オンライン授業あれこれ(その四)2020-05-16

2020-05-16 當山日出夫(とうやまひでお)

続きである。
やまもも書斎記 2020年5月9日
オンライン授業あれこれ(その三)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/05/09/9244587

今のところ、前期の間は、オンライン授業継続ということになっている。京都や大阪の緊急事態宣言が解除されても、大学の再開ということは一番最後になるだろう。

これまでに、四回、学生には教材などの送信をしてきている。基本は、毎回配っている講義プリント(A4で1~2ページ)に、解説を加えたものである。だいたい4ページぐらいになる。ここまでのことで思うことなど書いておく。二点ほど書いてみる。

第一に、話したいことの要点だけを整理して書くのならば、A4で2ページあれば十分だということである。簡潔にポイントだけ整理するならば、これで十分な情報は伝えられる。この意味では、教材プリント配布方式も、教育的には、ある程度は有効だろうと判断している。(音声データ付きのPowerPointスライドという方式もあるが、これも、要点だけ文字にしてしまえば、同じような分量になるだろうと思う。)

これもいいかえれば、A4で2~4ページほどのことを、毎回90分かけて、何を話しているかということにもなる。考えてみれば、半分は、余談、雑談の類である。あるいは、はなしことばの冗長性といってもいいかもしれない。

実は、これこそが、本当に大切なものであるともいえる。私は、今の時点で第一線の研究者が考えているような問題については、板書もしないし、もちろんプリントにも書かないで、ただ話すだけにしている。大事なことは、黒板には書きません、話すだけにしておきますと言って話しをしている。プリントに書いていることは、その前提として、共有しておくべき基本的知識ということに限定している。(だから、ある意味では、現時点の学問的な知見からすれば、問題がありうることであっても、とりあえず、それを知っておくべきこととして学生にはしめすことにしている。)

ともあれ、最低限これぐらいの知識はもっておいてくれないと、専門書や論文などを読んでも理解できないだろう、その基本知識の部分は、なんとか教えることができるだろうというのが、今のところの判断である。これ以上のことは、まさに学生が自分の勉強として、専門の論文とか研究書を読むことで、考えることになる。(しかし、今、図書館が基本的に閉館になっているのは、いろいろと教育的には問題があると思う。開架書庫の本を見て回るだけでも、勉強になることなのだが、今はそれができない。)

第二に、オンデマンドでの教材配信という方式は、PCスキルや、通信容量の点からは、一番問題が少ない方式ではある。しかし、その一方で、肝心の学生の勉学へのやる気の点からは、ハードルが高いかもしれない。

まず、大学のLMS(Learning Manegement System)に教材をおいておいても、アクセスして読んでくれない。毎週水曜日の授業であるので、毎週水曜日の朝には、LMSにファイルをアップロードしておく。しかし、まったくアクセスしない学生が少なからずいる。

これも、考えてみれば、普通に教室で授業を始めたからといって、出席率が100%ということはない。最初のうち、多く出てきているときでも、7~8割といったところだろうか。例年、5月の連休が終わって、おちついてきたころになると、半分ぐらいになる。そして、試験のときだけは学生が出てくる。しかし、試験といっても、これも100%出てくるということはない。これまでの経験では、これもおよそ7~8割といったところである。履修登録はしても、試験にも出てこない学生がが多い。

オンラインになってからといって、いきなり学生の勉学意欲が向上するというものではないであろう。むしろ、逆に、大学という場があって、そこで、時間割で決まった時間に出席しているという、ある種の強制力、あるいは、習慣のようなものがあって、続いている。それを、オンラインで、しかも、オンデマンド方式でやるとなると、学生自身が自分のやる気を維持しつづけなければならない。これは、ある意味で、ハードルの高いことである。

しかし、反面、これまでの「学校」というシステム、強制的に教室に時間割どおりに出てくる、ということになじめなかった学生が、オンライン授業であるならば、なんとかついて来ることができている、この可能性も考えてみなければならない。

総合的に考えれば、普通の授業を時間割どおりに教室で行うのと、オンデマンドのオンライン方式と、トータルでは同じようなものかもしれないと思う。もちろん、オンライン授業のなかには、リアルタイム双方向通信による(例えば、ZOOMやWebexなどの利用)ものもあってよい。ここは、多様性を考えてみるべきだと思う。

以上の二点が、今のところ考えているところである。

前期の間は、オンライン授業が続くとして、その間、自分なりにいろいろと考えてみたいと思っている。

2020年5月15日記

追記 2020-05-23
この続きは、
やまもも書斎記 2020年5月23日
オンライン授業あれこれ(その五)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/05/23/9249568

オンライン授業あれこれ(その三)2020-05-09

2020-05-09 當山日出夫(とうやまひでお)

続きである。
やまもも書斎記 2020年5月2日
オンライン授業あれこれ(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/05/02/9241775

