『べらぼう』「富本、仁義の馬面」 ― 2025-03-17
2025年3月17日 當山日出夫
『べらぼう』「富本、仁義の馬面」
芸能史という視点から見ると、かなり微妙というか、きわどい路線でドラマを作ってある。
芸能にたずさわるものは、被差別民である……これは、日本の文化史、芸能史、における基本の認識だろう。被差別民であるが、同時に、ある種の特権があり、人びとのあこがれの対象でもあった。この両義的な価値観のバランスをどうとるかということが、芸能の歴史を語るうえでの、重要なポイントであり、また、難しさでもある。(私の持っている、このような芸能史についての認識は、あるいはもう古めかしいものかもしれないが。)
日本の社会において、役者が差別されるものであったということは、つい近年まであったことである。芝居(歌舞伎など)のみならず、映画の俳優や女優であっても、まっとうな職業とは見なされない時代が、ながく続いてきた。それが払拭される、あるいは、一般に意識されないものに変わってきたのは、テレビの普及によって、芸能人などが、身近な存在になり、多くの若い人たちにとって、アイドルがあこがれとなってきた、という変化の流れがあってのことであると、思っている。
吉原が役者を入れないというのは、そうであったかと思うのだが、その吉原自体が、悪所として、市中から遠ざけられていた場所である。ここには、重層的な差別の構造があることになる。
鳥山検校が、当道座を宰領すると出てきていたが、ここは、少しお稲荷さんの説明があった方がよかったところかと思う。視覚障害のある芸能にたずさわる男性による職能集団であり、その組織である。そのトップに検校がいたことになる。なお、女性の場合には、瞽女として存在することになった。(このあたりのことについて、さらに考えるならば、芸能における、障碍者の存在とジェンダーというようなテーマの研究領域になるはずである。)
りつ(安達祐実)の解説は、ちょっと無理があったと感じる。庶民のあこがれの対象にしないために、為政者が、身分の外に定めた、要するに、被差別民とみなすようにした……というのは、ちょっと強引な説明かなという気がする。差別とはいわないまでも、普通の人たちとは違った特殊な人びとという認識と、あこがれの対象となる、ということは、普通の市井の人びとの考えのなかで両立することである。(その近年になっての事例としては、ジャニーズの問題があったということになる、と私は思っている。)
吉原の遊女であり、富本の太夫であり、社会から疎外された、差別の視線で見られることになった人びとがいたことは否定できないことであるとして、それを、この『べらぼう』のなかでは、映像の美しさで演出して見せようとしている。これは、
ドラマ制作の方針ではあろうが、見る人によっては賛否の分かれるとこになるかもしれない。(私は、その差別の事実をきちんと明らかにしたうえで、それが、その時代の一般の人びとの意識であったことをふまえて、そのみがいてきた芸の美しさを表現してみせる、というのがいいのかと思うが。まあ、強いていえば、少し前までの時代、テレビの制作にかかわるような人間は、職業差別とはいえないまでも、まともな仕事じゃないと思われていたというのは、現場のなかに残っているかとも思うのだが。)
瀬川(検校に身請けされて、瀬以)が足袋をはいていた。花魁であったときは、ずっと裸足であった。ただ、検校のもとを訪問した蔦重たちの前に、検校よりも先に、その奥さんが出てくるというのは、ちょっとどうかなと思うことではあるが。
平賀源内の作っていたのは、エレキテルになる、試作段階のものでいいだろう。
富本の舞台、劇場の様子は、このようなものだったのだろうと思って見ていたが、映像としては、とても美しく作ってあった。できれば、鳥山検校が、富本を聴くシーンがあるとよかったと思うが、これは、演出が難しいかもしれない。だが、市原隼人なら、できる場面であったと思う。
いくら蔦重であるといっても、吉原の花魁たちを、おおぜい大門の外に連れ出すというのは、できたことなのだろうか。
松平定信が、黄表紙を手に取ってみたりしただろうか。別に、それでもおかしくはないが、江戸時代にこういう身分の人なら、まず経書の類が手元にあったかと思うが、どうであろうか。(とにかくこのドラマでは、本として、経書や仏書などがまったく登場しない。これは、ちょっと変だと思って見ている。蔦重のかかわったような本だけが、江戸の出版物ではなかったのであるが。)
