『エール』あれこれ「アナザーストーリー」2020-06-21

2020-06-21 當山日出夫(とうやまひでお)

『エール』第12週「アナザーストーリー」
https://www.nhk.or.jp/yell/story/week_12.html

前回は、
やまもも書斎記 2020年6月14日
『エール』あれこれ「家族のうた」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/06/14/9257266

この週は、番外編の三つの物語。
「父、帰る」
「古本屋の恋」
「環のパリの物語」

もっとも奇想天外だったのが、月曜・火曜の「父、帰る」。音の父(安隆)が、あの世から現世に現れるという話し。幽霊と言っていいのだろうか。

見ていて思ったこととしては、確か、音の一家はクリスチャンであったはずなのに、あの世では閻魔様が出てきていた。地獄の責め苦にあっていたようではなかったが、さりとて、天国で安楽にしているということもでもないようだった。

しかし、幽霊になった父のことを、音も、光子も、すんなりと受け入れていた。このあたり、どことなく、不思議な感じもするし、同時に、ユーモラスでもあり面白かった。

そして、バンブーの夫婦の話。古本屋をやっていた保のもとに、客として現れた恵。その二人をむすびつけたのが、久志だった。なるほど、バンブーという喫茶店の過去には、こんなことがあったのかと感じさせる展開であった。

最後は、環のパリでの恋。若き日の環の姿も印象的だったが、それよりも、画家の嗣人が、愛人の芸術に嫉妬する、才能はあるのだろうが今一つぱっとしない画家として、短い話しのなかで、巧妙に描かれていたと感じる。環は、恋よりも、芸術を選んだことになる。その環が、音に対してどう振る舞うことになるのか、この辺りが興味深かった。(結果的には、たぶん、音は、夫の裕一を選ぶということになるのだろうが。)

さて、来週もまだ放送はつづくようだ。久しぶりに、ミュージックティーチャーも登場するらしい。楽しみに見ることにしよう。

2020年6月20日記

追記 2020-06-28
この続きは、
やまもも書斎記 2020年6月28日
『エール』あれこれ「スター発掘オーディション」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/06/28/9262381

『風と共に去りぬ』(四)マーガレット・ミッチェル/岩波文庫2020-06-22

2020-06-22 當山日出夫(とうやまひでお)

風と共に去りぬ(4)

マーガレット・ミッチェル.荒このみ(訳).『風と共に去りぬ』(四)(岩波文庫).岩波書店.2015
https://www.iwanami.co.jp/book/b247596.html

続きである。
やまもも書斎記
『風と共に去りぬ』(三)マーガレット・ミッチェル/岩波文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/06/18/9258769

映画化された小説というのは、どうしてもその影響を受けながら読んでしまうところがある。『風と共に去りぬ』については、前半(タラからアトランタへ、そして、アトランタの陥落、再びタラへ)と、後半(タラから、再びアトランタへ、最終的にはまたタラへ戻る)という枠組みで読んでしまう。映画は、私の見た印象では、前半の方がドラマチックな盛り上がりがあって、視覚的にも火事のシーンなど、見せ場たっぷりである。映画としては、前半の方が面白い。しかし、小説として読むと、逆に後半の方が、断然面白いと感じる。

二つばかり考えてみる。

第一には、スカーレットを軸とした、心理小説の趣が加わってくる。波瀾万丈の大事件……戦争……ということがおわって、リコンストラクション(再建)の時代のアトランタが舞台である。そこでくりひろげられる、様々な人間模様、心理のかけひき、これが実にたくみである。

第二には、やはりスカーレットの魅力である。スカーレットは、再度結婚することになるのだが、スカーレット・オハラの名前を引き継いでいる。アイルランド系移民の子であることが、その気性のなかに浮き上がってくる。作中でも、基本的には、スカーレットの名称で登場し続けることになる。スカーレットは、アトランタの男たちのなかで、自立した女性として生きていくことになる。

以上の二点のことなど思ってみる。

岩波文庫で四冊目まで読んできてであるが……今のアメリカでは、この作品は、どのように読まれているのだろうか、そのあたりがどうにも気になる。特に、黒人の描写、これがあまりにも、南部の目で見たステレオタイプという気がしてならない。それから、南北戦争において生じた、南部の人びとの北部の人びとへの憎悪、これは、今ではどうなっているのだろうか。