いろいろと見ていると、世の中のかなりの大学でオンライン授業という方向に動いている。そして、また、同時に、その課題なども見えてきたというところだろうか。

私の場合、四月から五月にかけて、普通の授業はできないだろう、オンラインでやるしかないという判断になったとき、考えてみて、結局、リアルタイムでのライブ配信(ZOOMやYouTubeなど)は、使わないということにした。文書(教材プリント)の配布と、レポートという方針でのぞむことにした。このあたりのことを書いてみたい。

オンライン授業ということでまず思い浮かんだのは、学生のコンピュータリテラシのことである。昨年のことになるが、新学期の最初に次のようなことを聞いてみた……レポートを縦書きの文書で書けますか、書式設定としては、10.5ポイントの明朝体をつかって、40字40行の設定、これができますか……その結果としては、大部分の学生が、できないというものであった。それでも、前期の終わりのレポートの提出のときには、提出した学生はワープロで書いてきた。しかし、見ると、書式の設定ができていないものも、いくつか目についた。

自分の家、部屋に、自分用のパソコンがあって、固定光回線などでインターネットにつながっている、プリンタも持っている、このような学生が、どれほどいるだろうかと思う。これは、大学によっても違いがあるにちがいない。そうは思ってみるのだが、現実の問題として、私が教えている学生について考えてみるならば、学生のコンピュータやインターネット接続の環境は、かなり貧弱なものであるといっていいだろう。

ここ数年、出席は、スマホで取ることになっている。その時間の決まった数字を示して、それを入力する。が、これも、スマホを持っていないという学生が中にはいる。(出席は、参考までに確認するので、成績には関係ないとしてある。)

自分の部屋にインターネットにつながったパソコンが無い、また、スマホしかもっていない、あるいは、スマホも持っていない、このような学生の存在を無視することはできない。

このような状況をふまえるならば、リアルタイムのライブ配信は、無理があるとすべきだろうと考えた。

以前に書いたことをくりかえし書いてみるならば……より多くの学生が、より公平に、より無理なく、より継続的に……そして、それを担当する教員の側でも同じように、継続可能な方式は何であるか……このことを考えてみた。

さらに書くならば、「より多くの学生」が、ということは考慮してみるが、「すべての学生」がということは考えていない。すべての学生ということを考えるならば、根本的に、大学入学前からの準備として、パソコンとインターネット接続の準備ということを、説明しておかなければならない。大学生になれば、パソコンとインターネット接続ぐらいは当たり前と思っているような大学もあるだろうが、私の教えているところでは、どうもこれは無理があると判断せざるをえない。

もし、自分のパソコンが家にないとしても、大学のPC教室のものが利用できるなら、それでなんとかなるだろう。

それから、ライブ配信ということについては、私は、この方式はとらないことにした。

大学での教育ということについては、場の共有ということが重要であることは理解しているつもりである。ある決められた時間に、ある決められた場所(教室)で、授業に参加する、この行為自体に意味があることになる。

これはこれで十分にわかっているつもりではいる。しかし、同時に、このような既定の学校というシステムについてこれない学生もまた少なからずいることも確かなことである。この意味では、オンデマンド方式で、自分の好きな時間に、アクセスして教材を読むことができる、という方式の方が、ふさわしいといえるかもしれない。

オンライン授業になって、時間と場所の制約から解放されるということを、ここでは、むしろ前向きにとらえてみたかった。

たまたま、教えている科目は、日本語史ということで、文字とか表記それに文章のことなどを考えることにしている。この場合、じっくりと文章を読んで理解する、そして、自分でも文章を書ける、ということが重要になってくる。この観点から、音声配信はせずに、教材プリントの配布ということにした。

これは、音声配信……音声データつきのPowerPointスライド……ということも考えてみたが、学生のコンピュータ環境を考えると、これもちょっと無理があると判断した。スマホしか持っていない学生には、ハードルが高いかと思ったのである。

ただ、これも科目によることだとも思う。日本語学でも、音声、音韻、アクセント、というようなことを教えるには、音声データの送信ということが必須になってくるにちがいない。また、語学などは、どうしても、音声データは必用だろう。

たぶん、科目によっていろんな方針があっていいのだろうと思う。リアルタイムでのライブ配信もあれば、オンデマンドの教材送信もあってよい。結局、総合的に、いろんな方式のオンライン授業があるなかで、学生は学んでいけばいいのだと思う。この意味では、画一的に、同じキャンパスの教室に学生を集めて授業するという従来の考え方を、考え直す機会になるのかとも思う。

画一性から多様性へ、この流れがオンライン授業によって現実のものとなってきていると思うのである。

2020年5月8日記

追記 2020-05-16
この続きは、
やまもも書斎記 2020年5月16日
オンライン授業あれこれ(その四)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/05/16/9247182

オンライン授業あれこれ(その二)2020-05-02

2020-05-02 當山日出夫(とうやまひでお)

続きである。
やまもも書斎記 2020年4月24日
オンライン授業あれこれ(その一)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/04/24/9238660

