「ハコモノガタリ」2023-11-29

2023年11月29日 當山日出夫

ハコモノガタリ

テレビの番組表を眺めていて目についたので録画しておいたものである。

とりあげてあった博物館は、

福井県年縞博物館
若狭三方縄文博物館
横倉山自然の森博物館

「年縞」という現象については知らなかった。なるほど条件が整えば、地層の堆積をさかのぼって過去のことを研究することができる。これは面白かった。七万年間の年代の標準のモノサシになるものである。これは、今の人類、ホモ・サピエンスの歴史と重なる。

横倉山については、今年、何回かテレビで出てきたかと思う。牧野富太郎が通って植物採集した山である。そのふもとに、このような博物館があることも、この番組で知った。

それにしても、博物館の敷地内でヤゴの抜け殻を集めてみるというのも、面白い。ここの博物館ならではの試みかと思う。

横倉山が修験道の山であり、また、安徳天皇の陵墓参考地であることも、この山の植生が豊かに保たれた理由になる。ここに牧野富太郎が通うことになったのは、意味のあることである。

津村重舎のことは知らなかった。津村順天堂の祖である。牧野富太郎の活動を援助していた。これは、ドラマ『らんまん』には出てこなかったし、また、私が読んだ牧野富太郎関係の本でも出てきていなかった。

2023年11月24日記

こころの時代「歎異抄にであう 無宗教からの扉(2)「念仏とはなにか」」2023-11-29

2023年11月29日 當山日出夫

こころの時代 歎異抄にであう 無宗教からの扉(2)「念仏とはなにか」

どうでもいいことかもしれないが、このような番組を作るとき、語り手(阿満利麿)の他に聞き手(二人のディレクター)がいる設定になっている。時間的には、語り手の時間が大部分であるし、特に聞き手がいたからといって、語る内容に変化があるということではない。しかし、番組の作り方として、聞き手がいてその人に向かって語っているという設定になっているのは、まさに人を相手にして語ることによってしか、語りえないことであるということなのだろう。おそらくは、宗教について語ることの本質がここにある。そして、番組の製作者はこのことが分かっている。

それにしても、かなり現代的な解釈だと感じるところがある。念仏とは、南無阿弥陀仏と称えるとき、その人のなかに出現するものである。言いかえるならば、どこかに阿弥陀仏が存在していて呼びかける、あるいは、念仏が呪文になってしまう、これを否定している。

これも、歴史的に考えてみるならば、念仏が呪文のように称えられていたということはあるだろうし、また、念仏をめぐっては文献学からも、比較思想史からも、検討の余地はある議論であろう。そこをふっとばして、阿弥陀仏は念仏する人のなかに出現するものであると言いきるのは、大胆ではある。だが、これもまた一つの思想の語り方であると思う。まあ、少なくとも、今ではこのような語り方もあり得るということに納得することができる。

2023年11月25日記