日本の時代とひきくらべてみるならば、この作品の時代は、ちょうど明治維新のころになる。そして、それが書かれたのは、第二次世界大戦の前。日本で、この時代のことに該当する作品として、私の知る範囲で思い浮かぶのは、『夜明け前』(島崎藤村)である。

南北戦争で分裂したアメリカという国が、改めて統一的な感覚のもとに捕らえることができるようになったのが、ちょうど第二世界大戦の前、ということでいいのだろうか。そこには、二世代、三世代の時間の経過があったことになる。

続けて第五冊目を読むことにしたい。

2020年6月1日記

追記 2020-06-25
この続きは、
やまもも書斎記 2020年6月25日
『風と共に去りぬ』(五)マーガレット・ミッチェル/岩波文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/06/25/9261349

『国盗り物語』あれこれ2020-06-23

2020-06-23 當山日出夫(とうやまひでお)

『麒麟がくる』は、まだお休みである。この週にあったのは、過去の戦国時代大河ドラマから、『国盗り物語』。

『国盗り物語』は、見た記憶がある。原作(司馬遼太郎)も読んだ。

「とうとうたらり、とうたらり」の斎藤道三の油売りのシーン……原作の小説でも印象的に描かれていたが、ドラマでもそれをなぞっていたのを覚えている。

それから、忘れられないのが、濃姫を演じた松坂慶子。まだ、若かったころの松坂慶子は美しかった。ちなみに、松坂慶子で覚えているのが、NHKの銀河テレビ小説『若い人』(石坂洋次郎原作)である。そのヒロインを演じたのを、今でも憶えている。

斎藤道三と織田信長の対面のシーン。これは、原作の小説のとおりに描かれていたと覚えているが、ただ自分の名を名乗っただけで、その後ひとことも言わなかった二人の対面シーンは、記憶に残っている。そのせいか、『麒麟がくる』での、斎藤道三と織田信長の対面シーンは、何かしら饒舌にすぎたような印象があった。

光秀は、近藤正臣であった。本能寺の変のことは、これまで幾度となく大河ドラマで出てきていることだが、『国盗り物語』の本能寺の変から、その後の光秀の最期までのところは、今見ても、名作であったと感じるところがある。

しかし、NHKは、いくらスペシャル企画であるからといって、『国盗り物語』の見せ場を、見せてしまってよかったのだろうか。たぶん、そこには、今回の『麒麟がくる』においては、また違った解釈の光秀と信長であり、本能寺の変であり、さらには、光秀の最期ということが、予定されているのであろう。その自信があるからこその番組であったと思う。

ここは、過去の名作である『国盗り物語』を越えるものをつくる意気込みで、これからの『麒麟がくる』の放送再開ということになっているにちがいない。放送の再開を楽しみにして、次回の特集も見ることにしよう。

2020年6月22日記

カラスノエンドウ2020-06-24

2020-06-24 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日は花の写真。今日は、カラスノエンドウである。

前回は、
やまもも書斎記 2020年6月17日
綿毛
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/06/17/9258369

我が家のうちに咲く花である。いつも春になると、いつの間にか花が咲いていて、また、いつの間にか消えてなくなっている。去年も、たしか写真に撮ろうと思いながら、写せなかった。今年は、見つけたときにと思ってうつした。四月のことになる。

日本国語大辞典(ジャパンナレッジ)を見る。

「からすのえんどう」で項目がある。漢字は、「烏野豌豆」である。

マメ科の二年草。本州以西の田野にふつうに生える。高さ六〇~九〇センチメートルで、茎は根元から分枝し、やや地上をはう。

とあり、さらに説明がある。

用例は、大和本草批正(1810頃)が古いものになる。近世から、この名前で呼ばれていたらしい。

『言海』にもある、

「からすのゑんどう」は、参照見出しであって、「のゑんどう」を見るように指示がある。「のゑんどう」を見る。

野豌豆 名 原野ニ多シ、秋深ケテ、子ヲ生ズ、冬ヲ歴、春ニ至リ、盛ニ成長ス、莖、地ニ布ク事、一二尺、葉互生ス。 翹搖 二種アリ、其一ヲ烏(カラス)ノ豌豆トイフ、葉ハ、れんげさうニ似テ、數多シ、葉頭ニ鬚ナク、春ノ末、葉ノ間ニ、紅紫花ヲ開ク、豆ノ花ニ似テ大サ三分許、莢、長サ七八分、子圓クシテ、少シ平タク、淺綠色ナリ。又、イヌソラマメ。 大巣菜 其一ヲ雀(スズメ)ノ豌豆トイフ、葉最モ細小ニシテ、頭ニ鬚アリ、葉ノ間ニ小莖ヲ出シ、數花ヲ開ク、大サ一分ニ滿タズ、淺紫色ナリ、莢、長サ三四分、内ニ二子アリ。又、イヌヱンドウ。 小巣菜

