『おむすび』「笑え、ギャルズ」 ― 2025-01-26
2025年1月26日 當山日出夫
『おむすび』「笑え、ギャルズ」
この週は、結がほとんど出てきていない。別にヒロインの出てこない朝ドラの回があってもかまわないとは思う。要は、ドラマとして面白ければいいのである。
このドラマ、分かりやすい脚本になっていることは確かなのだが、それを見て面白いと感じるかどうかは、かなり微妙である。積極的につまらないとまでは思わないけれど……そのストーリーの展開に引きこまれるというとことは、ほとんどない。
中心的に描かれていたのは、結の姉の歩である。九州から、ルーリーがやってくる。チャンミカの店を手伝い、合コンしたのはいいが、どうやら相手はドロボー目的だったようで、チャンミカの店が被害にあう。その一方で、東北にいるギャル仲間のアキピーと再会し、自分に出来ることは何かと自問することになる。最終的には、みんなで前を向いて明るく生きていこう、ということになる。
まあ、たしかに、描いていることは、そのとおりだとは思いながら見ていたのだけれども、どの人物やエピソードにも、深く共感するというところがなかった。人間というのは、そういうもんだよなあ、と感じるところが無かったのである。別にこれは、ギャルだからどうこうということではない。そのような生き方を選ぶ人間がいてもいいのは当然としても、そこで感じることが、よりひろく共感を呼ぶということが無いのである。
商店街については、ショッピングセンター建設の話しがもちあがある。商店街では反対意見が多いようであるが、渡辺がイエスといわないかぎり建築はできない。この週では、渡辺は土地の売却をこばんでいる。
話しをするのに、ヨネダの理容店で話しをするというのは、どうなのだろうか。セットの都合なのかもしれないが、こんなふうに商店街の人たちがたむろしているような理容店に、お客が入ってくるとは思えない。お客が来ない店だから、都合良く集まっているのかもしれないが。愛子が作ったホームページの効果はどうなってしまったのだろう。
そもそもということになるが、このドラマでは、商店街のビジネスということが、根本的に描けていない。震災からの復興ということで、建物は新しく元通りになったとしても、そこで、どんな商売をするかについての展望を語るということがない。この時代、全国的にも、各地の商店街が斜陽化してきていた時代だったかと思うのだけれども、どうだろうか。個人商店中心の商店街が活性化するためには、カーニバルではダメで、根本的なところから考えなければならないだろう。少なくとも、個々の商店の魅力があつまって相乗効果を生み出す何か、それを模索するというところが、まったく描けていない。
相変わらずであるが、このドラマでは、仕事を描かない。あるいは描くのが下手である。糸島のときは、農作業という具体的なことがあったので、それを映していればよかったかもしれない。しかし、理容店の仕事も、パン屋の仕事も、靴屋の仕事も、具体的に手を動かして仕事をしている人間を、映像として魅力的に描こうとはしていない。チャンミカの店でも、服を並べたりする場面を、花やかに美しく映像として見せることも出来るだろうが、そういう工夫はしていない。
気になるのは渡辺の靴屋である。店にある商品(できあい)を売るのではなく、オーダーメイドで靴を作るというのなら、それに特化して、高付加価値の店の戦略があるかもしれない。だが、そのためには、靴職人として、手を動かして靴を作っているところを見せなければ、説得力にかける。
糸島からひみこが来ていたことの意味はいったい何だったのだろうかとも思う。
栄養士と管理栄養士の違いについても、これはきちんと説明しておくべきである。試験の合格率も、四年制大学でそれのための専門の勉強をした学生と……たとえば、(私の住むところの近辺では)大阪公立大学生活科学部食栄養学科、奈良女子大学生活環境学部食物栄養学科、近畿大学農学部食品栄養学科、同志社女子大学生活科学部食物栄養科学科、などがある……そうでない学生(結のように、栄養士の資格があって、実務経験の後に受験する)とでは違うだろうから、ここははっきりとした説明をしておいた方がいいと思う。こういうことをきちんと説明しないままで進行するのは、なんとなくフェアではないという印象をもつのであるが。(たまたま、私の娘が、管理栄養士の資格を持っているので、こうことを知っている。管理栄養士の資格は、厚生労働省の所管である。)
