「#壁を撮る人」 ― 2024-07-04
2024年7月4日 當山日出夫
ドキュメント20min. 「#壁を撮る人」
まず、見ていて、写真としてとてもいい。ただ、壁が映っているだけなのだが、そこからいろんな想像がわいてくる。あるいは、ただ、それがそこにあることを見ていられる。
なるほど、こういう写真の撮り方もあるのか、と考えるところがある。
そして、この番組自体が、見ながら考える余裕を持たせて作ってある。このごろ、こういう作り方の番組が少なくなってきたかもしれない。頻繁に影像を切り替えて、扇情的なナレーションを入れて、見ているものに考える時間を与えない、そのような作り方の番組が目立つようになってきた。
あえて、時間に余裕を持たせるように編集して作ってあることになる。これはこれで一つの考え方である。
壁の写真なのだが、そこから街やそこに住む人、生活の歴史のようなものが見えてくる。このような写真があり、それが発表できる場所としてSNSがあるということである。
見ていると、そう高額な機材を使っているというのではない。やはり、写真は、それを撮る人の感覚である。
2024年7月2日記
ドキュメント20min. 「#壁を撮る人」
まず、見ていて、写真としてとてもいい。ただ、壁が映っているだけなのだが、そこからいろんな想像がわいてくる。あるいは、ただ、それがそこにあることを見ていられる。
なるほど、こういう写真の撮り方もあるのか、と考えるところがある。
そして、この番組自体が、見ながら考える余裕を持たせて作ってある。このごろ、こういう作り方の番組が少なくなってきたかもしれない。頻繁に影像を切り替えて、扇情的なナレーションを入れて、見ているものに考える時間を与えない、そのような作り方の番組が目立つようになってきた。
あえて、時間に余裕を持たせるように編集して作ってあることになる。これはこれで一つの考え方である。
壁の写真なのだが、そこから街やそこに住む人、生活の歴史のようなものが見えてくる。このような写真があり、それが発表できる場所としてSNSがあるということである。
見ていると、そう高額な機材を使っているというのではない。やはり、写真は、それを撮る人の感覚である。
2024年7月2日記
「キャンベル“千の顔をもつ英雄” (1)神話の基本構造・行きて帰りし物語」 ― 2024-07-04
2024年7月4日 當山日出夫
100分de名著 キャンベル“千の顔をもつ英雄” (1)神話の基本構造・行きて帰りし物語
今から半世紀ほど前、三田の学生のとき、宮家準先生の講義で文化人類学の話しを聞いたことを思い出す。考えてみれば、宗教社会学という分野の専門家であった宮家先生なら、この本のことを知っていて授業の内容に取り込んでいたのかもしれないと思ったりもする。
集団の無意識ということは、民俗学のことばでいいかえるならば、心意伝承ということができるかもしれない。
学生の時、民俗学の本を読むことがあったが……というよりも、折口信夫の本ということになるのだが……日本神話については、あまり関心を持たないできている。無論、『古事記』も『日本書紀』も読んだ。『古事記』は、全文(漢字だけの本文)をパソコンに入力してみたこともある。
私の古代文学への関心は、記紀の神話よりも、むしろ『万葉集』の方にあった。また、神話よりも、中世の説話や御伽草子の類に興味があったことになる。
今から思い返してみれば、神話という場合には、その基底に神々、あるいは、唯一の神への、信仰がなければならない。古代の人びととにも信仰があったことは確かだろうが、それを、古代ギリシャの信仰と同じように考えていいのか、よくわからなかったということがあった。まあ、このあたりのことは今でもまったく分からないといえばそれまでである。
日本の古代の人びとの信仰について、考えるとき、書物として整備され編纂された『古事記』『日本書紀』が、どの程度信用できるものなのか。それは、現代の科学で明らかになりつつある、日本人の起源にかかわる研究とどう関係するのか、気になるところではある。
このようなことを思ってはいるのだが、今日の視点から、比較神話学というような学問分野で、どう考えることができるのか、ということは興味がある。
ところで、神話の話しのなかで、ブッダのことが出てきたのは、ちょっと意外な感じがするというのも、正直な感想である。仏伝は、たしかに伝承であり、かなりの創作が加わっているものには違いないと思うが、それを一般的な神話伝承の物語のパターンで理解しようとするのは、なにか抵抗を感じるところがある。いや、それよりも、その物語を受け取る人間の側に、どのようなパターンなら受容しやすいかということがあるのだろう。この意味では、仏教だけではなく、他の宗教についても、同じように考えることになるのかとも思う。
2024年7月3日記
100分de名著 キャンベル“千の顔をもつ英雄” (1)神話の基本構造・行きて帰りし物語
今から半世紀ほど前、三田の学生のとき、宮家準先生の講義で文化人類学の話しを聞いたことを思い出す。考えてみれば、宗教社会学という分野の専門家であった宮家先生なら、この本のことを知っていて授業の内容に取り込んでいたのかもしれないと思ったりもする。
集団の無意識ということは、民俗学のことばでいいかえるならば、心意伝承ということができるかもしれない。
学生の時、民俗学の本を読むことがあったが……というよりも、折口信夫の本ということになるのだが……日本神話については、あまり関心を持たないできている。無論、『古事記』も『日本書紀』も読んだ。『古事記』は、全文(漢字だけの本文)をパソコンに入力してみたこともある。
私の古代文学への関心は、記紀の神話よりも、むしろ『万葉集』の方にあった。また、神話よりも、中世の説話や御伽草子の類に興味があったことになる。
今から思い返してみれば、神話という場合には、その基底に神々、あるいは、唯一の神への、信仰がなければならない。古代の人びととにも信仰があったことは確かだろうが、それを、古代ギリシャの信仰と同じように考えていいのか、よくわからなかったということがあった。まあ、このあたりのことは今でもまったく分からないといえばそれまでである。
日本の古代の人びとの信仰について、考えるとき、書物として整備され編纂された『古事記』『日本書紀』が、どの程度信用できるものなのか。それは、現代の科学で明らかになりつつある、日本人の起源にかかわる研究とどう関係するのか、気になるところではある。
このようなことを思ってはいるのだが、今日の視点から、比較神話学というような学問分野で、どう考えることができるのか、ということは興味がある。
ところで、神話の話しのなかで、ブッダのことが出てきたのは、ちょっと意外な感じがするというのも、正直な感想である。仏伝は、たしかに伝承であり、かなりの創作が加わっているものには違いないと思うが、それを一般的な神話伝承の物語のパターンで理解しようとするのは、なにか抵抗を感じるところがある。いや、それよりも、その物語を受け取る人間の側に、どのようなパターンなら受容しやすいかということがあるのだろう。この意味では、仏教だけではなく、他の宗教についても、同じように考えることになるのかとも思う。
2024年7月3日記
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