カラスノエンドウ

カラスノエンドウ

カラスノエンドウ

カラスノエンドウ

カラスノエンドウ

カラスノエンドウ

Nikon D500
TAMRON SP AF 180mm F/3.5 Di MACRO 1:1

2020年6月23日記

追記 2020-07-01
この続きは、
やまもも書斎記 2020年7月1日
ヤマブキ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/07/01/9263626

『風と共に去りぬ』(五)マーガレット・ミッチェル/岩波文庫2020-06-25

2020-06-25 當山日出夫(とうやまひでお)

風と共に去りぬ(5)

マーガレット・ミッチェル.荒このみ(訳).『風と共に去りぬ』(五)(岩波文庫).岩波書店.2015
https://www.iwanami.co.jp/book/b247597.html

続きである。
やまもも書斎記 2020年6月22日
『風と共に去りぬ』(四)マーガレット・ミッチェル/岩波文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/06/22/9260165

岩波文庫で五冊目まで読んで思うこととしては、次の二点を書いておきたい。

第一には、スカーレットの不撓不屈の精神。

不撓不屈というとちょっと大げさかもしれない。だが、タラの農園にかけられた税金を工面するために、アトランタにいるレット・バトラーをおとずれるくだり、そして、バトラーが頼りにならないとわかると、即座に、フランク・ケネディ……これは妹のスエレンの恋人でもあった……をうばってしまうところ、このあたりの、ある意味でのたくましさ、したかさは、この小説の読みどことのひとつだろうと思う。その後、製材所を経営することになるのだが、ここでも、女傑と言っていい働きぶりである。

南北戦争にやぶれた南部の女性として、不遇の時代をのりきって生きている。そのたくましさが、この小説におけるスカーレットの魅力だろう。

第二は、クークラックスクラン。

これが、どうもよくわからないところである。たぶん、日本の読者にとって、クークラックスクランとは何なのか、何をしていたのか、なぜ弾圧されることになったのか、よく分からないというのが正直なところである。また、この小説では、アシュリーも、夫のフランクも、この一員として活動していたことになっている。アシュリーのような、これまで読んできた印象では、穏健な思想の持ち主という印象であったが、なぜ、クークラックスクランにかかわることになったのか、このあたりよくわからないことでもある。

以上の二点が、五冊目を読んで思うことなどである。

さらに書いてみるならば、南北戦争がアメリカという国家、社会に何をもたらしたのか、そのあたりを描いた歴史小説として読むこともできるだろう。単に黒人奴隷の解放ということだけではなく、北部と南部と、白人と黒人と、富めるものと貧しいものと、それぞれの分断、対立ということも、結果として生み出したことになるようだ。(このあたりは、アメリカ社会の歴史にはうといので、そのように読めるということにとどまるのだが。)

ともあれ、この小説は、後半の部分……映画で後半とて描かれた部分……の方が、断然面白い。スカーレットを中心として、レット、アシュリー、メラニーといった登場人物たちの、人間ドラマが展開する。この小説を読むのは、四回目になるはずなのだが、それでも、思わず小説の世界の中にはいりこんで読みふけってしまうことに気付く。

残りは、一冊である。最後まで続けて読むことにしよう。

2020年6月3日記

追記 2020-06-26
この続きは、
やまもも書斎記 2020年6月26日
『風と共に去りぬ』(六)マーガレット・ミッチェル/岩波文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/06/26/9261716

『風と共に去りぬ』(六)マーガレット・ミッチェル/岩波文庫2020-06-26

2020-06-26 當山日出夫(とうやまひでお)

風と共に去りぬ(6)

マーガレット・ミッチェル.荒このみ(訳).『風と共に去りぬ』(六)(岩波文庫).岩波書店.2015
https://www.iwanami.co.jp/book/b247598.html

続きである。
やまもも書斎記 2020年6月25日
『風と共に去りぬ』(五)マーガレット・ミッチェル/岩波文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/06/25/9261349

ようやく六冊目まで読み終わった。

『風と共に去りぬ』を読みかえしておきたいと思ったのは、昨年の暮れのことである。たまたまテレビをつけたら、NHKで映画をやっていた。後半の、アトランタにいるレット・バトラーをスカーレットが訪れて金策をたくらむ場面だった。他に用事もあったりしたので、そのままテレビを見るということはなかったのだが、そのとき、もう一回『風と共に去りぬ』を読んでおきたいと思った。