浄瑠璃の正本というのは、そんなに儲かる出版ビジネスだったのだろうか。だが、それよりも、この種の芸能にかかわる出版は、その業界の(今でいう)利権のからんだ話しであるということなのだろう。
次回以降、恋川春町、朋誠堂喜三二という戯作者が、おおきく出てくることになるようだ。戯作者という人たちをどう描くか、気になるところである。
2025年3月17日
『べらぼう』「富本、仁義の馬面」
芸能史という視点から見ると、かなり微妙というか、きわどい路線でドラマを作ってある。
芸能にたずさわるものは、被差別民である……これは、日本の文化史、芸能史、における基本の認識だろう。被差別民であるが、同時に、ある種の特権があり、人びとのあこがれの対象でもあった。この両義的な価値観のバランスをどうとるかということが、芸能の歴史を語るうえでの、重要なポイントであり、また、難しさでもある。(私の持っている、このような芸能史についての認識は、あるいはもう古めかしいものかもしれないが。)
日本の社会において、役者が差別されるものであったということは、つい近年まであったことである。芝居(歌舞伎など)のみならず、映画の俳優や女優であっても、まっとうな職業とは見なされない時代が、ながく続いてきた。それが払拭される、あるいは、一般に意識されないものに変わってきたのは、テレビの普及によって、芸能人などが、身近な存在になり、多くの若い人たちにとって、アイドルがあこがれとなってきた、という変化の流れがあってのことであると、思っている。
吉原が役者を入れないというのは、そうであったかと思うのだが、その吉原自体が、悪所として、市中から遠ざけられていた場所である。ここには、重層的な差別の構造があることになる。
鳥山検校が、当道座を宰領すると出てきていたが、ここは、少しお稲荷さんの説明があった方がよかったところかと思う。視覚障害のある芸能にたずさわる男性による職能集団であり、その組織である。そのトップに検校がいたことになる。なお、女性の場合には、瞽女として存在することになった。(このあたりのことについて、さらに考えるならば、芸能における、障碍者の存在とジェンダーというようなテーマの研究領域になるはずである。)
りつ(安達祐実)の解説は、ちょっと無理があったと感じる。庶民のあこがれの対象にしないために、為政者が、身分の外に定めた、要するに、被差別民とみなすようにした……というのは、ちょっと強引な説明かなという気がする。差別とはいわないまでも、普通の人たちとは違った特殊な人びとという認識と、あこがれの対象となる、ということは、普通の市井の人びとの考えのなかで両立することである。(その近年になっての事例としては、ジャニーズの問題があったということになる、と私は思っている。)
吉原の遊女であり、富本の太夫であり、社会から疎外された、差別の視線で見られることになった人びとがいたことは否定できないことであるとして、それを、この『べらぼう』のなかでは、映像の美しさで演出して見せようとしている。これは、
ドラマ制作の方針ではあろうが、見る人によっては賛否の分かれるとこになるかもしれない。(私は、その差別の事実をきちんと明らかにしたうえで、それが、その時代の一般の人びとの意識であったことをふまえて、そのみがいてきた芸の美しさを表現してみせる、というのがいいのかと思うが。まあ、強いていえば、少し前までの時代、テレビの制作にかかわるような人間は、職業差別とはいえないまでも、まともな仕事じゃないと思われていたというのは、現場のなかに残っているかとも思うのだが。)
瀬川(検校に身請けされて、瀬以)が足袋をはいていた。花魁であったときは、ずっと裸足であった。ただ、検校のもとを訪問した蔦重たちの前に、検校よりも先に、その奥さんが出てくるというのは、ちょっとどうかなと思うことではあるが。
平賀源内の作っていたのは、エレキテルになる、試作段階のものでいいだろう。
富本の舞台、劇場の様子は、このようなものだったのだろうと思って見ていたが、映像としては、とても美しく作ってあった。できれば、鳥山検校が、富本を聴くシーンがあるとよかったと思うが、これは、演出が難しいかもしれない。だが、市原隼人なら、できる場面であったと思う。