今のところ、五月いっぱいは通常の教室での授業は中止ということになっている。その後、どうなるかわわからないが……たぶん、前期の間は再開は無理だろうと思っている。ニュースなどでは、今月(五月)の間は、緊急事態宣言はつづくらしい。それも状況によってはさらなる延長の可能性もある。

もし、何事もなければ、今年の予定では、カレンダーどおりに連休のはずであった。が、それも、前提が崩れてしまっている。いろいろ考えて、連休の間も教材を配信することにした。

その理由としては、

第一に、オンラインでの教材の配信であれば、学生が、物理的に時間や場所を拘束されることがない。自分の好きな時間に、インターネットからダウンロードできる。祝日だから休みにするということの意味がない。

第二に、今年度の初めの段階で、二回を休んでいる。情勢をみきわめる時間が必用であったし、学生の科目の履修登録が終了するのを待っていたということもある。この最初の休みになった分をおぎなう意味もあって、連休中も教材配信にした。そうすると、前期のうちに、ほぼ最初の予定どおり一五回をこなすことが可能になる。

以上のことを考えて、連休中ではあるが、教材の配信をしてある。

ただ、学生は、あまり大学のHPを見てはくれていないようである。今のところ、アクセス数は半分ほどであろうか。

だが、オンラインになったからといって、学生の全員がついてくると思うべきではないのかもしれない。通常の授業があるときでも、出席は、ほぼ半数程度である。出席は毎回確認している。少人数のゼミのような形態ならば、時間を決めて、リアルタイム双方向通信のシステム(ZOOMなど)をつかっての授業ということも考えるべきであろう。しかし、一〇〇人以上の学生を相手の概論的な講義である。無理に、学生を拘束することもないかと思っている。

おそらく、授業の種類によって、いろんな形態があっていい。卒論のゼミとか、あるいは、新入生の入門的な授業については、時間を決めて、リアルタイム双方向通信で行う必用があるだろう。しかし、すべての授業がそうであることもないと思う。

教材のオンライン配信という方式をとるということは、ある意味で、時間割を決めて、何曜日の何時間目、という制約が無くなることでもある。この制約の無くなることを、むしろ前向きにとらえて考えるべきかと思っている。これまでの学校のシステム、つまり、決められた時間に決められた場所(教室)に集まって、教師の話を聞くという形式が、自明のものではなくなってきているのである。

これは、今まで、このような既存のシステムではついてくることの難しかった学生が、逆に、学習しやすくなるという可能性がある。一方で、時間割があって決まっているからとにかく学校に出てきたという学生が、脱落していく可能性もある。これも、総合的に考えてみるならば、最終的には全体としてそう変わらないということになるのかもしれない。

授業の形態は変わる。教室での話しから、教材配信と課題提出ということになる。だが、そうはいっても、授業の目標、何を教えたいか、ということについては、いわゆる教育のレベルの保証が必用である。そのために、配信の教材は、なるべく丁寧に、しかし、読むのが負担にならないように、簡潔に分かりやすく書くことを、心がけることになる。これはこれで、教室で話しをするのとは、別の苦労と工夫が必用になることになる。

それから……リアルタイム双方向通信(ZOOMなど)では、スマホしか持っていない学生、自分のパソコンを持っていない学生を、見放すことになりかねない。ここは、より多くの学生が、より公平に、アクセス可能な方式を選ぶという選択もあっていいかと思う。

また考慮すべきこととして、学生の生活もある。経済活動が停滞してアルバイトもままならないであろう。そこに、既定の方針どおり時間割に従って時間を拘束することが適切かどうか……まあ、たしかに学生の本分は学業にあるといえばそれまでだが……しかし、現実の学生の生活のことも考えてやる必用があるとも、私は思う。

本来ならば、授業形態の変更に合わせてシラバスも書きかえ、内容も根本的に考える余裕、少なくとも一年ぐらいの余裕があってしかるべきところである。無論、学生はそのための準備(パソコンやインターネットへの接続など)も必要になってくる。だが、そうも言っていられない。走りながら考えるしかない。

幸い、昨年までの授業のプリントの蓄積がある。それに解説の文章を付け加えて説明するということでやってみようと思っている。そして、既存の「学校」というシステムとは何であったか、自分なりに考えることにしてみたい。

2020年5月1日記

追記 2020-05-09
この続きは、
やまもも書斎記 2020年5月9日
オンライン授業あれこれ(その三)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/05/09/9244587

オンライン授業あれこれ(その一)2020-04-24

2020-04-24 當山日出夫(とうやまひでお)

非常勤講師で教えている大学からは、まだ正式の通知はないのだが、たぶん前期の間は、オンライン授業になると考えている。予定では、通常の授業を5月11日から開始ということだが、たぶん無理だろう。すでにニュースなどでは、緊急事態宣言の延長をいつどのように決めるかということが、報じられるようになってきている。この先のことを楽観視する要因はひとつもない。

