「命の離島へ 母たちの果てなき戦い」2024-07-02

2024年7月2日 當山日出夫

新プロジェクトX 命の離島へ 母たちの果てなき戦い

沖縄の公衆衛生看護婦の話し。

本筋とは関係ないことなのだが、昭和二〇年の沖縄戦の記録映像からはじまっていた。これはアメリカ側が撮影したものである。カラー映像である。最近、昔の白黒影像をカラー化することがよく行われる。私は、これにはあまり賛成できない。もとの影像が、カラーフィルムを使っていることそれ自体が、貴重な資料的意味をもつと考えるからである。この当時、日本側が撮影したものでカラーはないはずである。(あるいは、あるのかもしれないが、見たことはない。)

その目の前に人間がいることがわかっていながら、火炎放射器の炎を向けるということが、やはり何度見ても、戦争というものの残酷さを象徴しているように感じる。

沖縄が戦後、一九七二年の返還まで、どのような法的制度のもとにあったのか、これが実はよく知られていないことかもしれない。たぶん、専門家にとってはよく分かっていることなのかとも思うが、一般的な書物やテレビ報道などでは、あまり解説されることがない。アメリカ軍の横暴と住民の悲惨な生活ということは、大きく語られるのであるが。

医師が不足している。離島が多い。そのような状況下にあって、公衆衛生看護婦の駐在ということは、理にかなった方策であったにちがいない。では、なぜ、沖縄復帰のときに、日本政府は、これをそのまま継承しようとしなかったのか、その理由を知りたい。結果的には、制度が残ることになったのではあるが。

家に結核患者がいる場合、医療関係者を家に入れようとしない。その当時の価値観としては、そうだったのだろうと思ってみることになる。別の角度から見るならば、沖縄の古くからの人びとの因習的な生活ということになる。

結果的には、ストレプトマイシンの普及によって、治る病気ということで、患者数が減っていくことになる。これは、日本本土においても、似たようなものだったかと思うのだが、結核治療の戦後史というのは実際どうだったのだろうか。

印象に残るのは、看護婦だった女性の子どもで、ポリオの影響で体が不自由にもかかわらず、アメリカに渡り医者になったという話し。どういう人生だったか想像すらできないのだが、こういう人もいるのか、と感じるところがあった。

この番組でこころに残ることは、人間は利他的に生きうるものである、ということかと思う。人のためにつくす仕事があり、それに人生をささげる。今の時代の価値観にはそぐわない考え方かもしれないが、このように生きた人たちがいたということは、記憶にとどめられるべきだと思う。年収いくらかせぐのが人生の成功である、というような言説がひろまっている時代にあって、数十年前の沖縄の看護婦の女性たちの生き方をふり返ってみるべきである。

2024年7月1日記

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