『青天を衝け』あれこれ「栄一、京の都へ」2021-05-11

2021-05-11 當山日出夫(とうやまひでお)

『青天を衝け』第13回「栄一、京の都へ」
https://www.nhk.or.jp/seiten/story/13/

前回は、
やまもも書斎記 2021年5月4日
『青天を衝け』あれこれ「栄一の旅立ち」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/05/04/9373811

この回から、物語は一橋家編ということになるらしい。故郷の血洗島編は、前回で終わりということのようだ。

栄一と喜作は、京に出る。それにさきだって、円四郎のもとに行くのだが、どうもよくわからないというのが正直なところ。一橋家に仕えることになるのか、ただ、面識があるだけなのか、このあたりあいまいなままである。

が、ともあれ京の町に出て、円四郎と再会することになる。結果的には、一橋家に仕えるということになるようだ。(確かに、史実としては、一橋家に仕えているのだが。)ここのところは、円四郎に気に入られてということらしい。

それから、よく分からなかったのが、武士というもの。以前、江戸に出て武器を買いにやってきたときは、木刀をもっていた。刀ではない。それが、この回、円四郎の家をたずねて、それから京に向かうとなったときには、大小の刀をたずさえていた。れっきとした武士の姿である。

さて、この時代、農民であったものが、そう簡単に刀を差して今日から武士になりました、といえるものなのだろうか。たぶん、時代考証を経てのことだとは思うのだが、どうも、あまりにも簡単にいきすぎているような気がしてならない。(渋沢という名字があるということは、農民としても、名字帯刀を許されていた、という基盤があってのことかもしれないが。)

ともあれ、この回で、栄一たちは武士になった、ということなのだろう。そして、武士の目で見て、あるいは一橋家の家臣の目で見て、これからの幕末の時代を描くということになるはずである。結果としては、武士の世の中は終わることになるのだが、その歴史の結果が分かった目で見てみると、なぜここで栄一が武士にならなければならないのか、このあたりの流れが今一つ分かりづらいように思える。

次週以降、いよいよ幕末ということで物語は展開するようだ。楽しみに見ることにしよう。

五代友厚も出てきていた。渋沢栄一とどうかかわることになるのだろうか。

そして気になるのが、徳川家康。この回は、登場がなかった。もう出てこないのだろうか。

2021年5月10日記

追記 2021-05-18
この続きは、
やまもも書斎記 2021年5月18日
『青天を衝け』あれこれ「栄一と運命の主君」
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/05/18/9378726

すみれ2021-05-12

2021-05-12 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日は花の写真の日。今日はすみれである。

前回は、
やまもも書斎記 2021年5月5日
ミツバツツジ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/05/05/9374172

菫には、多くの種類がある。我が家の近辺では、少なくとも二種類の菫が確認できる。これも、専門的に見れば、あるいは、ちょっと外に出て歩いてみれば、多くの種類があるのかもしれない。

探してみると、菫だけを専門にあつかった本も出ている。そう専門的な本というわけではなく、一般的な本としてである。だが、もう今となっては、菫の種類の特定まで頑張ろうという気もなくなっている。春になって、家の駐車場やその近辺の空き地に、菫の花の咲くのを楽しみに見ている。

菫といって思い出すのは『万葉集』。学生のときに読んだ『万葉集』で覚えた。日本国語大辞典を見ると、その歌がのっている。次の歌である(日本国語大辞典にしたがって示すことにする。)

八・一四二四「春の野に須美礼(スミレ)採(つ)みにと来しわれそ野をなつかしみ一夜(ひとよ)寝にける〈山部赤人〉」

厳密に解釈しようと思うと難しいところのある歌である。春の野に出て、菫の花をもとめることの意味、また、そこで一夜をすごすことの意味については、いろいろと考えることができよう。だが、そのような学問的問題点があることをおいておいて、一読して、現代のわれわれが読んでも訴えるものがある。このあたりが、『万葉集』の面白さであり、また、同時に難しさなのであるが。