学生の履修登録が済んだ段階で、私の担当している日本語史の科目について、オンライン授業でどのように行うか、基本の方針を、大学のLMS(Learning Management System)「学生ポータルサイト」に掲載しておいた。(テキスト、PDF、Word文書ファイル、同一内容)。

基本的には、教材をオンラインで配布して、レポートを提出する。テキストを読み、文章を書くということを基本とした。

世の中の他の大学の動きなど見ていると、すでに前期の授業はオンラインと決めたところもいくつか目につく。京都の大学でも、その方針がHPなどで確認できるところが、いくつかある。

オンライン授業といっても、やり方は様々である。たとえば、WEBカメラとマイクをつかっての、リアルタイムでの双方向通信もある。その代表が、ZOOMの利用だろう。

だが、ZOOMの利用については、それを推奨する学校もある一方で、否定的な学校もある。セキュリティの問題もあるし、また、データ通信量の問題もある。あるいは、それに代わるものとして、音声データつきのPowerPointのスライドという方法もある。

これらの方法があるとしても、何よりも問題なのは、学生の利用可能な通信環境である。スマホを持っていない、パソコン(インターネットにつながっている)を持っていない、という学生が少なからず存在する。そのような学生が学校のPCを使おうと思っても、今は立ち入り禁止になってしまっている。(これは、特別に、PC利用のための許可を出すことでなんとかなるかもしれないが。)

とにかく、今の学生のコンピュータ利用の環境、インターネット接続の環境というのは、劣悪と言っていいだろう。自分の部屋の自分のパソコンがあり、固定光回線でインターネットにつながっている、というのは希少であると言ってもいいだろうか。

私が、オンライン授業を計画するときに考えたのは、次のようなことである。

より多くの学生が、より公平に、より無理なく、より継続的に……そして、それを担当する教員の側でも同じように、継続可能な方式は何であるか、ということである。

ところで、日本語史の科目で教えている内容は、基本的に、文字・表記、あるいは、文章についてのことである。大きなテーマとしては、日本文学はどのように書かれてきたか、ということで設定している。このような内容の場合、配布レジュメや解説文を読んで、それについてレポートで答えるという形で、十分になりたつ。いや、このようなテキストをベースにした授業の方が、より望ましいとさえも言えるかもしれない。

これが、音声や音韻、アクセントなどについての授業だったら、何らかの形で、音声や画像データを、学生に見聞きさせることが必用になる。しかし、文字や表記、文章といった分野のことであるから、基本的には、書いたものをじっくり読んでくれれば、それで教えたいことの意図は伝えることができる。

これまで(昨年度まで)、授業のプリントを、毎回A4で1枚、1ページあるいは裏表2ページで作って配布してきた。終わると、大学の学生ポータルに、PDFにして置いておくことにした。紙のものは、残さないことにしてきている。だから、大学の学生が利用するシステムに教材を置くことについては、私としては慣れているので問題はない。今回は、例年使ってきている教材プリントに、解説文を加筆したものを送信することを考えている。毎週読む負担を考えると、4ページ以内ぐらいだろうか。

レポートは、4回にするつもりでいる。数回分の授業について、要点をまとめて(数百字程度)、電子メールで送信ということにする。その電子メールの送信先は、大学の私のアカウントに指定しておく。また、この送信については、学生は、大学のメールから送信ということを、絶対条件にしておく。大学のメールがつかえることが、お互いの身分証明でもあることを、周知徹底させたいということもある。

4回のレポートで、各25点として、4回満足なものを出せば100点になる。これも、毎回レポートを提出させてもいいようなものかもしれないが、履修者数が100名を超えている。仮に7割の学生が提出したとしても、70名にはなる。これを、毎週適切に管理するのは、電子メールのシステムとしては、あまり現実的ではない。かといって、学期末の1回だけのレポートでは、適切に評価するのも難しい。4回ぐらいが妥当で現実的なところかと判断した。

先週、この授業をオンラインで行うときの方針について送信した。今週は、第1回のプリントと解説を、送信した。全部でA4で4ページ。これは、PDFとWord文書ファイルの両方で送信している。もし、学生の使っているのが、スマホだけであるとしても、このいずれかを開いて読むことは可能だろう。また、もしプリントアウトしたければ、今では、コンビニでプリントすることもできる。

学生がファイルを見れば、そのことが分かるようになっている。まだ、見ていない学生も少なからずいることは確かである。が、これも、正式に、大学から学生にオンライン授業の方針が示されれば、見てくれるだろう。

ともあれ、オンライン授業ということでやってみようと思っている。

2020年4月23日記

追記 2020-05-02
この続きは、
やまもも書斎記 2020年5月2日
オンライン授業あれこれ(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/05/02/9241775

『教科書名短篇-少年時代-』中公文庫2020-03-14

2020-03-14 當山日出夫(とうやまひでお)

教科書名短篇-少年時代-

中央公論新社(編).『教科書名短篇-少年時代-』(中公文庫).中央公論新社.2016
http://www.chuko.co.jp/bunko/2016/04/206247.html