次週以降は、結の出番が多くなるようである。
2025年1月25日記
『おむすび』「笑え、ギャルズ」
この週は、結がほとんど出てきていない。別にヒロインの出てこない朝ドラの回があってもかまわないとは思う。要は、ドラマとして面白ければいいのである。
このドラマ、分かりやすい脚本になっていることは確かなのだが、それを見て面白いと感じるかどうかは、かなり微妙である。積極的につまらないとまでは思わないけれど……そのストーリーの展開に引きこまれるというとことは、ほとんどない。
中心的に描かれていたのは、結の姉の歩である。九州から、ルーリーがやってくる。チャンミカの店を手伝い、合コンしたのはいいが、どうやら相手はドロボー目的だったようで、チャンミカの店が被害にあう。その一方で、東北にいるギャル仲間のアキピーと再会し、自分に出来ることは何かと自問することになる。最終的には、みんなで前を向いて明るく生きていこう、ということになる。
まあ、たしかに、描いていることは、そのとおりだとは思いながら見ていたのだけれども、どの人物やエピソードにも、深く共感するというところがなかった。人間というのは、そういうもんだよなあ、と感じるところが無かったのである。別にこれは、ギャルだからどうこうということではない。そのような生き方を選ぶ人間がいてもいいのは当然としても、そこで感じることが、よりひろく共感を呼ぶということが無いのである。
商店街については、ショッピングセンター建設の話しがもちあがある。商店街では反対意見が多いようであるが、渡辺がイエスといわないかぎり建築はできない。この週では、渡辺は土地の売却をこばんでいる。
話しをするのに、ヨネダの理容店で話しをするというのは、どうなのだろうか。セットの都合なのかもしれないが、こんなふうに商店街の人たちがたむろしているような理容店に、お客が入ってくるとは思えない。お客が来ない店だから、都合良く集まっているのかもしれないが。愛子が作ったホームページの効果はどうなってしまったのだろう。
そもそもということになるが、このドラマでは、商店街のビジネスということが、根本的に描けていない。震災からの復興ということで、建物は新しく元通りになったとしても、そこで、どんな商売をするかについての展望を語るということがない。この時代、全国的にも、各地の商店街が斜陽化してきていた時代だったかと思うのだけれども、どうだろうか。個人商店中心の商店街が活性化するためには、カーニバルではダメで、根本的なところから考えなければならないだろう。少なくとも、個々の商店の魅力があつまって相乗効果を生み出す何か、それを模索するというところが、まったく描けていない。
相変わらずであるが、このドラマでは、仕事を描かない。あるいは描くのが下手である。糸島のときは、農作業という具体的なことがあったので、それを映していればよかったかもしれない。しかし、理容店の仕事も、パン屋の仕事も、靴屋の仕事も、具体的に手を動かして仕事をしている人間を、映像として魅力的に描こうとはしていない。チャンミカの店でも、服を並べたりする場面を、花やかに美しく映像として見せることも出来るだろうが、そういう工夫はしていない。
気になるのは渡辺の靴屋である。店にある商品(できあい)を売るのではなく、オーダーメイドで靴を作るというのなら、それに特化して、高付加価値の店の戦略があるかもしれない。だが、そのためには、靴職人として、手を動かして靴を作っているところを見せなければ、説得力にかける。
糸島からひみこが来ていたことの意味はいったい何だったのだろうかとも思う。
栄養士と管理栄養士の違いについても、これはきちんと説明しておくべきである。試験の合格率も、四年制大学でそれのための専門の勉強をした学生と……たとえば、(私の住むところの近辺では)大阪公立大学生活科学部食栄養学科、奈良女子大学生活環境学部食物栄養学科、近畿大学農学部食品栄養学科、同志社女子大学生活科学部食物栄養科学科、などがある……そうでない学生(結のように、栄養士の資格があって、実務経験の後に受験する)とでは違うだろうから、ここははっきりとした説明をしておいた方がいいと思う。こういうことをきちんと説明しないままで進行するのは、なんとなくフェアではないという印象をもつのであるが。(たまたま、私の娘が、管理栄養士の資格を持っているので、こうことを知っている。管理栄養士の資格は、厚生労働省の所管である。)