すみれ

すみれ

すみれ

すみれ

すみれ

Nikon D500
TAMRON SP AF 180mm F/3.5 Di MACRO 1:1

2021年5月11日記

追記 2021-05-19
この続きは、
やまもも書斎記 2021年5月19日
カリン
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/05/19/9379046

『明治波濤歌』(下)山田風太郎2021-05-13

2021-05-13 當山日出夫(とうやまひでお)

明治波濤歌(下)

山田風太郎.『明治波濤歌』(下)(ちくま文庫 山田風太郎明治小説全集10).筑摩書房.1997(新潮社.1981)
https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480033505/

続きである。
やまもも書斎記 2021年5月6日
『明治波濤歌』(上)山田風太郎
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/05/06/9374540

文庫本の上巻につづけて読んだ。若いときに新潮社版を読んだ記憶がある。再読になるのだが、もう昔のことである。さっぱり忘れてしまっている。

収録してあるのは、

巴里に雪のふるごとく
築地精養軒
横浜オッペケペ

どれも面白い。

「築地精養軒」に出てくるのは、エリスというドイツからやってきた女性。無論、「舞姫」である。が、この作品には、森林太郎は表だって登場してはいない。このエリスという女性をめぐっては、近代文学研究の方面からもいろいろアプローチのあるところだとは思うが、実際はどうだったかということは抜きにして、読んで面白い。精養軒を舞台にしての、ミステリになっている。

「横浜オッペケペ」は、タイトルから分かるとおり、川上音二郎と貞奴の話し。それに、野口英世がからんでくる。この作品、時代設定としては、他の山田風太郎の作品よりも、やや遅い時期にしてある。明治も後半というときである。山田風太郎は、明治の初めごろの、動乱の時代を主に描いている。が、この作品で描きたかったのは、川上音二郎と野口英世の、破天荒な生き方であったかと思う。野口英世は、医学の偉人というイメージもあるが、その実、借金踏み倒しと、あまりに自信過剰な生き方がとてつもない。まあ、だからこそ、偉人伝に名を残すような仕事をしたということもあるのであろうが。

川上音二郎も、野口英世も、やはり明治という時代とともにあった人物であると思える。この時代だからこそ、こんなメチャクチャな生き方もできたのだろう。

一般的にいうならば、彼らは明治の偉人の一人なのかもしれないが、しかし、社会の正統的な場面で生きて成功したということではない。その影の部分を多くひきずっている。この作品中に出てくる、夢之助という落語家の若者。その正体は……近代文学史にある程度知識があれば、途中でその正体は分かるのだが、彼もまた、日本の近代の影を生きた人物である。

山田風太郎の明治小説を読んで感じるのは、人間は時代とともにある、ということにつきるのかもしれない。その時代のなかにあって、突出して生きる人間もいるだろうが、時代の波のなかで影に生きることになる人間もいる。むしろ、日の当たらないところにいた、時代の流れのなかで不器用にしか生きられなかった人物に、まなざしをむけている。

2021年5月5日記

追記 2021-05-20
この続きは、
やまもも書斎記 2021年5月20日
『ラスプーチンが来た』山田風太郎
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/05/20/9379362

映像の世紀(7)「勝者の世界分割」2021-05-14

2021-05-14 當山日出夫(とうやまひでお)

MHK 映像の世紀(7) 「勝者の世界分割~東西の冷戦はヤルタ会談から始まった~」

続きである。
やまもも書斎記 2021年5月7日
映像の世紀(6)「独立の旗の下に」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/05/07/9374935

この回はヤルタ会談のこと。東西冷戦の物語であった。

私は一九五五年(昭和三〇年)の生まれである。まさに、戦後、東西冷戦のまっただなかである。記憶にある世界の情勢としては、国内はいわゆる五五年体制であり、国外は東西冷戦のまっただなか、そのような時代に生まれ育ってきたことになる。