続きである。
やまもも書斎記 2020年3月13日
『教科書名短篇-人間の情景-』中公文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/03/13/9223694

先に読んだ本と姉妹編ということになる。収めてあるのは次の作品。

少年の日の思い出 ヘルマン・ヘッセ/高橋健二訳
胡桃割り 永井龍男
晩夏 井上靖
子どもたち 長谷川四郎
サアカスの馬 安岡章太郎
童謡 吉行淳之介
神馬 竹西寛子
夏の葬列 山川方夫
盆土産 三浦哲郎
幼年時代 柏原兵三
あこがれ 阿部昭
故郷 魯迅/竹内好訳

読んでみて思うことは、次の二点になるだろうか。

第一には、中学の教科書にこれほど文学的な作品が収録されているのかという驚きのようなものである。どの作品も、申し分ない。文学的にすぐれている。おそらく、アンソロジー全体としての文学的な良さとしては、先に読んだ『教科書名短篇-人間の情景-』よりも、すぐれている。そして、これを読むと、少年のとき、子どものときのことを描くというのが、日本の近代文学のなかで、一つの流れとしてあったことが実感される。

第二には、日本文学、特に近代小説における子どもの描き方である。子どもの世界のことを描く、その感性のみずみずしさというところに、主眼がある。これはこれとして、一つの文学のあり方なのであろう。さて、このような傾向の文学……少年文学とでもいおうか……が、世界の他の国の文学においてどうであるのか、私は知り得ない。しかし、このようなアンソロジーとして示されると、確かにこれは、一つの日本文学のあり方であると感じる。

以上の二点が、読んで思ったことなどである。

おそらく、このようなアンソロジーがなければ、知らずにすんでしまった作品がほとんどである。

ただ、ここに収録の作品のうち、「故郷」(魯迅)は、憶えている。これは確か教科書で読んだだろうか。この作品だけは、ちょっと他の作品……主に日本の近代小説……とは、趣が違う。魯迅についても、読みなおしてみたいと思う。

2020年3月12日記

『教科書名短篇-人間の情景-』中公文庫2020-03-13

2020-03-13 當山日出夫(とうやまひでお)

教科書名短篇-人間の情景-

中央公論新社(編).『教科書名短篇-人間の情景-』(中公文庫).中央公論新社.2016
http://www.chuko.co.jp/bunko/2016/04/206246.html

ふと目についたので読んでみることにした。これは、中学校の国語教科書に採録された短編小説のアンソロジーである。収録してあるのは次の作品。

無名の人 司馬遼太郎
ある情熱 司馬遼太郎
最後の一句 森鷗外
高瀬舟 森鷗外
鼓くらべ 山本周五郎
内蔵充留守 山本周五郎
形 菊池寛
信念 武田泰淳
ヴェロニカ 遠藤周作
前野良沢 吉村昭
赤帯の話 梅崎春生
風になったお母さん 野坂昭如

このなかで、文学史的に一番有名なのは、「高瀬舟」(森鷗外)であろう。この本で私も久しぶりに読んだことになる。読んでみて、ああなるほどこういう小説であったのかと、改めて得心のいったところがある。そして、この「高瀬舟」は、中学生に読ませていい小説であると強く感じた。

自分とは価値観のことなる人に接したときどうあるべきなのか……一般化すれば、このような問いかけをこの小説は描いている。具体的に、この小説の内容に則していうならば、金銭感覚であり、安楽死の問題ということになる。だが、このようなテーマだけに限ってこの小説を読むことはないかと思う。もっと広く、人間として生きていくための価値観、その多様性という方向から読まれるべきではないだろうか。

これからの社会、多様性の尊重ということがもとめられる。そのときに必要になるのは、想像力である。自分とは異なる価値観をもつ人に対して、どのような想像力でもって接することがもとめられるのか。ここのところを涵養するものとして、「文学」というものがあってよい。

今、日本の国語教育は大きな岐路にたっている。中等教育において、これから、「文学」がどのように教えられることになるのか、一部には危機感を持っている人もいる。

私としては、多様性の尊重という観点からこそ、これからの「文学」の教育はなされる必要があると思っている。この意味において、「高瀬舟」は、これからも、中学生や高校生には読まれ続けて欲しい。

それから、読んで印象に残ったのは、「内蔵充留守」(山本周五郎)である。最後のオチの部分は読みながらなんとなく推測できてしまうのであるが、しかし、これも人が人として世の中で生きていくためには、何が必要なのか、きわめて分かりやすく、そして、面白く描いている。

最後に収録になっている、「風になったお母さん」(野坂昭如)。これは、短い作品だが、思わず読みふけってしまった。『火垂るの墓』につらなる戦争のこと、そのなかでも特に子どもに題材をとった作品である。独特の文体と相まって、確固たる文学の世界を構築している。

