よみがえる新日本紀行「居付地蔵-熊本県五木村-」2025-03-14

2025年3月14日 當山日出夫

よみがえる新日本紀行「居付地蔵-熊本県五木村-」

再放送である。2024年。オリジナルは、昭和46年(1971)。

昭和46年というと、私が高校生のころになる。

まだ五木村が残っているということに、少し驚いた、というのが正直なところである。市町村合併で消えることはなかったことになる。(もし市町村合併があったとしても、地名としては消えることはないと思うが。)

川辺川ダムも、紆余曲折があるらしい。昭和46(1971)年の時点で、工事が着工されていて、知事が立ち退きとなる住民への説明をしていた。その後、建設が撤回されて、また、豪雨災害をきっかけに工事を進めることになったりと、かなりややこしいダムであるらしい。

郵便の配達から番組は始まっていた。郵便屋さん以外には、村落の間を行き来する人がいない、まさに寒村であったことになる。(これは、郵便屋さんの本来の業務ではないと思ったりもするのだが、制度的にはどうなのだろうか。ちなみに、最近のニュースでは、デンマークで郵便事業の中止ということがあった。この流れは、世界的にどうなるだろうか。)

オリジナルの昭和46年の番組の中では、焼畑農業を、原始的な農業と言っていたが、これを、現代の視点からは、持続可能な農業と言うことになっている。これは、最近の価値観の変化ということになる。

昭和46年の時点で、五木村は過疎の村であり、焼畑で作っていた雑穀があまり需要がなくなってきたとあった。日本での生活スタイルの変化もあり、地方から都市への人の移動があり、食事の面でも、お米の御飯が普通になってきた時代である。そういえば、貧乏人は麦を食え、と言った政治家がいたけれど、昭和40年ごろまで、お米のご飯は、贅沢品、はおおげさかもしれないが、ある程度の経済力があって食べられるものでもあった。私は、かろうじて、この時代のことを体験的に記憶している。

村の結婚式の披露宴の様子などは、貴重な記録かもしれない。

五木村は、確かに人口は減っているが、(これは全国的な問題なので、特に五木村が特殊ということではないだろうが)、なんとか存続できているようである。村の中学校の生徒が、子守唄を歌うシーンを見ると、この村もなんとか生きのびることができるかもしれないと思う。

「五木の子守唄」は、私は知っている歌であるが、いったいいつごろ憶えたものか、記憶がさだかではない。いつの間にか憶えて知っていた歌ということになる。(ただ、WEBで見てみると、「五木の子守唄」も、また、「竹田の子守唄」も、放送にあたっては、いろいろと問題があった歌のようである。今の、普通の人びとの感覚としては、特に問題はないと思えるのだが。)

番組の中で、焼畑の後に造林していたのだが、この時に植林した樹木は、もう数十年以上の樹齢ということになり、木材として出荷できるかどうかだと思うのだが、この村の林業は、これからどうなのだろうか。(担い手の問題と、経済的にやっていける価格が維持されるのかどうか、ということがある。)

昭和40年代は、やはり大きく日本で生活する人びとの暮らしが変わり、産業構造が変わっていった時代である。視点を変えれば、日本列島改造論が、それなりに説得力があった時代でもある。出稼ぎということが、日常的にあった時代でもある。この時代まで、自給自足で生活する人びとの暮らしが、残っていたことになる。これは、『忘れられた日本人』(宮本常一)の生活ということになるかもしれないが。

2025年3月12日記

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