思うことはいくつかあるのだが……私が学生のころだったろうか、ユーロコミュニズムということがいわれた時代があった。共産主義の賛美の一種である。ソ連や中共(このことばは今ではもう使わないことばになってしまったが)のような共産主義はよくない。しかし、東欧、東ドイツなどの共産主義はすばらしい、このような言説がまかりとおっていた時代がかつてあった。

それも、ベルリンの壁の崩壊以後の世界の情勢のなかで、その内実があきらかになり、ただの幻想にすぎなかったことが分かる。だが、このあたりの経緯について、検証した本はまだ読んでいない。

この番組が放送になったのは、一九九五年。ベルリンの壁の崩壊、ソ連の解体ということのあとである。このような時代になったからこそ、スターリンを描くことができたのかとも思う。また、東西冷戦下にあっての、プロパガンダ映画も、またその後の歴史をふまえてみるならば、貴重なものといえるだろう。

ルーズベルト、チャーチル、スターリン……この三人で、その後の世界を作ったことになる。東西冷戦は終結したとはいっても、このときの枠組みの影響は今にいたるまで残っている。日本が、戦後になって分割統治されることがなかった……ドイツのようにならなかった……これは、やはり僥倖というべきなのだろうと思う。

2021年5月12日記

追記 2021-05-21
この続きは、
やまもも書斎記 2021年5月21日
映像の世紀(8)「恐怖の中の平和」
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/05/21/9379679

プロジェクトX「国産コンピューター」2021-05-15

2021-05-15 當山日出夫(とうやまひでお)

NHK プロジェクトX 国産コンピューター ゼロからの大逆転

続きである。
やまもも書斎記 2021年5月8日
プロジェクトX「ホテルニュージャパン伝説の消防士たち」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/05/08/9375239

この回は、コンピュータ、それも大型計算機の開発の話し。

番組自体は、二〇〇二年の放送。すでに一般社会にPCが普及し、インターネットが広く使われるようになった時代である。そのときに、一昔前のこと、大型計算機の開発の物語であった。

番組の作りかがうまいということもあるが、弱小メーカーであった富士通が、世界の巨人IBMを相手にして、少なくとも、ハードウエアの点では、互角の勝負をしたというストーリー。そして、その開発の影にあった、伝説とでもいうべき技術者の生き方。

私の学生のころ、大学の講義で、コンピュータを習ったことはない。科目としてはあって、履修も可能ではあった。ただ、それは、三田で開講の講義としては、COBOL、あるいは、FORTRANであった。入力は、パンチカードの時代。生協のお店で、パンチカードを売っていたのを記憶している。

私が、コンピュータを使い始めたのは、その後、PCの時代になってから。個人で使えるものになってからである。

それはともかく、日本のコンピュータ開発の歴史の一コマを実に鮮やかに描いていた番組だと思う。まさに日本のコンピュータ開発秘話といっていいのだろう。

ただ、番組であつかっていなかったのは、ソフトウエアの話し。IBMが360を出して、コンピュータは、ソフトウエアをつかう道具になったといってもいい。そして、ソフトウエアの互換性を繞って、その後、熾烈な戦いがあったかと記憶する。その時々のニュースで見たのを覚えている。

今や、コンピュータが日常生活の隅々にまではいりこんでいる。これも見てみるならば、CPU、また、基本のOSは、アメリカ製。そして、製品の多くは、中国などの製造が多くなっている。日本のメーカーも頑張ってはいるのだろうが、どうも旗色はよくないようだ。(少なくとも、日常生活で使っている製品の目に見える部分では、そのように感じることが多い。)

今の日本のコンピュータのメーカや技術者にとって、この番組は、どのような思いで見ることになるのだろうかと思う。

2021年5月14日記

追記 2021-05-22
この続きは、
やまもも書斎記 2021年5月22日
プロジェクトX「厳冬 黒四ダムに挑む」
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/05/22/9380030

『おちょやん』あれこれ「今日もええ天気や」2021-05-16

2021-05-16 當山日出夫(とうやまひでお)