次週以降は、結の出番が多くなるようである。
2025年1月25日記
『カーネーション』「ライバル」 ― 2025-01-26
2025年1月26日 當山日出夫
『カーネーション』「ライバル」
このドラマは、岸和田の小原糸子の物語であると同時に、岸和田の商店街のなかの小原の家の物語にもなっている。この週から、昔の呉服屋さんの建物がリフォームされて、一階の店の畳がなくなった。その奧の茶の間は、以前のままだが、店舗はいかにも洋裁店という雰囲気に変わっている。店の改装を象徴するのが、店内でひらかれたファッションショーということになる。
娘たちが大きくなり、ドラマのなかで重要な役割をになうようになってきた。まず、長女の優子が、家の後を継ぐか、東京の美大にいくかで、問題になる。結局、美大をあきらめて、洋裁の学校に通う。次女の直子は、絵の才能があることは確かだが、これも、原口先生(優子の東京での先生)に認められて、洋裁の道を目指すことになる。今のところ、三女の聡子はテニスに夢中であるが。
ここまで見てきたところで、組合長の三浦とか、北村とか、糸子のまわりにいて、糸子の生き方に影響を与える人物が配置されていて、その存在の描き方が実にたくみである。また、近所の商店街の人びと、特に、安岡のおばちゃんの存在が大きい。これらの人びとを通じて、糸子の生きてきた時代のいろんな考え方を描写することにつながっている。その多くは、昭和の戦前から戦後にかけて、普通に生活してきた人びとの思いである。その生活に即した感覚を、丁寧に描いているのが、このドラマの良さということになるだろう。
細かなことかもしれないが、ちょっとしたことがドラマにリアリティを与えている。一瞬しか映らなかったが、台所でわらび餅がお皿に盛ってあった。そして、優子と千代(だったと思うが)の会話が進んでいく。別に、わらび餅などなくても、話しをすればいいようなものかもしれないが、台所の仕事をしながらの会話ということで、生活感のある場面になっている。
直子と原口先生が、直子のこれからの進路について話しをする場面も、台所だった。壁にひびがはいっているのを、ペインティングナイフで修復しながら、原口先生は、直子に語りかけていた。日常の生活の場、仕事の場で、手を動かしながら、それとは関係ない将来の話しをしている。これは、アンバランスかもしれないが、人間の会話とはこんなもんだというところもある。このドラマの演出のたくみさの一つとして、このような、日常のしぐさと登場人物の会話が、絶妙におりこまれているというところがある。
ところで、糸子は、世界の最新のファッションを視野にいれて仕事をしている、というふうになっている。主に、ファッション雑誌から情報を仕入れているようだ。これはいいとしても、この時代の女性のファッションのみなもとの一つは、映画だったろうと思うのだが、このことは出てきていない。映画女優さんみたい……というのが、女性に対する最大級の褒め言葉だった時代である。(私は、かろうじて、この時代の雰囲気を憶えている。)いろいろ権利関係の問題もあって、映画をドラマのなかで描くことは難しかったのかもしれないとは思うが。
2025年1月25日記
『カーネーション』「ライバル」
このドラマは、岸和田の小原糸子の物語であると同時に、岸和田の商店街のなかの小原の家の物語にもなっている。この週から、昔の呉服屋さんの建物がリフォームされて、一階の店の畳がなくなった。その奧の茶の間は、以前のままだが、店舗はいかにも洋裁店という雰囲気に変わっている。店の改装を象徴するのが、店内でひらかれたファッションショーということになる。
娘たちが大きくなり、ドラマのなかで重要な役割をになうようになってきた。まず、長女の優子が、家の後を継ぐか、東京の美大にいくかで、問題になる。結局、美大をあきらめて、洋裁の学校に通う。次女の直子は、絵の才能があることは確かだが、これも、原口先生(優子の東京での先生)に認められて、洋裁の道を目指すことになる。今のところ、三女の聡子はテニスに夢中であるが。