見てみると、この本の姉妹編の文庫、『教科書名短篇-少年時代-』も刊行になっている。これも読んでみたいと思う。

2020年3月9日記

追記 2020-03-14
この続きは、
やまもも書斎記 2020年3月14日
『教科書名短篇-少年時代-』中公文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/03/14/9223989

『国語教育 混迷する改革』紅野謙介2020-01-17

2020-01-17 當山日出夫(とうやまひでお)

国語教育

紅野謙介.『国語教育 混迷する改革』(ちくま新書).筑摩書房.2020
https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480072801/

国語学、日本語学という学問のはしくれで仕事をしてきた人間として、国語教育という分野のことは、まったく他人事ではない。また、今回の改革とされるものが、そもそもの教育と何か、学校はどうあるべきかの、根本にかかわる問題にもつながっている。等閑視するわけにはいかない。さらには、昨年から、議論のつづいている「古典は本当に必要なのか」の論点にもふみこむところがある。

もうやめてしまったのだが、以前、大学で、「アカデミック・ライティング」という授業を担当していたことがある。大学生に、論文やレポートの書き方を教えていた。そのとき、主に参考にしたのは、木下是雄の著作であった。直接、テキストに採用したのは、戸田山和久の『論文の教室』であった。

このとき、私は、学校における、(いまでいう)コミュニケーション・スキル、プレンゼテーション・スキルの重要性について、学生に語ったものである。そして、文学教育、情操教育に偏重している、日本の国語教育については、批判的であった。

だが、今になって、学習指導要領の改訂、さらには、大学入試共通テスト、これらによって変わるであろう、これからの日本の国語教育の未来には、不安を感じずにはいられない。

この本で直接対象としているのは、学習指導要領であり、予定されている大学入試共通テストである。大学入試共通テストについては、英語の民間試験利用が中止になったり、さらには、国語と数学における記述式問題の是非が話題になっている。

だが、問題は、国語の試験において、記述式問題を導入することにあるのではない。どのような試験を課すのか、それによって、どのような勉強が必要なるのか。影響の範囲は大きい。

同時に、大学入試の改革にあわせて、国語の科目のカリキュラムも大きく変わろうとしている。

国語……ことばの教育……というのは、それを学ぶ人間のこころに刻み込まれる。場合によっては、人を傷つけもする。だからこそ、学校という場所における「ことば」は、より慎重でなければならない。ことばというものに対する畏敬の念が必要である。ことばの教育については、常に謙虚である必要がある。

しかし、新しい学習指導要領を見ると、どうやらそうではないようだ。

ところで、「古典は本当に必要なのか」の議論と関連して、次の箇所を引用しておきたい。新しく設定される「言語文化」の授業について、次のように指摘する。

「もとより、自文化に対する知識と誇りをもたない者が、国際社会で自立した社会人として扱われることなどあり得ない」、藤森さんはそう書いています。しかし、それはずいぶん偏った認識です。中東やアフリカで内戦や混乱によって難民となり、あるいは他国に移り住んだ人がわずかな幸運と並々ならぬ努力によって国境を越えて新たな土地で活躍している、そうしたケースがたくさんあります。「国際社会で自立した社会人」というとき、そういう人たちの存在が浮かばないとしたら、思い描かれている「国際社会」といはせいぜい日本の延長線上にある名ばかりの「国際」社会ではないでしょうか。

以上、p.177

これからの日本、これからの国際社会において、古典教育とはどうあるべきか、改めてかえりみるべきところがある。

2020年1月12日記

『古典は本当に必要なのか、否定論者と議論して本気で考えてみた。』2019-10-11

2019-10-11 當山日出夫(とうやまひでお)

古典は本当に必要なのか

勝又基.『古典は本当に必要なのか、否定論者と議論して本気で考えてみた。』.文学通信.2019
https://bungaku-report.com/books/ISBN978-4-909658-16-6.html

https://bungaku-report.com/blog/2019/09/post-601.html

この本は出てすぐに読んだのだが……読んで思ったことなど書こうと思いながら、時間がたっている。それは、この本に書かれていることについては、すでに私が書いたこと以上のことは、もう言う必要がないと思われたからである。

やまもも書斎記 2019年1月18日
「古典は本当に必要なのか」私見
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/01/18/9026278

やまもも書斎記 2019年1月26日
「古典は本当に必要なのか」私見(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/01/26/9029000

やまもも書斎記 2019年2月16日
「古典は本当に必要なのか」私見(その三)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/02/16/9036658

これらの文章で私が考えてみたことに、はっきり言って、この本は答えてくれていない。いやむしろ、これは避けるべきであろうとした問題点に陥っているとさえ言える。それは、上記の「私見(その三)」の末尾に書いたことである。繰り返しになるが、再度書いてみる。

次のことを書いた。

=====

最後に付け加えて書いておきたいことがある。「古典は本当に必要なのか」をめぐっては、様々にWEB上で議論がある。それらを見て思うことがある。次のことは語ってはいけないことだと、自分自身への自省として思っていることである。

