映像の世紀プレミアム「難民 希望への旅路」2018-08-13

2018-08-13 當山日出夫(とうやまひでお)

NHK映像の世紀プレミアム第10集「難民 希望への旅路」
http://www4.nhk.or.jp/P4235/x/2018-08-11/10/33830/2899069/

昨日(8月11日)の夜の放送を録画しておいて、今日(8月12日)の昼間に見た。見て、何か書こうと思って、Googleで検索してみて、タイトルが「難民 希望への旅路」となっていることに、何かしらのとまどいを感じている。

番組を見た印象からするならば、誰も「希望」を感じて難民になどなっていない。NHKは、なぜ、このようなタイトルをつけたのであろうか。かといって、「絶望」とも表すことはできないだろう。

思いつくことをいくつか書いてみる。思いつくままにであるが。

スペイン内戦のときのヘミングウェイの声が残っていたのにはちょっと驚いた。私がこれまで読んだヘミングウェイの作品からは、難民の苦悩というようなものは、感じていなかったのだが。これは、読み方が浅かったというだけのことなのであろうか。

難民の歴史は、難民をどのように報じたかという歴史でもある。この意味で登場していた、二人のカメラマン……キャパと沢田教一。その作品は、これまでに本などで何度か目にしている。特に沢田教一の「安全への逃避」、これがアメリカ兵から逃れるシーンであったことは、認識を新たにした次第でもある。

第二次大戦の直前、ヨーロッパからアメリカを目指したユダヤ人を載せた船の話し。これは、たしか、映画化されていて、学生の時に見たかと覚えている。

それにしても、アインシュタインをすこし理想的に描きすぎてはいないだろうか。

番組(録画)を見ながら、はて、この番組は、どこで終わりになるだろうか、今でも世界中で難民の問題はある、どこに着地点をもっていくことになるのか、と思っていた。結局、沢田教一の写真の一件で、終わりにしていた。これはこれで、一つの編集の見識であると思う。今の世界のどこかの難民の姿で終わりにすれば、その加害者の側が誰かを最後に示して終わることになる。誰が悪いということで簡単に整理がつかないのが、難民問題である。難民問題は、ある意味では報復の連鎖の犠牲者でもある。ここを、どの場面で終わりにするか、難しいところであると感じる。最後は、ベトナム。たとえ難民になってもどこかの新しい国で生きていける、そんな「希望」を感じさせた。

この番組、気になったことを書いておけば、日本が登場しなかった。二〇世紀が難民の時代であるとして、では、日本は難民とどうかかわることになったのか、一切触れていなかった。日本の植民地支配の時代、日中戦争、太平洋戦争の時代、この時代も、日本が当事者となって難民を生み出した歴史が無かったということはないであろう。それが、日本人であるにせよ、現地の人びとであるにせよ。

また、太平洋戦争の終わり、ソ連侵攻にともなう満州の人びとのことも、ある意味では、難民といえるにちがいない。これについても、触れることがなかった。太平洋戦争の終わりのとき、外地にいた人びとのことも考えていいように思うが、どうだろうか。

今の国際社会の難民については、現代の日本も、間接的には当事者のひとつであるにちがいない。とはいえ、日本を難民問題の当事者として見る視点を導入して番組をつくることは、また難しいにちがいないが。ここは、あえてまったく日本を登場させない作り方を選んだのであろう。

その他、いろいろ思うところの多い番組であった。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。

名前:
メールアドレス:
URL:
次の質問に答えてください:
このブログの名称の平仮名4文字を記入してください。

コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/08/13/8940722/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。