ここまで見てきたところで、組合長の三浦とか、北村とか、糸子のまわりにいて、糸子の生き方に影響を与える人物が配置されていて、その存在の描き方が実にたくみである。また、近所の商店街の人びと、特に、安岡のおばちゃんの存在が大きい。これらの人びとを通じて、糸子の生きてきた時代のいろんな考え方を描写することにつながっている。その多くは、昭和の戦前から戦後にかけて、普通に生活してきた人びとの思いである。その生活に即した感覚を、丁寧に描いているのが、このドラマの良さということになるだろう。
細かなことかもしれないが、ちょっとしたことがドラマにリアリティを与えている。一瞬しか映らなかったが、台所でわらび餅がお皿に盛ってあった。そして、優子と千代(だったと思うが)の会話が進んでいく。別に、わらび餅などなくても、話しをすればいいようなものかもしれないが、台所の仕事をしながらの会話ということで、生活感のある場面になっている。
直子と原口先生が、直子のこれからの進路について話しをする場面も、台所だった。壁にひびがはいっているのを、ペインティングナイフで修復しながら、原口先生は、直子に語りかけていた。日常の生活の場、仕事の場で、手を動かしながら、それとは関係ない将来の話しをしている。これは、アンバランスかもしれないが、人間の会話とはこんなもんだというところもある。このドラマの演出のたくみさの一つとして、このような、日常のしぐさと登場人物の会話が、絶妙におりこまれているというところがある。
ところで、糸子は、世界の最新のファッションを視野にいれて仕事をしている、というふうになっている。主に、ファッション雑誌から情報を仕入れているようだ。これはいいとしても、この時代の女性のファッションのみなもとの一つは、映画だったろうと思うのだが、このことは出てきていない。映画女優さんみたい……というのが、女性に対する最大級の褒め言葉だった時代である。(私は、かろうじて、この時代の雰囲気を憶えている。)いろいろ権利関係の問題もあって、映画をドラマのなかで描くことは難しかったのかもしれないとは思うが。
2025年1月25日記
『カムカムエヴリバディ』「1962」 ― 2025-01-26
2025年1月26日 當山日出夫
『カムカムエヴリバディ』 「1962」
最初の放送のときは、お正月をはさんで、安子編から、るい編に変わったのだが、それを連続して放送すると、すこしギクシャクした感じになる。が、とりあえず、週のまとまりで見て、思うことなど書いてみることにする。
クリーニング屋で働き始めたるいは、弁護士の男性と知り合う。結局、この男性とは映画を見にいっただけで終わってしまうのだが、その傷心のるいが、たまたま入った喫茶店で、トランペットを吹くジョーの姿を目にすることになる。このあたりのはこびは、とてもたくみだと感じる。ちょっとだけの登場に終わってしまった弁護士さんだが、そう残念な気持ちにもならない。うまい役どころであったと感じる。
クリーニング屋にやって来ていた男性が、トランペット奏者であることを知り、ジャズ喫茶の、Night and Day からのクリーニングの注文をひきうけることになる。結果として、るいは、その店に足をはこび、ジョーと馴染みになっていく。このあたりの筋の運びも、自然である。
特に波瀾万丈の事件が起こったということではないのであるが、クリーニング屋の夫婦のるいを見る目があたたかい。また、ジャズ喫茶にあつまる客たちとの人間関係も、興味深いものになる。
印象に残っているのは、時代劇のシーン。モモケンの映画である。これから、このドラマで大きな役割をになうことになる存在である。この殺陣のシーンが、本格的に作ってある。おそらくは、『オードリー』で描いた、この時代の時代劇映画のことをふまえて、それへのリスペクトとして作ってある。切られ役が、松重豊だった。そして、るいが若い弁護士と行った映画が、黒澤明の『椿三十郎』というのも、『オードリー』を意識してのことだろう。これと併行して、O・ヘンリーの短篇「善女のパン」が劇中劇で出てくるのだが、これも見ていて面白い。パン屋の店員の女性と、るいの気持ちが、うまく重ね合わさっている。
ジャズ喫茶の Night and Day でのジョーのステージのシーンもいい。
