「また あした ~都営東糀谷六丁目アパートの一年~」2024-11-26

2024年11月26日 當山日出夫

また あした ~都営東糀谷六丁目アパートの一年~

BS4Kでの放送を見逃して(録画しそこねて)、BSでの放送を見た(録画)。

東京にもこういうところがあって、こういう人たちが暮らしているのだなあ、というのが率直な感想である。

一九七〇年代に建てられた都営アパートである。その当時としては、高層で最新の公営住宅ということだったのだろう。エレベーターがある。でなければ、これほどの高齢化率にはならない。五階建てぐらいで階段だけだったら、老人は住めない。

まさにこのアパートが建てられた時代に、私は、東京で学生の時期を過ごしたことになる。高度経済成長が終わり、七〇年安保の後、世の中が平穏をとりもどし、同時に、社会に活気があり夢のあった時代である。この時代に、地方から東京にやってきて仕事についた人びとの暮らしが、このアパートに蓄積されている。集団就職で上京したという人がいたが、まだそういうものが残っていた時代のことである。

このアパートの人たちの暮らしを掘り下げていけば、戦後の東京の生活誌、というべきものになるにちがいない。

番組のなかで出てきたことばを使えば、「限界集落」であり「収容所」である……自虐的なのかとも思うが、しかし、あえてそのように称することは、ある意味で自然かもしれないと感じる。だが、地方の山村などの本当の限界集落とは、大きく違うことも確かではある。東京の大田区である。バスの便は減ったといっても、近くに学校(中学校)もある。おそらく、病院や買物などもなんとかなっているのだろうと、推測する。敷地内にあった商店は閉鎖してしまっているのであるが。

都の方針で、入居者の収入の条件が変わり、子どもと同居することができなくなったという。この方針は、いったいどいうい意図だったのだろうか。結果的には、このような限界集落アパートを生み出すことになっている。

登場していた人たちは、番組のなかでは何も説明はなかったのだが、収入はどうなっているのだろうか。おそらくは年金暮らしが中心ということでいいのかなと思うが、ここは、各家庭の事情にまで踏み込むことは避けたということであろう。

このアパートには、子どもが少ない。だが、近隣の街にはいないわけではない。祭りや盆踊りや運動会もなんとか開催できる。この意味では、まだそれほどの窮状にあるというわけではないようだ。また、かろうじて自治会が機能していることも、重要だろう。

人間、年をとればこんなものなのだろうと感じるところがいくつかある。まあ、病気のことぐらいしか話題がなくなるのは、いたしかたないことなのかもしれない。

アパートの建て替えるという。おそらくは、バリアフリーのデザインになるのだろう。今の建物を見ると、各建築の入り口のところが、数段の階段になっている。これでは、とても車椅子では入れない。

番組のなかに出てきていなかったものとして、医療とか介護とかの関係者の姿がなかった。これは、おそらく意図的に排除して撮影、編集したのかと思う。おそらくは、高齢のためほとんど外出もままならないような人もいるにちがいないと思うのであるが、そのような人も映ってはいなかった。

このアパートのような状態は、たぶん、多くの最近のタワーマンションなどの、半世紀後の姿なのかもしれないと思うところがある。いや、新しいところでは、自治会などの相互扶助組織がないだろうし、また、厳重なセキュリティが場合によっては介護などの支障になることもありうる。もっと住みにくい状況になっていても不思議ではない。現に宅配サービス業者にとって、タワーマンションのセキュリティが、非常に大きな業務上の障害になっていることは、すでに言われている。高齢になり、そうなる前に売り払って、介護施設に入ることができる人は幸運であるというべき時代がくるだろうか。

近年の日本の人口減少問題のなかで、東京はブラックホールとされている。地方からどんどん若い人が集まってくる。では、その若い人たちは、いったいどんなところに住んでいるのだろうか。

私は、人口問題のかなりの部分は住宅問題でもあると考えている。若い人たちが住み、結婚して子どもを育てられる、仕事と住宅が用意されなければ人口は増えないだろう。昔は子供部屋など贅沢だったが、今では子ども一人に一部屋が必要である。少なくとも人口減少に歯止めをかけるためには、これらは必須であると思う。高齢者と若者の仕事と住宅の問題は、ワンセットで総合的に考えなければならないことであろう。(しかし、人口減少の本質は、私の思うところとしては、歴史人口学の知見から総合的に考えるべきことである。世界的に人口の減少傾向は必然である。)

一年間、あるいはそれ以上の期間にわたる取材である。たぶん、取材の途中で死んでしまった高齢者もいたに違いないと想像するのだが、これは除いて番組を作ったとのだろうとは、見て思ったことである。

倍賞千恵子のナレーションが、このような番組にはふさわしい。

2024年11月24日記

「ミグ25亡命事件の衝撃 〜米ソ冷戦 知られざる攻防〜」2024-11-26

2024年11月26日 當山日出夫

アナザーストーリーズ 「ミグ25亡命事件の衝撃 〜米ソ冷戦 知られざる攻防〜」

再放送である。最初の放送は、二〇二二年の一一月。今から二年前のことになる。このときは、まだベレンコはアメリカで生きていた。死んだのは、二〇二三年。

この事件のことはかなりはっきりと憶えている。時期的には東京で学生だったころなので、テレビを持っていなかったときのことになる。九月におきた事件なので、その映像の記憶は、夏休みに家に帰っていたときに見たものかとも思う。

なぜミグ25の侵入を許してしまったのか、日本の防空体制はどうなっているのか、ということが、その当時は大きな論点として語られたものだった。

ミグ25の機体をどうするか、ソ連にかえすのか、アメリカにわたすのか、これも大きく議論されたことだったはずである。結果としては、アメリカに行ったことになる。

函館の自衛隊員の回想が印象的である。戦闘になったとき、部下を犬死にさせないために文書命令をもとめる……このうったえには切実なものがある。おそらく、これと同じような状況は、今は、南西諸島方面において、対中国との交戦が現実のものとなりえてもおかしくない(私はそう思っているのだが)なかで、改めてかえりみられるべきだろう。軍人は、国家のため、国民のため、そして、部隊の戦友のために戦うものである。その軍事力としての面だけを見るのではなく、どのような心性のもとに行動するものなのか、深い理解が必要だと思う。ただ、軍事だけを語る軍事専門家のことばだけを頼りにすることは、いいことではないと思う。

アメリカのCIAはろくでもないことをしてきた。これは周知のことである。だが、同じようなことは、ソ連についても、その後のロシアについても、また、中国についてもいえるだろう。中国の場合は、経済的に相手国の社会インフラをのっとるということになっているようだが。

冷戦時代の、東西陣営のインテリジェンスについて、冷静な分析が必要である。この時代は、ただ核軍拡だけの時代ではなかった。

ベレンコ中尉がアメリカにもとめた自由とはなんであったか。ソ連にいて、希求した自由とは違ったものだったのだろう。この意味では、スターリンの娘のことが思い出される。

この時代は、『収容所群島』の時代でもあった。読んだのは、高校生のときだったか、大学生になっていたか。一方で、共産主義のソ連を賛美する声も、日本のなかに根強くあった時代でもある。

ソ連のなかで(収容所に送られないように)社会に順応して生きるか、アメリカで(自己責任ということで)アメリカンドリームを追い求める生活をおくるのか、今から考えると、微妙な問題であったかもしれないと思うことになる。

2024年11月22日記