「大アマゾン 最後の秘境 第4集「最後のイゾラド 森の果て 未知の人々」」2025-01-09

2025年1月9日 當山日出夫

再放送である。最初は、2016年8月7日。

NHKスペシャル 大アマゾン 最後の秘境 第4集「最後のイゾラド 森の果て 未知の人々」

これは見たような記憶がある。アマゾンの奥地で、未知の先住民の存在が報じられたのは、憶えているし、映像のいくつかも記憶にある。

再放送を見て、思うことはある。

まず、このイゾラドの人びとと、ことばが通じたということである。どの言語か特定はされていなかったが、先住民の言語のうちの一つが、なんとか通じることばであった。ということは、言語学の立場から考えるならば、このイゾラドの人びとが、別れて森の奥で隔絶して生活するようになったのは、そう大昔のこと、何万年も前ということではなさそうである。今時、言語年代学ということをいう人もいないとは思うけれども、そんなに古くに別れたものではないだろう。

このような人びと、かなり古風な言い方をあえてすれば、未開の人びと、こういう人びとの暮らしを見て思うことの一つとしては、やはり、大昔の人間の暮らしとはどんなものだったのだろうか、ということになる。

近代になって文化人類学という学問が確立する以前、アフリカやアメリカなどの先住民の人びとの暮らしを見て、そこから、人間社会の原初形態を想像する、ということが、西欧の知性の仕事であった、といっていいかもしれない。ホッボズやルソーなどの仕事も、この基盤の上にあると理解している。また、原始共産制……今時、こんな用語を使う人もいなくなったと思うが……を考えてみるとして、これも、いわゆる未開の人びとの暮らしぶりをもとに想像したことになるだろう。

番組を見るかぎりであるが、イゾラドの人びとは、言語をつかい、家族があり、弓矢の武器を持ち、火を使って料理をする……決して、これを未開といってはいけないかと思うことになる。土器は作っていないことになるが。たまたまアマゾンの開拓(といっていいかどうかは難しいが)の歴史のなかで、「文明」との接触がなかっただけのこと、という理解でいいだろう。

人類史、ホモ・サピエンスの歴史からすれば、南アメリカに人類がやってきたのは、いつごろからのことになるの、という推定をもとに考えることになるだろう。また、今の時代であれば、DNAの分析から、他の先住民族との関係も明らかにできるにちがいない。

2025年1月8日記

「アウラ 未知のイゾラド 最後のひとり」2025-01-09

2025年1月9日 當山日出夫

NHKスペシャル 「アウラ 未知のイゾラド 最後のひとり」

再放送である。最初の放送は、2018年12月16日。

NHKでイゾラド関係の番組をまとめて再放送するので、録画しておいて見た。

イゾラドの人びとについては、いろいろと考えることはあるが、私が、この番組を見て感じたことの一番のことは、人間と言語である。最後の一人となった、アウラと名付けられた男性は、話すことをやめない。自分の話すことばが、相手に理解されるものではないということは、分かっているはずである。彼は、いったい何のために話しているのだろうか。おそらく、自分自身に向けて、自分が何者であり、かつてどんな体験をしてきて、今何を思うことになるのか、それがことばになっている……このような理解でいいだろうか。

最後の二人になって、「文明」のなかにつれてこられた。アウラの場合、三〇年の月日が経過したことになる。なぜ、この男性は、ポルトガル語であれ、他の先住民の言語であれ、かたことであっても憶えて、その言語でコミュニケーションしようとしないのか。(人間と言語のあり方としては、この方が自然である。)

おそらくは、「文明」の言語とは、絶対に拒絶したいなにものかであった、ということを思うのだが、どうなのだろうか。他の言語をかたくなに拒否し、母語で話し続ける、このことの意味を、言語と人間を考える観点からは、深く思ってみることになる。