いくら蔦重であるといっても、吉原の花魁たちを、おおぜい大門の外に連れ出すというのは、できたことなのだろうか。
松平定信が、黄表紙を手に取ってみたりしただろうか。別に、それでもおかしくはないが、江戸時代にこういう身分の人なら、まず経書の類が手元にあったかと思うが、どうであろうか。(とにかくこのドラマでは、本として、経書や仏書などがまったく登場しない。これは、ちょっと変だと思って見ている。蔦重のかかわったような本だけが、江戸の出版物ではなかったのであるが。)
浄瑠璃の正本というのは、そんなに儲かる出版ビジネスだったのだろうか。だが、それよりも、この種の芸能にかかわる出版は、その業界の(今でいう)利権のからんだ話しであるということなのだろう。
次回以降、恋川春町、朋誠堂喜三二という戯作者が、おおきく出てくることになるようだ。戯作者という人たちをどう描くか、気になるところである。
2025年3月17日
アナザーストーリーズ「天才激突!黒澤明VS勝新太郎」 ― 2025-03-17
2025年3月17日 當山日出夫
アナザーストーリーズ 「天才激突!黒澤明VS勝新太郎」
このことがあったときのことは憶えている。このころ、映画はよく見たのだが、さして関心をいだくことなく終わっていたように思う。
番組の作り方としては、映画の業界の中の人間でないと語れない視点から見るとどうだったか、ということで作ってあった。黒澤の側、勝の側、それぞれに非常に個性の強い監督と役者なのだが、映画のくろうとの世界では、こういう人もいて、こういうこともあっていいのだろう、ぐらいの感じで今は思っている。この時代まで、今は変わったかもしれないが、映画を作るというのは、世間一般とは違った人たちの仕事……それは、一般の人びとから見ると、羨望と差別のないまじったものかもしれないが……であったろう。少なくとも、私は、そういう感覚で映画の世界を見るということに、共感できるところがある。
印象に残るのは、黒澤のスクリプターをしていた女性(野上)。その話しぶりは、やはりその業界の人間だなあと、感じさせる。こういう雰囲気で話しができる人が、今ではもう希かもしれない。
勝新太郎が、脚本なしで、ほとんど現場での思いつきで、台詞や演出を考えて映画を作った件、昔は、こんなこともあったのだろう。それが出来るのが、映画制作の現場であり、また、勝新太郎という役者でもあったことになる。(それにしても、原田美枝子というのは、いい女優さんだなと思う。若いとき映画で見たとき、とても魅力的だった。)
以前、高峰秀子の本を読んでいて、戦前は、文字の読めない映画監督もいた、と書いてあって、驚いたことがある。だが、映画をふくめて、芸能の世界というのは、そういうことがあってもおかしくはないともいえるだろう。
白井佳夫が出ていた。私ぐらいの年代だと、キネ旬の編集長で、映画評論家として、とてもかっこいい存在だった。一般に、映画評論家が、かっこよかった時代でもあった。白井佳夫について語るだけで、日本の映画史だけではなく、社会の歴史をふかく考えることにつながるにちがいない。
2025年3月11日記
アナザーストーリーズ 「天才激突!黒澤明VS勝新太郎」
このことがあったときのことは憶えている。このころ、映画はよく見たのだが、さして関心をいだくことなく終わっていたように思う。
番組の作り方としては、映画の業界の中の人間でないと語れない視点から見るとどうだったか、ということで作ってあった。黒澤の側、勝の側、それぞれに非常に個性の強い監督と役者なのだが、映画のくろうとの世界では、こういう人もいて、こういうこともあっていいのだろう、ぐらいの感じで今は思っている。この時代まで、今は変わったかもしれないが、映画を作るというのは、世間一般とは違った人たちの仕事……それは、一般の人びとから見ると、羨望と差別のないまじったものかもしれないが……であったろう。少なくとも、私は、そういう感覚で映画の世界を見るということに、共感できるところがある。
印象に残るのは、黒澤のスクリプターをしていた女性(野上)。その話しぶりは、やはりその業界の人間だなあと、感じさせる。こういう雰囲気で話しができる人が、今ではもう希かもしれない。
勝新太郎が、脚本なしで、ほとんど現場での思いつきで、台詞や演出を考えて映画を作った件、昔は、こんなこともあったのだろう。それが出来るのが、映画制作の現場であり、また、勝新太郎という役者でもあったことになる。(それにしても、原田美枝子というのは、いい女優さんだなと思う。若いとき映画で見たとき、とても魅力的だった。)
