「オウムVS.科捜研 〜地下鉄サリン事件 世紀の逮捕劇〜」2024-11-02

2024年11月2日 當山日出夫

新プロジェクトX オウムVS.科捜研 〜地下鉄サリン事件 世紀の逮捕劇〜

これは面白かった。

新プロジェクトXは、あまり見ていない。はっきりいってあまり面白いと思わないのが多い。しかし、この回は興味があったので録画しておいて見た。

いろいろ思うことはある。

自白を重視する旧来の捜査方法に対して、科学的物証で論証するという方向の重要性は、今日ではいうまでもないことだろう。だが、このような考え方が警察や検察の現場にひろく行きわたるようになるのは、時間のかかることだったろう。(いや今でも自白の重視ということは、続いているかもしれないが。)

日本の犯罪捜査の歴史において、科学捜査の重要性を認識することになった事件であることは確かなことだろう。

印象的なのは、服藤が土谷に面会して、化学式を書いて見せるシーンの再現映像。なぜ、このときから、土谷が自供するようになったのか、番組中での推測としては、化学者としての土谷という人物を認めてくれた、ということであった。これは、なんとなく分かる気がする。大学院で化学を勉強して、しかし、その先のことが見えないなかで、自分のいるべき場所、自分の学識を生かせる場所を求めていた人間にとって、なによりも、その知識と立場を理解してくれる存在が、必要だったのだろう。

科学の使い方、ということも一つの課題である。一般論にはなるが、科学者の社会的責任ということである。(このことについては、今の日本では、役に立つ研究かどうか、ということで判断されすぎている傾向が強い。これはこれで問題だとは思う。)

現在の日本で、大学院で学位をとるまで勉強したけれど、その先の未来の見えない若者は多い。このような人たちが、社会に貢献できるように、なんとか考えていかなければならないのだが、あまり希望は持てそうにない。少なくともそのような人たちに対して、そのことを理解してくれる誰かがいる、ということが大切なことだと思う。

それから、現在の科学捜査の技術では、もし同じような事件があったとして、どこまでその物質の製造などを、科学的に立証できるのだろうか。科学の進歩によって、大きく変わってきていると思うのだが、このあたりも気になるところである。

ところで、今の科捜研はどうなっているのだろうか。時代の流れとして、ここで働くのなら、学位ぐらい持っていて当然というようなことかなと思うのだけれども、どうなっているのかとは思う。

2024年10月28日記

「ロフティング“ドリトル先生航海記” (4)小さな鞄ひとつで軽やかに生きる」2024-11-02

2024年11月2日 當山日出夫

100分de名著 ロフティング“ドリトル先生航海記” (4)小さな鞄ひとつで軽やかに生きる

見ながら思ったことを思いつくままに書いておく。

結局、この物語は大英帝国の時代の話しだなあ、と感じるところがある。これは別にドリトル先生が植民地主義に対して、どういう態度であるかどうかということではなく、海のむこうの見知らぬ島に出かけて行って冒険があって帰ってくる、という大きな枠組みから、なんとなくそういうことを感じる。

生物について、利己的/利他的、このような概念を軸に論じることは、最近の傾向かなと思うところがある。もっとも典型的には『利己的な遺伝子』(ドーキンス)のことを思い浮かべる。この本は読んではいるが、そのような生命観、生物観というのがあるのか、というのが思ったことである。遺伝子レベルで考えるならば、自己の複製をどのように残すか、ということからすべての地球上の生物の歴史を語ることができる、ざっくりいえばこういうことになるかと理解している。一方、生物の行動や生態からは、利他的とも理解できる現象がある。これをどう理解するか。そして、このことが、現代の人間社会における人間の生き方や社会のあり方に、どうかかわるのか、このような問題意識とつながることになる。まあ、考え方にもよるとは思うが、人間の生き方の価値観を、自然界の生物のあり方に、無意識のうちに投影して考えることになっているのかという気もする。さて、このことは、どう考えるべきことなのだろうか。

センス・オブ・ワンダー、自然の素晴らしさに対する感性、とでも言っていいかもしれないが、このことは重要だと、共感できるところである。自然や宇宙についての、科学的な啓蒙といってもいいだろうが、このごろではあまり接する機会が少なくなってきているように感じる。私の子どものころは、学研の「科学」を買うのが楽しみであった世代である。漫画もSF漫画が多くあった。今でも、NHKは、自然にかかわる番組を多く作って放送しているが、他の局ではほとんどなくなったといってもいいだろうか。

『ドリトル先生航海記』は、これからも読まれていく本だと思う。

2024年10月29日記