記述が少ない。ギリシャの辺境とでもいうべき地……ギリシャ正教の聖地……を旅行しているのだが、ギリシャ正教のもつ宗教的な意味とか、歴史的な位置づけとかについては、極力触れていないようである。また、トルコを旅していても、イスラムの信仰について、そんなに多く語ることがない。

基本的に、村上春樹は、ただの旅行者の視点で描いている。

以上の二点が、この本を読んで思ったことである。

このようなこと……非政治性、非宗教性、非民族性……というようなことが、村上春樹の文学が、世界的に読まれるゆえんの一つかと思ったりする。政治的に、宗教的に、民族的に、無色透明に近いのである。だからこそ、どのような文化においても、その色合いで受容されることが可能になる。

これは、この旅行記のみならず、小説についても言えることだと感じる。政治とか、宗教とか、民族とかに、どっぷりとつかった文学もある。しかし、村上春樹の作品は、その対極にあると言える。どのような地域の文化においても、それなりに、解釈して読むことができる。

また、1990年の本だから、ここに書かれていることは、すでに、歴史的な価値があることにもなる。あるいは、ギリシャのことなどは、ひょっとすると、二一世紀の今日においても、そう変わっていないのかもしれない。だが、トルコは、それを取り巻く世界情勢は、時々刻々と変化しつつある。

ともあれ、村上春樹の文学のもつ、ある種の特徴を端的に表している作品であると思う。

2020年2月18日記

追記 2020-04-23
この続きは、
やまもも書斎記 2020年4月23日
『ラオスにいったい何があるというんですか?』村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/04/23/9238313