『おちょやん』最終週「今日もええ天気や」
https://www.nhk.or.jp/ochoyan/story/23/

前回は、
やまもも書斎記 2021年5月9日
『おちょやん』あれこれ「うちの大切な家族だす」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/05/09/9375603

このドラマは、傑作といっていい。半年の間、充実した内容だった。

思うことを書いて見る。二点ほどである。

第一に、このドラマは、家族のものがたりであること。

家族の物語といっても、千代に家族があったわけではない。生まれた家は、家庭とはいえない状態だった。幼くして奉公に出される。その奉公先……道頓堀の芝居茶屋の岡安……においても、千代はすぐにとけこむことができなかった。ようやく岡安になじんだかと思う頃、京都に行くことになる。カフェーの女給をしながら、映画に出て女優として仕事をする。それもまた道頓堀に帰って、舞台女優になる。一平と一緒になるものの、それも長続きしない。また、京都に行くことになる。そこには、栗子と春子がいた。三人で暮らす生活があって、ラジオドラマに出ることになる。最後は、また道頓堀にもどって一平たちと舞台にたつ。

このドラマ、千代という女性の不幸の連続である。家庭らしい家庭があったのは、大阪で一平たちと暮らしていたわずかの間、また、京都で栗子たちとのしばらくの間、これぐらいだろうか。

だが、このドラマには、たえず家族というもの存在を感じさせるところがあった。奉公に出された千代にとっては、岡安が自分の家であり、京都にいたときは、カフェーの仲間がいた。鶴亀の劇団もまた、千代にとっては大事な仲間である。ラジオドラマの出演者たちも、家族同然である。そして、最後には、春子をひきとって暮らすことになる。

一方、千代を裏切ることになった一平についても、家庭というものを知らずに育ってきた。その一平は、灯子と新しい家庭をきずくことになる。

特に幸せな家族が登場してきているということではないのだが、しかし、見ていて、千代のいるところの仲間の人びとは、千代にとって家族のようなものであった。不幸のどん底にいるような状態であっても、千代にはそれを見守ってくれる人びとのまなざしがあった。

これは、擬似的な家族なのかもしれない。その周囲の人びとのあたたかさに守られて、女優としての千代の姿があったと思う。

第二に、ことばの問題。

BK制作の、大阪を舞台にしたドラマである。途中で、ちょっとだけ京都の場面があり、最後には千代は京都で春子と暮らすことになるのだが、主な舞台は、大阪、それも、ほぼ道頓堀とその界隈である。そこで話される、大阪弁が、このドラマでは、実に美しいひびきがあった。

大阪のことばというと、どぎついイメージがあるのだが、それを、このドラマでは、道頓堀の人情味のあることばとして、きわめてうまくつかっていたと思う。人間の情感をこめたことばとして、大阪弁が効果的につかわれていた。

以上の二点ぐらいを、まず思って見る。

さらに書いてみるならば、小道具と伏線のたくみさがある。ビー玉、母親との写真、「人形の家」の台本、栗子の三味線……など、ドラマの全編を通じて、非常にたくみに使われていたと感じるところである。

とにかく、このドラマは、人間の喜怒哀楽の情感をこまやかに描いていたと思う。不幸な境遇にあるヒロイン、だが決して、人を心底から恨むことはない。最後には、その存在をみとめて許容している。そして、そのヒロインの周囲にいる人びとの、やさしいこころづかい。情感のきめこまやかな描写が、このドラマの大きな部分をしめていた。

そして、ドラマの作り方としては、劇中劇がたくみにつかわれていた。ドラマのストーリーが、劇中劇に融合しいく、あるいは逆に、劇中劇がドラマに投影される。そして、劇中劇での演技、演出もまたたくみであったと感じる。

概していえば、千代は、決して幸福で順調であった人生ではないが、その生き方に、見ていて共感するところがある。何度も千代がいった台詞……「明日もきっと晴れや」、これは、人を勇気づけることばである。