るいとジョーが一緒に入ったレコード店のなかに、渡辺貞夫のポスターがあったのは、まさに視聴者へのサービスというべきだろうか。(私ぐらいの年代だと、夜のFM放送でよく聴いたものである。)
ところで、るいはジョーが演奏した、On the Sunny Side of the Street について、どこかで聴いたことがある曲だとは分かるのだが、聴いたときにはっきりと思い出してはいなかった。ふりかえれば、これは、岡山の定一の喫茶店で、ルイ・アームストロングのレコードを、母親の安子と一緒に聴いていたことになる。そして、その店のなかには、トランペットの少年もいた。だが、ドラマでは、まだこのことについては何も触れていない。
ジョーは、るいのことばをきいて、岡山のことばだと判断している。
小さなエピソードがたくみにからまりつみかさなって、このドラマは進行していことになるのだが、それが早すぎもせず、遅すぎもせず、特に難解ということでもなく、説明的にもなりすぎず、このあたりのバランスが、非常にうまくつくってあると感じることになる。
2025年1月24日記
『カムカムエヴリバディ』 「1962」
最初の放送のときは、お正月をはさんで、安子編から、るい編に変わったのだが、それを連続して放送すると、すこしギクシャクした感じになる。が、とりあえず、週のまとまりで見て、思うことなど書いてみることにする。
クリーニング屋で働き始めたるいは、弁護士の男性と知り合う。結局、この男性とは映画を見にいっただけで終わってしまうのだが、その傷心のるいが、たまたま入った喫茶店で、トランペットを吹くジョーの姿を目にすることになる。このあたりのはこびは、とてもたくみだと感じる。ちょっとだけの登場に終わってしまった弁護士さんだが、そう残念な気持ちにもならない。うまい役どころであったと感じる。
クリーニング屋にやって来ていた男性が、トランペット奏者であることを知り、ジャズ喫茶の、Night and Day からのクリーニングの注文をひきうけることになる。結果として、るいは、その店に足をはこび、ジョーと馴染みになっていく。このあたりの筋の運びも、自然である。
特に波瀾万丈の事件が起こったということではないのであるが、クリーニング屋の夫婦のるいを見る目があたたかい。また、ジャズ喫茶にあつまる客たちとの人間関係も、興味深いものになる。
印象に残っているのは、時代劇のシーン。モモケンの映画である。これから、このドラマで大きな役割をになうことになる存在である。この殺陣のシーンが、本格的に作ってある。おそらくは、『オードリー』で描いた、この時代の時代劇映画のことをふまえて、それへのリスペクトとして作ってある。切られ役が、松重豊だった。そして、るいが若い弁護士と行った映画が、黒澤明の『椿三十郎』というのも、『オードリー』を意識してのことだろう。これと併行して、O・ヘンリーの短篇「善女のパン」が劇中劇で出てくるのだが、これも見ていて面白い。パン屋の店員の女性と、るいの気持ちが、うまく重ね合わさっている。
ジャズ喫茶の Night and Day でのジョーのステージのシーンもいい。
るいとジョーが一緒に入ったレコード店のなかに、渡辺貞夫のポスターがあったのは、まさに視聴者へのサービスというべきだろうか。(私ぐらいの年代だと、夜のFM放送でよく聴いたものである。)
ところで、るいはジョーが演奏した、On the Sunny Side of the Street について、どこかで聴いたことがある曲だとは分かるのだが、聴いたときにはっきりと思い出してはいなかった。ふりかえれば、これは、岡山の定一の喫茶店で、ルイ・アームストロングのレコードを、母親の安子と一緒に聴いていたことになる。そして、その店のなかには、トランペットの少年もいた。だが、ドラマでは、まだこのことについては何も触れていない。
ジョーは、るいのことばをきいて、岡山のことばだと判断している。
小さなエピソードがたくみにからまりつみかさなって、このドラマは進行していことになるのだが、それが早すぎもせず、遅すぎもせず、特に難解ということでもなく、説明的にもなりすぎず、このあたりのバランスが、非常にうまくつくってあると感じることになる。
2025年1月24日記
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