この作品、これまでに何度か読んでいる。若いとき新潮文庫の旧訳で読んだ。それから、数年前、新潮文庫と岩波文庫でほぼ同時に、新しい訳がそれぞれに刊行になったとき、両方を順番に買っていって読んだ。映画も、若いときに見ているし、その後、テレビでも見ている。

『風と共に去りぬ』を再々度、読みかえしてみて思うことは次の二点になるだろうか。

第一には、喪失の物語であること。

スカーレットは、アシュリーに絶望し、メラニーに死なれ、レット・バトラーに別れをつげることになる。アトランタを去ることになる。そのスカーレットは、最後には、タラの農園に帰ることを決意する。そこには、懐かしい故郷がある。しかし、そこにあるのは、かつての南北戦争の前の南部の農園のタラではないはずである。これは、南北戦争と、その後の時代の変革によって、決定的に失われてしまったものにちがいない。

この小説は、全編を通じて、もはや無くなってしまったもの、失ってしまったものへの哀惜の念が通底しているといっていいのではないだろうか。

第二は、上記のことと反することになるが、失ってもへこたれないスカーレットのたくましさである。

南北戦争で南部が敗北し、奴隷を失うことになり、三度結婚し、二度も夫に死なれ、また、最後にバトラーにも別れることになり、さらには、子どものボニーも失ってしまう。スカーレットの人生は、挫折の連続である。しかし、決してスカーレットはくじけることがない。常に前を向いて生きている。

ここにあるのは、アイルランド移民の血をひく「スカーレット・オハラ」の強い姿である。これは、おそらく、今日の自立した女性というイメージにつなっていくものと言っていいだろう。

以上の二点、喪失感と生きるたくましさと、相反する要素が、この小説のなかには混じり合って存在している。これが、この小説の類い希なる魅力の源泉になっているのだろうと感じる。

私は、アメリカ文学の歴史にはうとい。今、この作品がどのように評価されているのか知らない。文庫の解説によれば、一般の読者の人気はあるものの、研究者の評価は決して高くないとのことである。

だが、この小説は、これからも読まれ続けていくと思う。アメリカという国の、ある時代のできごとを、特に南北戦争の敗者という視点から描いているこの小説は、おそらく、アメリカという国のなりたちを再認識する基礎をあたえてくれるものであるにちがいない。

アメリカという国のみならず、世界において、分断と対立の時代になろうとしているようだ。このような世界にあって、今から150年ほど前の歴史を舞台にして、たくましく生きた女性の物語は、これからの時代を生きる希望につながるものであると信じることとしたい。

2020年6月7日記

オンライン授業あれこれ(その一〇)2020-06-27

2020-06-27 當山日出夫(とうやまひでお)

続きである。
やまもも書斎記 2020年6月20日
オンライン授業あれこれ(その九)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/06/20/9259458

第二回のレポート提出が終わった。結果的には、次の二点がいえるだろうか。

第一に、提出率が下がったことである。

四月にオンラインでの、オンデマンド教材配信をはじめて、二ヶ月になる。レポートは二回目である。LMSを見ていると、だんだん、学生のアクセスが低下していっているのが分かる。毎週水曜日の朝に、だいたいA4で4ページほどの教材資料を配信している。内容的には、そんなに難しいことを書いているつもりはない。だが、それを読んでレポートを書くとなると、かなりきちんと読んでみないといけないようになっている。ただ、普通の授業があったときのように、漫然と教室に出てきていればよい、という状況ではない。この意味では、オンデマンド方式の方が、学生により緊張感を与えていることになるのかもしれない。

レポートは、第一回のときよりも、提出率が悪い。そもそもLMSを見ていない学生が増えている。これは、おそらくは、学生全体として、オンライン授業についてこれるかどうか、ということの分かれ目にさしかかってきているということなのかもしれない。

第二に、ルールを守らない学生が、少しだがまだいることである。

レポートの評価は、そんなに厳しいものにしていない。基本的なことが書けていれば大丈夫ということにしている。こちらが意図したポイントをふまえたものであればよい。

見ていると、そのポイントをまったく外しているものが、ちょっと目立つ。そんなに難しい課題ではなかったと思うのだが、これは、基本的に、文章を読むちから、書くちから、基礎的なリテラシの問題だろうと思わざるをえない。