それは、
・高校の時のルサンチマンを語らない
・自分の今の専門への愛を語らない
この二つのことがらである。

このことをふまえたうえで、何故、古典は必要なのか、あるいは、必要でないのか。また、他の教科・教材についてはどうなのか、議論されるべきだと思うのである。

=====

これをふまえて、さてどうだろうか。この本は、陥穽におちいってはいないだろうか。

いくら今の自分の専門……江戸時代の文芸であろうと……への愛を語ったところで、それが、古典不要論に対する反論としては、意味を持つものではありえない。

そして、それからいろいろ考えて、今思うことは、「教養」というものがもっている「暗黙知」の問題である。実際に社会に出てつかう実用的な必要のある人はあまりいないかもしれないが、しかし、この程度のことは、社会人として一般的に知っておくべきこと……それを「教養」と言ってみるが……これは、時代や社会によってかわる。また、それは、「暗黙知」でもある。

おそらく「教養」には、実際に役にたつ知識や技能という側面と、「暗黙知」として、その社会の構成員である人びとに共有されるべき知識、この二つの側面がある。

たとえば英語(なかんずく英会話)やプレゼンテーション技能などは、さしずめ前者であろうし、広義に考えれば数学などは後者にはいるだろう。無論、大学以上の専門においては、数学は実用的に必須という領域がある(工学部など)。

だが、その一方で、いわゆる理系の大学の学部などで必要であるというだけではないという側面もある。文系の勉強をするにも数学への理解は必要になってくる。「教養」としての数学である。この意味で、「古典」は後者に属する。

「暗黙知」……言いかえるならば、あえてそれを表に出して議論しようとするならば、わけがわからなくなり雲散霧消してしまうしかないものである。しかし、ある時代や社会においては、人びとに共有される当然のこととして、確固として普通に思っていること、ということになる。

古典否定派の言うこと、たとえば、有限の高校生の授業時間の中で、何を優先的に教えるべきか……このことを正面から問われたときには、「古典」必要派としては、実用性という観点からは、もはや沈黙するしかないように思える。

ところで、これも繰り返しになるが、「古典」というものが近代になってから再発明、再発見されてきたものであるという側面を、きちんとふまえて議論しなければならない。「古典」が必要であるというならば、そのようなものとしての「古典」の性格をわかったうえで、これからの「古典」の教育の是非、必要・不必要が論じられるべきである。

たとえば、今の元号「令和」の出典は『万葉集』である。これは、『万葉集』が「国書」であり「古典」であるから、そこに典拠をもとめた……これは、元号を決めた側の理屈である。日本の国・政府の立場である。これに対して、いや、そうではないと言うこともできよう。元号がそこからとられたことによって、『万葉集』が「古典」として、再定義、再生産されていくのである、と。

このような批判的視点こそ、これからの時代において必要なものであると私は思う。そのためには、最低限の「古典」の素養は、「教養」として身につけておくべきものである。むろん、そこでの知識は、ちょっと専門的な勉強をすれば、すぐに消し飛んでしまうようなものかもしれない。だが、そうではあっても、それを知っていることを当然の前提、基礎として、それに対する批判的知見というものが成り立ちうる。(さらにいえば、このような批判的視点を持ちうるのが、真の「教養」というべきものであろう。)

『万葉集』が「古典」になったのは、近代になってからであり、また、元号の出典として「古典」として再定義されているものである……このような批判的視点を確保するためには、まず『万葉集』が「古典」として教育の場に出てこなければならない。このような、非常に屈折した意味においてであるが、「古典」は教育において必要であると考える。

「古典」をめぐる議論は、「教養」における二つの点……「実用」という側面と、それから、「暗黙知」という側面と、この二つのこと両方を視野にいれた議論として……そして、それを区分して……展開されるべきものであると考えるのである。

追記 2021-06-13
この続きは、
やまもも書斎記 2020年7月12日
『「勤労青年」の教養文化史』福田良明

「古典は本当に必要なのか」私見(その三)2019-02-16

2019-02-16 當山日出夫(とうやまひでお)

続きである。
やまもも書斎記 2019年1月26日
「古典は本当に必要なのか」私見(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/01/26/9029000

シンポジウムをYouTubeで見ていて、ちょっと気になったことなので書いておくことにする。

古典肯定派からの意見として、「情理をつくしてとく」ということが言われていた。私は、これには深く同意するものである。『徒然草』を教材にして、「花はさかりに月はくまなきをのみ見るものかは」のくだりに言及しての発言である。

確かに、ディベート技術といわれるものもこれからの国語教育では必要であろう。また、説明文などの技術的文書の書き方、読み方も必要であると思う。このこと自体には異存はない。

だが、それだけでいいのだろうか。

人と話しをして、特に自分とは異なる意見の持ち主に対して、ただ、論理的に論破すればいい、これだけでいいのだろうか。人と人とのコミュニケーションにおいて、最終的に、人間関係を構築するうえで重要なのは、「情理をつくしてとく」という姿勢にあるのではないか。