思えば、このドラマは、COVID-19で世の中が騒然としている時期に放送のあったドラマであることになる。不要不急のことは避けるようにと声高にいわれていた。そのなかにあって、芝居という、まさに不要不急のことに人生をかけたヒロインの生き方は、多くの視聴者の共感を得るものがあったと感じる。

さて、次週からは、新しいドラマ『おかえりモネ』がはじまる。これも、楽しみに見ることにしようと思っている。

2021年5月15日記

オンライン授業あれこれ(その二四)2021-05-17

2021-05-17 當山日出夫(とうやまひでお)

続きである。
やまもも書斎記 2021年5月10日
オンライン授業あれこれ(その二三)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/05/10/9375974

オンライン授業といっても、オンデマンド方式。学生が、自由な時間に、自由に教材にアクセスして見るという方式である。このとき、選んだ方式としては、パワーポイントのスライドショーの送信ということにした。(大学のすべての授業がオンラインになったわけではないので、リアルタイムの双方向通信ではできない。)

パワーポイントのスライドショーには、音声解説をつけられる。それを、動画像(MP4)に変換して、YouTubeに限定公開の設定でアップロードする。これは、指定したURLから見ることが可能になる設定である。

学生には、通常の授業があったときのプリント(A4で二ページ)と、その解説(A4で二ページ)を、送信しておく。これは、Word文書と、PDFと、同一内容で送る。このときに、YouTubeのURLも記載しておく。

この方式ならば、最低限、スマホしか持っていないような学生でもどうにかなる。あるいは、自分のPCが無いとしても、たぶん大学のPC教室の利用などでどうにかなるだろうと思う。

このときのパワーポイントの使い方としては、あえて最もシンプルな方式をえらんだ。プリントに書いてあることから、一つの項目、あるいは、一つのパラグラフを、コピーした文字だけのスライドにした。特に、アニメーションなどはつけない。ある程度のまとまりがあって、文字の大きさが、読みやすければそれでよいとした。

スライドショーでは、原則的に、各スライドに書いてあることだけを、読んで解説することにした。この路線をはずれないように意図的にしている。

通常の授業があった場合であれば、プリントを読んで解説しながら、横道にそれて話しをしたりということが多々あるのだが、それは一切しないことにした。単に、スライドを読み上げて説明するだけである。

こうした理由は二つある。

第一には、もし、YouTubeを見られない、配布のプリントを読むだけ、という学生がいたとしても、不利にならないようにするためである。YouTubeを見るのと、プリントを読むのと、同じだけの情報がつたわるようにした。

第二には、教材のスライドショーをつくるときの負担の軽減である。ただ、PCの画面に向かって話しを一時間つづけるというのは、相手の顔が見えない、反応がわからないということで、困ることになる。これを避けるためには、基本路線として、各スライドに書いてあることのみを説明するということに決めておくと、気分的に楽になる。

以上の二つの理由で、あえて最もシンプルなスライドショーとして、作ることにした。

これも凝ろうとおもえば、いくらでも凝ったものを作ることができる。しかし、そのために労力を費やす気にはもうなれないでいる。アニメーションなど多用して凝ったスライドを作れば、つくれるだろう。あるいは、文字の配色なども、変えることもできよう。だが、そんなことは一切しないことにした。

ただ、配布したプリント(Word文書、PDF)と同じことを語るのみとした。

また、パワーポイントを使うことにした理由としては、編集が簡単だということもある。スライドショーの各スライド単位で、音声データが記録される。編集しようと思えば、各スライド単位での操作ということになる。

これが、動画像をカメラでとって、後から編集ソフトで編集してということになると、作業量が膨大なものになる。(そこまで、こちらのエネルギーをついやす義理は無いというのが、正直なところでもある。時間があるなら、本を読むことに使いたい。)

また、これは、昨年度の経験でも分かっていることだが、無理に動画配信などしても、それで学生の教育効果にすぐつながるものではないということがある。逆に、シンプルに文字、文章を基本として、プリントの送信ということだけでも、十分な学習につながることも確認できた。(学生のインターネット接続環境によっては、動画配信はしてほしくないという声もある。)