レポートを書くということで、そのトレーニングになればと思っている。今回は、あらかじめ、いくつか条件を提示しておいた。段落(パラグラフ)に分けて書くこと、「です」「ます」で書いてはいけないこと、「……と思います」のような表現は使ってはいけないこと、などである。見ていると、これらは、基本的には守っているようだ。

だが、あいかわらず、Gメールなどから送信してくる学生がいる。これは厳しく対応することにしている。オンラインの、電子メールでのやりとりの場合、メールアドレスが何であるかは、重要である。大学の授業の提出物なら、その大学のメールシステムを使うのが、常識だろう。そのシステムのメールが使えることが、学生としての身分証明なのであるから。これについては、受け取らないことにして、再提出を求めることにした。

たぶん、LMSに書いた、レポートの課題を、きちんと読んでいないのだろう。これは、最初、四月のときに、オンライン授業の方針の概要を示したときをふくめて、レポートの課題には、かならず書いて確認してきたことである。それを守っていないということは、LMSのメッセージを、きちんと読んでいないということになる。

以上の二点が、第二回のレポートを見て思ったことなどである。

前期の授業も、半分をすぎた。レポートはあと二回である。オンラインの授業についてくることができる学生と、そうではない学生と、別れることになるのだろうかと思っている。

2020年6月26日記

追記 2020-07-04
この続きは、
やまもも書斎記 2020年7月4日
オンライン授業あれこれ(その一一)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/07/04/9264573

『エール』あれこれ「スター発掘オーディション」2020-06-28

2020-06-28 當山日出夫(とうやまひでお)

『エール』第13週「スター発掘オーディション」
https://www.nhk.or.jp/yell/story/week_13.html

前回は、
やまもも書斎記 2020年6月21日
『エール』あれこれ「アナザーストーリー」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/06/21/9259767

この週で、このドラマもいったん休止となる。COVID-19のせいであるが、いたしかたないだろう。

見どころとしては、次の二点だろうか。

第一に、御手洗と久志のライバル対決。

豊橋から上京してきた御手洗は、裕一の会社の新人オーディションをうけるという。それには、佐藤久志も応募することになる。スター御手洗とプリンス佐藤の対決ということになった。このあたりのライバル意識が、コミカルに描かれていて面白かった。そういえば、まだ古山家における、八丁味噌と納豆の問題も解決していないようであった。

第二に、その御手洗と佐藤の友情。

結局、オーディションにには、二人ともおちてしまい、佐藤の方が研究生ということで採用になった。この戦いのあとの、二人には、友情というべきものがあった。ここも、よきライバルとしての二人の友情ということで、たくみに描かれていたかと思う。

以上の二点がこの週で思ったことである。

さらに書いてみるならば、幼い時の佐藤のことが出てきていた。何故、音楽に興味をもつことになったのか。小学生のときのことが、しんみりとした描き方であった。

それから、面白かったのが、オーディションの場面。登場した面々は、それぞれ個性があり、そして、歌がうまかった。特に誰がよかったということは感じなかったが、ここのところは見ていて面白かった。

さて、これからは、音の妹の梅が登場するようである。いつの再開になるかわからないが、これは楽しみに待っていることにしようと思う。次週からは、第1週からの再放送である。ここまで見てきて、その筋は知っていることなのだが、もう一度見直してみるのもいいかという気でいる。次週も楽しみに見ることにしよう。

2020年6月27日記

『源氏物語』(1)桐壺・帚木・空蝉・夕顔2020-06-29

2020-06-29 當山日出夫(とうやまひでお)

源氏物語(1)

阿部秋生・秋山虔・今井源衛・鈴木日出男(校注・訳).『源氏物語』(1)桐壺・帚木・空蝉・夕顔.小学館.1998
https://www.shogakukan.co.jp/books/09362081

小学館のテクストで『源氏物語』を読んでおきたいと思って手にした。「古典セレクション」として一六冊で刊行されている。もとになっているのは、新編日本古典文学全集である。それを、本文、校注、現代語訳、付録までふくめて、体裁をあらためて再編集したものである。(たぶん、内容的には同じだと思っている。)

現代では、この小学館のテクストが、最も一般的な『源氏物語』だろうと思う。ただ、私は、これまで、この本で通読するということをしてこなかった。それは、現代語訳が邪魔なのである。無用というのではないが、特になくてもいい。しかし、注だけでは意味のとりにくところがあると、そこは現代語訳を見るようにつくってある。本文を読んで、注を見て、それから、対応する現代語訳の箇所を探して読んで、これが煩わしいのである。