以前、高峰秀子の本を読んでいて、戦前は、文字の読めない映画監督もいた、と書いてあって、驚いたことがある。だが、映画をふくめて、芸能の世界というのは、そういうことがあってもおかしくはないともいえるだろう。
白井佳夫が出ていた。私ぐらいの年代だと、キネ旬の編集長で、映画評論家として、とてもかっこいい存在だった。一般に、映画評論家が、かっこよかった時代でもあった。白井佳夫について語るだけで、日本の映画史だけではなく、社会の歴史をふかく考えることにつながるにちがいない。
2025年3月11日記
100分de名著「ヘーゲル“精神現象学” (2)論破がもたらすもの」 ― 2025-03-17
2025年3月17日 當山日出夫
100分de名著 ヘーゲル“精神現象学” (2)論破がもたらすもの
番組のなかで語っていること自体についていえば、まあ、そうだよなあ、ということになる。特に異論をはさむようなことではない。
ただ、今の社会において、一番難しくなっているのが、異なる価値観を持つ人に対する許容ということである。これは、いわゆる、左右どちらの立場についてもいえる。
多様性を尊重すべきだという主張をする一方で、認めることができないことについては、容赦がない。論ずるまでもなく否定する。こういう傾向は、私の見るところ、いわゆるリベラルという人たちに強い。
何度も同じことを書いているが、自分がなぜそのような価値観を持ち、考え方をするのか、それはどのような社会に生まれ、どのような教育を受けてきて、どんな勉強をし、どんな人の話を聞いてきたからなのか……こういうことにつて、総合的に自省する姿勢こそが、まずは必要なのだろう。自分と違う意見の人は、どういう背景でそう思うのか、そこへの想像力が必要である。そして、いそいで善悪を判断しないことである。人は、歴史と文化、そして、遺伝子から、自由ではありえない。そこを基盤として、自由とか人権とかは論じられなければならないのであるが、往々にして、逆の結果になりがちである。
斎藤幸平も、この番組で語っているかぎりは、穏健に話しているが、場面が変わると、まさに「論破」して終わり、という面がないわけではない。自身は、新しいコミュニズムを目指すということなのだろうが、それが、熟議によって多くの人の共感を得る、そして、社会を動かすことができる……と、本当に思っているのだろうか。これは、疑わしいところがあると、私は思っている。
2025年3月11日気記
100分de名著 ヘーゲル“精神現象学” (2)論破がもたらすもの
番組のなかで語っていること自体についていえば、まあ、そうだよなあ、ということになる。特に異論をはさむようなことではない。
ただ、今の社会において、一番難しくなっているのが、異なる価値観を持つ人に対する許容ということである。これは、いわゆる、左右どちらの立場についてもいえる。
多様性を尊重すべきだという主張をする一方で、認めることができないことについては、容赦がない。論ずるまでもなく否定する。こういう傾向は、私の見るところ、いわゆるリベラルという人たちに強い。
何度も同じことを書いているが、自分がなぜそのような価値観を持ち、考え方をするのか、それはどのような社会に生まれ、どのような教育を受けてきて、どんな勉強をし、どんな人の話を聞いてきたからなのか……こういうことにつて、総合的に自省する姿勢こそが、まずは必要なのだろう。自分と違う意見の人は、どういう背景でそう思うのか、そこへの想像力が必要である。そして、いそいで善悪を判断しないことである。人は、歴史と文化、そして、遺伝子から、自由ではありえない。そこを基盤として、自由とか人権とかは論じられなければならないのであるが、往々にして、逆の結果になりがちである。
斎藤幸平も、この番組で語っているかぎりは、穏健に話しているが、場面が変わると、まさに「論破」して終わり、という面がないわけではない。自身は、新しいコミュニズムを目指すということなのだろうが、それが、熟議によって多くの人の共感を得る、そして、社会を動かすことができる……と、本当に思っているのだろうか。これは、疑わしいところがあると、私は思っている。
2025年3月11日気記
最近のコメント