この意味においては、「古典」の教育は、意味のあるものでなければならないと思う。

そして、さらに言えば、現代文においても重要である。『山月記』『羅生門』『舞姫』『高瀬舟』……といった、定番の国語教材(近代文学作品)は、読んでいったい何の役にたつのか。私は、これは、最終的には、自分と異なる立場・意見のひとに接したとき、「情理をつくしてとく」ということにつながるのであると思う。そして、自分とは異なる立場・意見のひとのことばに、耳を傾けるという姿勢、これこそ、これからの時代において本当に必要になってくるものなのではないだろうか。

多様性の尊重ということが、今の時代、これからの時代には求められる。そのとき、異なる立場・意見のひとにどう対するべきか、これは、ただ、ディベートで勝てばよいという発想では対処しきれない問題があると思う。

私は、国語教育は、言語コミュニケーション教育を重視すべきであるという立場をこれまでとってきた。学生に文章の書き方を教えるときでも、基本的に、国語教育のうちの情操教育については、批判的な観点から話しをしてきた。

だが、ここにきて、国語教育のなかから、文学教育・情操教育という側面が、まさに否定されようとしているとき、あえて立ち止まって、このことの必要性を改めて考え直すことの意味を、強く感じるものである。

何故、私はこのように考えるのか、何故、あなたのように考えることはできないのか……考えて見ることの姿勢は、まさに今の時代にこそ必要とされるものであるにちがいない。そこには、相手の立場にたって考えてみる「想像力」が必要である。

このようなこと、かなり以前に、内田樹がどこかのエッセイで書いていたことと記憶している。まだ、そんなに有名ではない、評論家であったころの著作においてである。

情理をつくしてとく……このことのためには、「文学的な想像力」の教育こそ不可欠であると、私は思う。この観点においても、「古典」の教育は、再度かえりみられなければならないと考える。

最後に付け加えて書いておきたいことがある。「古典は本当に必要なのか」をめぐっては、様々にWEB上で議論がある。それらを見て思うことがある。次のことは語ってはいけないことだと、自分自身への自省として思っていることである。

それは、
・高校の時のルサンチマンを語らない
・自分の今の専門への愛を語らない
この二つのことがらである。

このことをふまえたうえで、何故、古典は必要なのか、あるいは、必要でないのか。また、他の教科・教材についてはどうなのか、議論されるべきだと思うのである。

追記 2019-10-11
この続きは、
やまもも書斎記 2019年10月11日
『古典は本当に必要なのか、否定論者と議論して本気で考えてみた。』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/10/11/9163517

『君たちはどう生きるか』吉野源三郎2019-02-04

2019-02-04 當山日出夫(とうやまひでお)

君たちはどう生きるか

吉野源三郎.『君たちはどう生きるか』(岩波文庫).岩波書店.1982 (新潮社.1937)
https://www.iwanami.co.jp/book/b246154.html

話題になっている本ということで読んでみることにした。

この本が読まれる現代という時代が、ある意味でいびつなのかもしれないとも思うが、しかし、ここは、なるべく肯定的にこの本を読んでみたいと思う。

この本が最初に出たのは、1937(昭和12)年である。日中戦争のはじまったころということになる。

読んでみて、たしかにいい本だという気になる。今の時代、これほどストレートに、若者にどう生きるべきかを問いかける本は珍しいかもしれない。いや、今日においても、青少年向けの啓発本の類は多くある。教育関係の本もたくさんある。だが、現代のそれらとは、やはり趣を異にするところがあるように思える。そして、そこのところが、今、この本が読まれている理由であるのだろう。

それは、おそらく、現実をふまえながらも理想を語る、その精神のあり方にあるのだと感じる。

昭和のはじめごろ、戦前……社会においては、階級、階層ということが厳然としてあった。また、旧習になじんだままの硬直した組織というものがあった。そのような時代の背景の中において、個々の人間として、どのように生きるべきか、その理想を語っている。いや、理想が形になって表現されているというのではない。現実にある社会のなかで、どのように生きるべきか考えること、それ自体に価値がある、ここが重要なポイントになるのだろう。

おそらく、現代においてこの本が読まれているのは、社会の階層とか組織の中の人間とか、現代社会にも通じるところを読みとってのことだと思う。

が、それよりも私が、この本について感じる魅力は、その真面目さである。社会の中でいきることについて、コペル君も、おじさんも、きわめて真面目である。このような社会と人間について真面目に考えてみるということこそ、現代において失われてしまったものなのかもしれない。真面目に理想を語る、このことの意味を考えて見る必要があると感じるのである。

この本が今読まれているという現実から、今日の社会の病理を分析することも可能だろう。そのような読み方もあってよいと思う。が、今から八〇年ほど前に書かれたこの本の語らんとしたこと、その理想を素直に受けとめることもできる。私は、そのようにこの本を読んでおきたい。