課題は、四回のレポートである。これも、ただプリントを丸写しにしただけのものは認めない。配布したプリントを自分で読んで、自分のことば、文章でまとめるものとしてある。そのためには、配布のプリントをとにかく読むことになるはずである。おそらく、これが、一番の勉強になる。それを文章に書くということが、勉強である。

与えられた課題について、文章を読んで書く、これが勉強の基本となることだろう。この基本に忠実であろうとすると、あえてシンプルな方式の方が望ましいともいえる。

教える側の問題としては、どのような教材プリントで、どのようなことを伝えるのか、ということと、何を課題(レポート)とするか、このバランスがうまくとれればいいのである。

2021年5月16日記

追記 2021-05-24
この続きは、
やまもも書斎記 2021年5月24日
オンライン授業あれこれ(その二五)
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/05/24/9380647

『青天を衝け』あれこれ「栄一と運命の主君」2021-05-18

2021-05-18 當山日出夫(とうやまひでお)

『青天を衝け』第14回「栄一と運命の主君」
https://www.nhk.or.jp/seiten/story/14/

前回は、
やまもも書斎記 2021年5月11日
『青天を衝け』あれこれ「栄一、京の都へ」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/05/11/9376347

栄一は、徳川慶喜の家臣になった。ここで、ようやくこのドラマの最初のシーン、馬に乗る慶喜とそれに直訴する栄一の場面にもどったことになる。ここから、栄一と慶喜の人生が交わることになる。

思うことを書いてみる。二点ほどある。

第一に栄一である。

この回で、一橋家の家臣ということなる。ここで気になるのは、江戸時代の身分制度。農民……といっても、名字を許されている豪農といっていいのだろうが……が、いきなり、刀を二本さして、今日から武士である、そう簡単になれるものなのだろうか。その手続きなど、どうなっていたのだろうか。

このあたりは、時代考証をふまえての脚本になっているのだろうと思うが、ドラマの進行上としては、徳川家康か、あるいは、ナレーションの守本アナにでも、解説してもらいたいところである。

ようやく一橋家の家臣になったとはいうものの、その志は、まだ持っているような、あるいは、どこかに消えてしまうような、そんなところがある。これから、栄一たちは、一橋家でどのように生きていくことになるのだろうか。

それにしても、農民出身である設定の栄一と喜作であるが、米の炊き方も知らなかったというあたりは、ちょっと笑わせるシーンであった。

第二に慶喜である。

慶喜は、将軍家として、島津と決裂する。だが、歴史の結果としては、島津はこの後討幕ということになり、慶喜……この時には将軍になっているのだが……大政奉還ということで、政権を投げ出してしまうことになる。このような歴史の結果がわかって見ると、この回で描いていた慶喜は、徳川を一身に背負って奮闘している。幕府をなんとかささえようとしている。

これが、これから明治維新ということになって、慶喜の心中がどのように変化していくことになるのか、そこをどう描くのか、興味深いところである。

以上の二つぐらいのことを思って見る。

ところで、栄一はいっていた……一橋の家は質素である、と。たぶん、そうだったかのかもしれないが、ドラマの製作としては、栄一の故郷の血洗島の村のセットを作るために予算を使ってしまったので、一橋家の屋敷まで手が回らなかったということなのだろうと思ってみていた。

ドラマは、いよいよ幕末の大きな流れのなかに突入することになる。このあたり、徳川家康の解説は、非常にうまく説明していると思う。

さて、次回は、栄一と薩摩藩とのかかわりということになるようだ。楽しみに見ることにしよう。

2021年5月17日記

追記 2021-05-25
この続きは、
やまもも書斎記 2021年5月25日
『青天を衝け』あれこれ「篤太夫、薩摩潜入」
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/05/25/9381013

カリン2021-05-19

2021-05-19 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日は写真の日。今日はカリンの花である。