しかし、このテクストでも『源氏物語』を通読しておきたいと思う。国立国語研究所のコーパスで、『源氏物語』を検索することができる。この本文に採用されているのが、小学館の本である。現代における最も普通のテクストして、読んでおくことにしたいと思う。

第一冊目には、「桐壺」「帚木」「空蝉」「夕顔」をおさめる。

読んで思うこととしては、次の二点だろうか。

第一には、「桐壺」の完成度の高さである。これが、『源氏物語』という長大な物語の最初の巻であることは意識して読むことになるのだが、これはこれとして、独立してすぐれた作品になっていると感じるところがある。

『源氏物語』の成立論については、諸説あることは承知しているつもりだが……といって、『源氏物語』を専門にしているというわけではないので、最新の研究動向などにはうといのだが……たぶん、「桐壺」の巻からそのまま順番に、現在に伝わる五四帖が書かれたということはないであろうと、私は考える。はたして紫式部は、『源氏物語』の全体を構想したうえで、「桐壺」から書き始めたのであろうか。

第二には、「夕顔」の巻の短篇として面白さである。

『源氏物語』は、長大な長編作品ではあるが、中に短篇的な作品を多くふくんでいる。そのなかにあって、「夕顔」はきわだって独立性が高く、また、これだけ読んでも面白い。

下層階級の女性をふとしたことから見初める貴公子。そして、どこか荒れ果てた屋敷につれていく。そして、その屋敷の亡霊に取り殺されてしまう……たぶん、このような先行する説話的な話しがあったのだろう。それを、『源氏物語』という作品のなかの一部として、また、後に出てくる玉鬘の出生の物語として、これをこのような形でまとめあげた手腕は、実に見事なものであると感じる。

以上の二点が、第一冊を読んで思うことなどである。

ここは覚悟をきめて、小学館の本で『源氏物語』を最初から順番に読んでいくことにしたい。

2020年6月7日記

追記 2020-07-02
この続きは、
やまもも書斎記 2020年7月2日
『源氏物語』(2)若紫・末摘花・紅葉賀・花宴
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/07/02/9263919

『利家とまつ』あれこれ2020-06-30

2020-06-30 當山日出夫(とうやまひでお)

先週に引き続き、まだ麒麟がこないので、過去の大河ドラマの特集である。

『利家とまつ』は、放送のとき見てはいない。すでにテレビを持っていたころのことになるのだが、このドラマは見なかった。が、とりあえず、NHKの特番を見て思ったことなど書いて見る。

第一には、家族と友情。

『利家とまつ』は、前田利家とその妻のまつが主人公である。夫婦の物語として描いたところに、大河ドラマとしての斬新さがあったのだろう。しかも、時代は戦国時代である。乱世を生きる武将の姿のみならず、その家族のことを描いているというのは、今見ても新鮮な感じがする。

そして、豊臣秀吉との友情。戦国時代にあって、この仲間の武将との友情というのは、意外と描きにくいところかもしれない。そこを、ただのライバルではなく、仲間として友情を描いていたところも、このドラマの特色といえるかもしれない。

第二には、織田信長と本能寺の変。

これは、戦国時代ドラマの定番だから、本能寺の変ははずすことはできない。ここで登場していた明智光秀もまた、戦国時代ドラマの主要な登場人物と言ってよい。

これから、『麒麟がくる』では、織田信長のもとでつかえる明智光秀と、最終的には本能寺の変のところまでを描くことになるはずである。このところの、明智光秀のこころのうち、最終的に、信長に謀反を決意するにいたる経緯、そして、起こることになる本能寺の変……これらを、『麒麟がくる』では、どのように描くことになるのか、まさに興味深い。ここで、先週の『国盗り物語』に続いて、『利家とまつ』でも、本能寺の変の場面を見せていたのは、『麒麟がくる』では、過去のドラマとは違った解釈であり、筋立てであることを、予感させるものである。

それが、いったいどのような本能寺の変になるのか、期待はますます高まるばかりである。

以上の二点が、『利家とまつ』の特番を見ていて思ったことなどである。

さて、あとしばらくは麒麟はこないようだ。収録は再開のようだが、これも、COVID-19の感染の拡大によっては、またどうなるかわからない。とりあえず、来週は、東京都知事選でお休み。その次の放送を楽しみに見ることにしよう。

2020年6月29日記