最後に余計なことかもしれないが、書いておくと……「文明」のなかにつれてこられた最後の二人のイゾラド、その経験したことは、おそらく人間として耐えがたい極限の状況を生きのびてきたのだろう。その表情は、(適切なことばが思いうかばないのでしかたなく使うが)狂気を感じるものであった。当たり前のことだが、イゾラドの人びとを、同じ人間として見ることが、一番もとめられることであろう。

2025年1月8日記

「アマゾンで10年ぶり出現未知の人々“イゾラド”」2025-01-09

2025年1月9日 當山日出夫

クローズアップ現代 アマゾンで10年ぶり出現未知の人々“イゾラド”

これは録画しておいて、翌日(今日)の朝早くに見た。NHKのイゾラド関係の番組の再放送と合わせて、順番に見ていったことになる。

はっきりいって、ヤマザキマリは余計である。つまらないコメントよりも、現地の映像を映してほしいと思う。

イゾラドの人びとが、以前よりも攻撃的になった。これは、これまでの経緯(それは、推測するしかないのだが)から考えると、しかたないことなのかと思う。イゾラドの人びとにとって、国境も、保護区域も、そんなものは関係なく生きてきたはずである。

これからのあり方としては、緩衝地帯を作って、お互いの存在を認識し合ったうえで、共存する道を探っていくことになるのだろう。無論、違法な伐採業者は排除されなければならない。(「文明」の側から出来ることとしては、伐採をやめて、可能な限り自然環境を保全するぐらいのことしかできないであろう。)

NHKのHPを見ると、担当のディレクタの文章が載っている。

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20250108/k10014686881000.html

現地の人びとの生き方としては、なんらかの形で、イゾラドの人びととの共存を目指すということである。これが、おそらくは、最も賢明な判断かと思う。

また、これまでに放送したものを見て思うことだが、この地域にすむ「文明」の側の人びと、その生計を支えるのは、観光ということになっている。アマゾンの奥地まで出かけていって、野生生物を観光するのは、たしかに現代の人間のもとめることかもしれないし、それによってしか生計をたてることができなくなっているのが、本来のその地域の先住民の人びとということになる。こういうことについては、私は、なんとなく釈然としないものを感じる。アマゾンの自然はそのまま残し、そこに生きる人びとの生活がどうにかなるような方策はないものか。たとえアマゾンの原流域であっても、電気(太陽光発電)とスマホなしには、生活できないというのが、今の「文明」であることは確かなことであり、ここから後戻りできないことも事実ではあるのだが。

2025年1月9日記

ねほりんぱほりん「元チーター」2025-01-09

2025年1月9日 當山日出夫

ねほりんぱほりん 元チーター

再放送である。最初の放送は、二〇二三年一一月一〇日。

私はゲームはしない。まあ、子どもが小さかったときは、任天堂のゲーム機で遊ぶことはあった。思い出せば、任天堂の64でマリオのゲームで、その当時、数万円以下の値段で、これほどの3DCGを体験できるのかと、これは、ある意味で感動したものである。パソコンは、PC-9801の時代から使ってきているので、パソコンのゲームの黎明期のころから、それを横目で見てきたことは確かであるが。

オンラインゲームで遊ぶ人の気が知れない……というのが、率直な感想である。そんなものより、もっと面白いものが、世の中にはいっぱいあるだろうと思うのであるが、しかし、世の中に、それにはまる人がいてもおかしくはない。

興味深いと思ったのは、オンライン、ネット空間における、人間の心理ということになる。最近では、SNSと世論ということが言われているが、このような議論は、昔のパソコン通信の時代から、さまざまに語られてきたことである。

それから、オンラインゲームや、さらにチートなどの、経済規模はいったいどれぐらいなのだろうか。まともな決済……クレジットカードなどによる……以外に、仮想通貨による、裏の経済の領域というべきものが、かなりの規模になっているのだろうとは、想像できる。現代では、このような闇経済というべきものをふくめて、人間の経済活動や、経済の倫理、というようなことを考えなければならない時代になってきている、ということなのだろう。

2025年1月7日記