前回は、
やまもも書斎記 2021年5月5日
すみれ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/05/12/9376680

今年もカリンの花が咲いた。

ただ、この花の写真は難しい。葉っぱが茂った奧の方で咲くものがある。また、木の高いところに咲く。地面にたって、三脚のセットした望遠レンズ(180ミリ)では、なかなかうまく撮ることができない。

比較的低いところに咲いている花を探すのだが、それも見るときれいに咲いているものは少ない。

掲載の写真は、先月のうちに撮っておいたものからである。

今年は、梅雨が早くはじまって雨の日が多い。例年なら、五月の連休明けのころ、庭の池のところの紫蘭の花が咲くのだが、今年は、雨にぬれたままである。ちょっと歩いてみると、ウツギやスイカズラの花が咲きはじめている。もうしばらくすると、クチナシの白い花が見られるだろうか。カナメモチの白い花が咲いている。

朝起きて、雨が降っていなければカメラと三脚を持って、外に出る。今年は雨が多そうな気がするが、身の周りの花の写真は、なんとか撮れるかと思っている。

カリン

カリン

カリン

カリン

Nikon D500
TAMRON SP AF 180mm F/3.5 Di MACRO 1:1

2021年5月18日記

追記 2021-05-26
この続きは、
やまもも書斎記 2021年5月26日
キュウリグサ
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/05/26/9381364

『ラスプーチンが来た』山田風太郎2021-05-20

2021-05-20 當山日出夫(とうやまひでお)

ラスプーチンが来た

山田風太郎.『ラスプーチンが来た』(ちくま文庫 山田風太郎明治小説全集11).筑摩書房.1997(文藝春秋.1984)
https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480033512/

続きである。
やまもも書斎記 2021年5月13日
『明治波濤歌』(下)山田風太郎
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/05/13/9377026

これは読んだ記憶がある。若いときのことである。たしか、ラスプーチンという名前は、この本で覚えたのではなかったろうか。

これまで読んできた山田風太郎の明治小説は、虚実がいりまじっている。架空の登場人物もいれば、そのなかに実在の人物が出てきて、おもわず驚くという趣向になっていることが多い。この作品も、多くの実在の人物が登場するのだが、中に仮名となっている人物がいる。下田歌子である。これはどうしてなのかなと思って読むのだが、解説(津野海太郎)によって、なんとなく事情が察せられる。

主人公といっていいのは、明石元二郎。後年、日露戦争のときには、日本のスパイとして活躍することになる。その若いときの姿として登場する。他には、乃木希典や、長谷川辰之助(二葉亭四迷)も出てくる。

事件のクライマックスというべきは、大津事件。ロシア皇太子襲撃事件である。その顛末をめぐって、波瀾万丈の大活劇が東京を舞台にくりひろげられる。

ところで、ラスプーチンであるが、最近、この人物の映像をテレビで見た。「映像の世紀」(NHK)で登場していた。ただ、それが確かにラスプーチンであるという確証は無いとのことであったが。

この小説で描いているのは、明治という時代に生きた「化物」である。その代表が、日本にやってくることになったラスプーチンということになる(無論、このあたりのことは、山田風太郎のフィクションである)。そして、それ以外に、多くの「化物」が登場する。たとえば、内村鑑三、児島惟謙なども、山田風太郎の目で見るならば、明治という時代の「化物」ということになる。

史実をふまえながらも、荒唐無稽であり、同時に、透徹した歴史観を感じる。山田風太郎の明治小説の傑作といっていいだろう。ただ、この本は、今は品切れのようである。ちくま文庫以外の文庫版も出ていないようだ。ちょっと惜しい気がする。

この本を読んだら、二葉亭四迷の『あひびき』を読んでみたくなった。これも、若いときに読んだはずの作品である。

2021年5月8日記

追記 2021-05-27
この続きは、
やまもも書斎記 2021年5月27日
『明治バベルの塔』山田風太郎
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/05/27/9381702